2004年09月29日
cinamabourg* Ver.3
本日昼に、またまたマイナーチェンジした当サイトですが、いったいどこが変わったのかと言うと、左のメニュー部分を少々。blog化して以来、日々更新するblog部分と、比較的長文の作品評(htmlで書いています)との2本立てでやってきましたが、このところ、日々の日記(というよりコラムに近いですが)に掲載する映画評の長文化に拍車がかかり、それはいい作品に出会ったということに他なりませんから一先ず喜ぶべきことなのですが、これまで自分の中で暗黙の了解的に区別されていたblogと作品評の曖昧な境界線が、ほとんど無意味になってきたような気がしたのです。作品評にはその都度書下ろしのイラストを掲載したり、あえてblogと区別するために常体で書いてみたりしたのですが、検索エンジンへの掲載速度や掲載順、アクセス数などを考えても、blogと作品評の間には大きな隔たりが出来つつありまして、まだ5本くらいしか書いていない作品評など無かったことにして、blogの1エントリーへとして再編成してしまおうと、まぁこういうわけです。
その変わりに、もともと作品評へのリンクとしてあった“reviews”のコーナーに、blogの各エントリーへのリンクを張り、作品ごとにblogを閲覧できるようにしました。初めて当サイトに来た方は、映画の作品名があってそこにリンクがはってあれば、リンク先にはその映画について何らかの文字列が並んでいるんだと容易に了解されるでしょうし、また、各エントリーへの直リンが増えれば、それが検索エンジン最適化にも一役買うだろうと。
ただ問題もあって、まずは5本あった作品評を丁寧語に修正しなければならないことに加え、どうしても加筆・修正しなければならない箇所が出てくるということ。一先ず丁寧語への変換は終了したものの、細かい修正はまだこれからです。例えば“アデュー・フィリピーヌ”というリンクをクリックしても、“『アデュー・フィリピーヌ』に感動しつつ憤らなければならない不幸”という、およそ作品評とは程遠い、単なる憤りを表明しただけのテクストしかそこにはないわけで、こういった場合、この“アデュー・フィリピーヌ”というリンクごと削除してしまうか、やはり相応しい作品評を新たに書き下ろすかのどちらかになります。多分後者を選択すると思いますが、それはいつになるのやら…と言った感じです。また、後からblogに加わった5作品については、たとえ丁寧語に変換したとしても、その文章量やテンションが大きく浮いた存在になっていますし。少しずつ手を入れていくしかないですね。
とりあえず、作品評については今後、1エントリー1作品に限定しテクストを綴っていこうかと思います。で、今週はラス・メイヤーとかその辺を。
最後に今になって激しく実感していること。それは、新作の上映にかまけて吉田喜重特集を見逃すという愚挙にほかなりません。気づいた時にはもう遅い……やっとユスターシュを観られたと思ったらこの有様です。自らの鈍重な行動力にひたすら頭をたれる水曜日でした。
2004年09月28日
『珈琲時光』、どこでもない不自然な空間
ユーロ・スペースにて公開2日目の『珈琲時光』を。前日の公開初日に訪れた際、運悪く、浅野氏の舞台挨拶とバッティングしてしまい、その情報を知らなかった私は入り口まで行くも、やはり諦めました。浅野氏をこの目で見たいという気持ちが無いわけではありませんが、それより何より、予想される人ごみにどうしても耐えられないだろうという気持ちの方が強かったのです。『珈琲時光』のような緩やかな映画は、緩やかな気持ちで鑑賞したいですから。
さて『珈琲時光』ですが、この映画にどうしても“小津的記号”を読み取らないと気がすまない人達にとって、さらに言えば、映画にカタルシスを求める人達にとって、随分と冗長で退屈な印象を与えるのではないでしょうか。“侯孝賢による21世紀版『東京物語』”などと宣伝されていたことを考えれば、そんな反応があるのも止む無しという感がありますが、小津に対するオマージュが、“小津調”として画面に現われなければならない理由などありませんし、小津的な家族の描写や未婚の娘の心象をそのまま反復しなければならない理由もないのです。だとすれば、『珈琲時光』は、“侯孝賢が現代の東京を舞台として撮った映画”として純粋に観る必要があるのではないでしょうか。その上で『珈琲時光』を退屈と言おうが中途半端と言おうが、それはあくまで“好み”の問題ということになるでしょうが、ここで私の“好み”に立ち返れば、『珈琲時光』は東京を表す記号が随所にちりばめられていながら、私が知っている東京とは結びつかない、言ってみれば“どこでもない空間”がそこにあり、物語上重要だと思われる部分にあえて結論を出さず、観客を宙吊りにしたままなおもしかるべき描写によって感動させもする、大変興味深い作品でした。
