2007年03月29日

『リアル・フィクション』、それは現実か?虚構か?

リアル・フィクションリアル・フィクション/Touche pas à la femme blanche/2000年/韓国/84分/キム・ギドク

映画における現実と虚構、この形而上学的な問題にキム・ギドクがどんな答えを出すのか、この『リアル・フィクション』という映画のラストシーンにそれが込められていたのかどうかは観る人間によって異なってくるでしょうが、驚くべきは、この時すでに、キム・ギドクは『魚と寝る女』を撮りあげていたということです(公開の順番は逆)。同じ年に全くスタイルの異なる映画を撮ったキム・ギドクですが、嘗て彼自身が定義していた3つの分類法、すなわち、クローズアップ映画・フルショット映画・ロングショット映画というカテゴライズのいずれにも、『リアル・フィクション』は属していなかったということもまた興味深い。それはもしかすると、『リアル・フィクション』でのキム・ギドクが、それぞれ別の助監督が監督した12のシークエンスを最終的に纏め上げた“総監督”としての立場だったことと無関係ではないのかもしれません。いずれにせよこの『リアル・フィクション』という映画は、たった3時間20分で撮られた、極めて野心的な意欲作であることに間違いないと思います。

本作に漂う抽象性は、どちらかというと最近の『うつせみ』や『弓』あたりにも通じるものかもしれないと思いました。現実とは何か。虚構とは何か。それらを映画において掴むことが可能か否か。現実であり虚構でもある映画というシステム内で、現実と虚構の境界線があるならそれを暴き立て、場合によっては消滅させること。映画作家である以上避けては通れないとも思われるこの問題意識に、キム・ギドクはデビュー4年目で挑んだのだ、と言う風に私は解釈したいと思います。

35mmカメラとデジタルカメラ合わせて18台のカメラが、本作では使われています。その画質の差に誰しもが気づくでしょうし、その差にこそ監督は、現実“めいたもの”と虚構“めいたもの”を対応させていたのでしょう。本作を観る限り、デジタルカメラを手にした少女に撮られている間のみ、主人公は現実ならざる場所にいるという暗黙の了解があるかのように思えました。それがフィクションだとするなら、35mmカメラで撮られた“現実風景”こそがリアルだということにもなるのでしょう。しかし最終的にキム・ギドクは、『リアル・フィクション』がそのような分りやすい構図に収まてしまうことを避けたようです。全てが音を立てて崩れ落ちてしまうかのようなあのラストシーン、ある意味投げやりで、ある意味深いあのラストシーンを観て、私はそのように思いました。

被写体は撮られた瞬間に虚構と化す、という見方もあれば、リアルとフィクションとを別ものだという見方もあります。そのどちらが正しいとか間違っているなどと言いたいのではありません。ただ私にとって映画とは、その現実の中に虚構があり、またその虚構の中に現実があり、相互が不定形に混ざり合って境界線自体を不断に変形させ、消滅させてもいるような錯覚を与えてくれるものです。その優劣を決めるなど馬鹿馬鹿しい。全てが真実だって全てが作り物だって構わないのですが、そこに私が何を見たのか、それにどう反応したのかが重要なのです。

キム・ギドクは本数を重ねるごとに洗練されてきているという印象がありますが、こういう作品を観てしまうと、やはりそう簡単に安心させてくれそうにもないなとも思うのでした。


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2007年03月29日 13:23 | 邦題:ら行
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