一青窈と小林稔侍、余貴美子が雑司ケ谷にある一青窈の住まいで肉じゃがをつつく感動的なシーンを観て、小津的な父親像と現代的な父親の態度との“差”に注目するのも決して無駄な試みだとは思いませんが、小林稔侍の沈黙と、その沈黙ゆえに肉じゃがを食べずにはいられないという、緊張感極まる即興演出(といっても、ここでの小林稔侍は、本来言うべき台詞をあえて沈黙に変えて見せたらしいのですが)に感性を揺さぶられる方を、私は選びたいと思います。小津が常に“現在(それは家族のあり方であり、また風俗でもありました)”を描いていたように、侯孝賢もまた“今そこにあるものの変化”をこそ描いていたのですから、この点で二者に共通点を認めはするものの、やはり比較にどれほどの意味があるのか、甚だ疑問です。
見慣れているはずの東京の風景が溢れているように見えなくも無い『珈琲時光』ですが、毎日のように目にしているはずの山手線や中央線が走る景色の、あの“不自然さ”はどこから来るのか。やはり学生時代に毎日通っていた御茶ノ水や神保町ですが、何故、初めて見たような錯覚を感じたのか。不思議と言うほか無い“既視感”の不在。これが『珈琲時光』をことの他印象深い映画にしていたように思われます。
大都市を表す記号としての高層ビル群がほとんど見られず(ここでは銀座ですら、いわゆる銀座としてのイメージからは遠かったと思います)、下町的な風情が漂う鬼子母神や三ノ輪、神保町の路地などにそのロケーションの重きを置いたことが、私が見慣れた“近代的都市としての東京”との差異を表していたが故にそう感じたのでしょうか。恐らくそうではなくて、『珈琲時光』に描かれていた東京は、それがまぎれも無く侯孝賢にとっての東京だったからだと思います。インタビューを読んでみて、監督にとって東京と電車と車窓(=風景)は絶対に切り離せないのだと知りました。まさにこの事実が『珈琲時光』の不自然さを生んでいたのです。風景が見えないから地下鉄が登場しない。逆に風景があるからこそ、不自然に遠回りさせてでもそれを切り取る。かような侯孝賢的東京感は、結論を出さず物語の上で観客を宙吊り状態に置く手法とも相まって、私を動揺させました。つまり、感動的だったと換言出来ますが、優れた映画は時に、観る者を宙吊りにする残酷さがあるのだという結論とも言えない様な結論に至った次第です。
そう言えば、あのラストシーン(写真)は聖橋から撮られたのでしょうかね。毎日利用していた御茶ノ水にあんな景色が隠されていたとは…いや、別に私が鈍感だったからでしょうが。4本の電車が緩やかに交差していくあの場面はとりわけ感動的でした。『誰も知らない』のラスト近くで登場する緩やかなモノレールの滑走とともに、記憶に残るシーンだと言えるでしょう。
最後に『珈琲時光』とはほとんど関係のない話を。
母親役の余貴美子さんですが、実は自社のエレヴェーターに同乗したことがあるのです。今年の春先だったと記憶していますが、かなりの暑がりである私は、かなりフライング気味にTシャツ一枚という格好で、本人的にもちょっと寒いなと思いつつエレヴェーターに乗ったわけですが、そこへマネージャーと思しき女性と余貴美子さんが乗り込まれて来まして。私を見るなり、「やっぱり若い人はTシャツでも寒くないのね」と話しかけてこられ、あまりに唐突な振りに「いや、寒いんです、本当は」と幾分かはにかみながら答える私に、「あら…」と美しい微笑みを投げかけてくださいました。あの笑顔は、一青窈が大家に酒を借りる場面での、やや困惑した笑顔に等しかったんじゃないか、などと、ほとんど幻想というか夢想というか、まぁそんな思いにとらわれたことをここで告白しておきます。
2004年09月26日
『モンスター』、演技を超えた肉体
シネマライズの初回にて『モンスター』を鑑賞しました。10:10の回にもかかわらず、私が到着した9:20頃にはすでに20人以上の人が並んでいました。雨が降っていたにも関わらず、なるほど、オスカー女優の変貌振りはあらゆる人間の興味を惹くということでしょうか。実際、『モンスター』についてまわったのは、“主演女優賞”という事実よりも、“13kg体重を増やした”とか“「世界で最も美しい50人」に選ばれるほどの美貌が、ここまで!?”とか、そんな文句だったように思われます。
確かにシャリーズ・セロンの表情は醜悪に変貌していました。そしてその醜悪さは、実在したアイリーン・ウォーノスの雰囲気を充分表現し得ていたと思います。体重増加と特殊メイクにより、シャリーズ・セロンが本来持っていた美貌はほとんど消滅していたと言えるでしょう。しかし、私がそれ以上に感動したのは彼女の肉体そのものにです。彼女の肢体は、(私の知っている)だらしないアメリカ人女性のそれでした。腹はたるみ、尻は膨張し、歩き方も飲み方も自転車のこぎ方もだらしない。だけれども、そのだらしなさこそが感動的だったのです。半裸の下着姿を入れても、裸になるシーンは3シーン程しかなかったと思います。しかし、その頻度の少なさゆえ、肉体が演技を超える様だけが印象に残りました。言葉遣いや表情も良かった、良かったですが、やはり、私はあの精神的な問題が表出しているに違いない、肉体的なだらしなさを見せてくれたことを賞賛したいと思います。
私は新人であるパティ・ジェンキンスに、映像的な衝撃性を期待していました。息を飲むようなシーンは残念ながらありませんでしたが、それでも記憶に残るシーンがいくつかありました。例えば、シャリーズ・セロンが2人目の犠牲者を出すシーン。最初、彼女の表情とせっぱつまった息遣いを観て、別の行動を予測していたんですが、こちらの予想は大きく裏切られ、ほとんど瞬間的に彼女は引き金を引きます。どんなアクションがあったのかを確認する暇もなく、4発5発と男に銃弾を浴びせるのです。彼女の殺人は大体夜に行われるのですが、車中での銃殺シーンならではの、暗い車内の閃光と銃撃音だけで男の死を予感させるあのシーンには少なからず驚かされ、そして深く肯いた次第です。
また、ラスト近く、シャリーズ・セロンとクリスティーナ・リッチが電話で話す場面。ここでは、留置場らしき場所で話すシャリーズ・セロンと、明らかに警察の監視下にいることが予想されるクリスティーナ・リッチの表情が交互に切り返されるのですが、もはや殺人犯との関わりを否定せざるを得ないクリスティーナ・リッチの表情からカメラが右にパンし、やはりと言うべきでしょうが、数人の刑事がその会話を逐一録音している様子を捉えたとき、わかってはいても「ああ…」と嘆息せずにはいられませんでした。常套といえばあまりに常套な、別段驚くに値しないシーンではありましたが、ここまでの2人の関係を表す重要な場面がしっかりと演出されていたからこそ、生きてくるシーンです。
最後に、クリスティーナ・リッチの演出についても、もっと評価されてしかるべきだと思いました。好みの問題はさておくとして、本作の彼女は、私が観てきた中で最良の演技に相当するものだったかと。唯一の欠点は、彼女の裸を見せなかったことです。タンクトップから浮き出る硬直した乳首は見せていたとしても。
『モンスター』の後、南口のキリンシティでビールを飲みつつ時間をつぶし、『珈琲時光』へと流れましたが、こちらの文章については、今日中に更新できないかもしれません。最悪でも明日の昼くらいには。ちなみに、『珈琲時光』では久々の上映トラブルがありました。記憶を辿れば、シネセゾンで観たゴダールの『ヒア&ゼア』以来ですかね。途中で上映が止まり、音声だけが流れたのですが、まだ観ぬシーンを音声だけ聞かされ、何となく展開がわかってしまうといった事態には、若干怒りを覚えました。
『アリックスの写真』『不愉快な話』『ぼくの小さな恋人たち』
今日の日記は三本立てになります。昨日から今日にかけて、計5本の映画を観たので、流石に1本の日記にまとめるのも辛かろうという個人的な事情により。
土曜日は以前見逃したことをかなり後悔していたジャン・ユスターシュのドキュメンタリー2本とすでにヴィデオで何回か観てはいたものの、スクリーンで観るのは初めてだった長編1本を、アテネフランセにて鑑賞。なかなか公開されない作品とあって、客席には60~80くらい埋まっていたと思います。
『アリックスの写真』はユスターシュの遺作です。18分のカラー作品。この短い映画は、恐らく、“視覚の脆弱”を暴き立てることが主題だったのではないかと思われますが、いかがでしょう? スクリーンに“映ってもいない”事物をまさに“映っている”と錯覚すること。この“無意識の作為性”をこそ描きたかったのではないかと思います。なんだか、華麗に一本とられた、そんな感じです。
『不愉快な話』はある1つの話がフィクション編とドキュメント編とに分けられ反復される映画です。私のようなイカレた男からすれば、その話自体は非常に“愉快な話”だったわけですが、それはさておき、この実験映画はその手法から言っても大変興味深い。倫理に、というより、法に反する“覗き”という行為に魅せられた男が行ってきた行為自体が“不愉快”なのか、もしくは、そんな愚かな話を2度聞かせられること事態が“不愉快”なのか…? 前者における主語はスクリーンの中で聴く者、後者においてはスクリーンを観る観客になりますが、このあたりは私には理解しかねました。もし可能であれば、ユスターシュのインタビューなどを読んでみたいものです。いずれにせよ、非常に面白い映画でした。
最後に『ぼくの小さな恋人たち』。この作品に関しては過去の日記でも触れているので繰り返しませんが、ここであえて告白するなら、そこに何の意味もないと知っていながら、先日観た『なぜ彼女は愛しすぎたのか』との比較をしてしまったということです。ほとんど理不尽な比較かもしれませんが、13歳の少年を主人公に据えたこの2作品を比べてみた場合、主題は全く異なるものの、その“残酷さ”の質において、ということは作品自体が持つ強度からしても、『ぼくの小さな恋人たち』の優位は決定的だったと思うのです。まだ大人になりきってない少年だからこそ彼が孕み持つ残酷さ。これを恋愛という位相で輪切りにしてみせた『なぜ彼女は愛しすぎたのか』に対し、ユスターシュが描いたのは、まさに人間自体の残酷さなのであり、だからその残酷さに観客が納得できる理由などなく、アルメンドロスによる“美し過ぎる”画面構成にもかかわらず、人間は大人であれ少年であれ、残酷だから残酷なのだという暴力的な同語反復しか通用しない厳しさが、『ぼくの小さな恋人たち』の圧倒的な美しさを生んでいたのではないかと思うのです。
ともあれ、これら3作品をスクリーンで観ることが出来たのは、全く幸福という他ない体験でした。
2004年09月25日
Forever RUSS MEYER
Big Tits & Violenceの監督・ラスメイヤーが逝きました。
日本にそのニュースが入ってきたのは死後5日程経った23日です。享年82歳。
ここ数年、日本でも“当たり前に”公開されるようになっていたところで、何より本日より、世界初の試みである、全作品一挙上映が実現するところでした。カウンターカルチャーやアメリカンニューシネマの波が駆け抜けた70年代、あくまで独自の美学に基づいて映画を撮った巨人。私が彼に抱くイメージはそんな感じでした。
プッシーキャットという言葉を知ったのも彼の作品からです。アメリカではさして珍しくなかったのかもしれない“巨乳”ですが、そこに“暴力”が加わったときの新しさ。しかし、こうして文章を綴っている私も、まだ彼のことなどほんの少ししか知りません。だとすれば、イメージフォーラムで開催される特集上映には、何とか駆けつけなければならないと思っています。
監督が逝っても作品は残ります。
巨乳が揺れ、黒髪が風になびき、暴力が炸裂する…この鮮烈なイメージを求めて、まずは『スーパー・ヴィクセン』あたりを観にいきたいと思います。
合掌。ラス・メイヤーよ永遠なれ。
2004年09月23日
『グッバイ、レーニン!』、真実も虚構になり得る現実
予定では『東京物語』を観るはずだったのですが、『GERRY』にあったような灰色の雲の動きを見ているうちに外出したくなくなってきまして、じゃぁ何のために昨日上司から金を借りたんだということになるわけですが、実は昨日、仕事帰りに飲みに行ってしまいまして…もちろん、今日映画を観る金くらいは残していたのですが、昼間からズブロッカなど飲んでいるうちに、次第にネガティヴになってきたので、やはり止めておいた次第です。よって本日は、以前観たまま文章にしていなかった『グッバイ、レーニン!』に関して、一言二言。
見事なまでにわかりやすく、かつ、示唆に富んだ作品だったかと思います。恐らく家庭用8mmフィルムで撮られた映像で始まるこの映画に一貫しているのは、テレヴィ(メディア)を観る人間が作り出す、偽の事実認識をいかに正当化できるかということだったような気がします。テレヴィに映る映像と現実との距離感。窓の外を見ずにテレヴィの情報だけが真実だと思い込むことはどれほど容易で、時に安心感すら与えるものか。
病身の母親にひたすら尽くす主人公にとって、重要なのは“真実”ではなく操作可能な”虚構”です。この映画に出てくるテレヴィは、どんなに真実(現実)でも、ブラウン管に映った瞬間、たちどころに虚構化させる装置としての役割を担っています。文字通り“現実に”ニュースとして世界に流れたであろう映像が所々に挿入されていますが、ブラウン管を通して幾度となくその光景を観た私とて、それを結果として信じてしまっているに過ぎません。出来事を目の前で見て確認していないという意味で。ともすれば胡散臭さだけが目に付くテレヴィの映像ですが、その“裏(真実)”まで確認できない視聴者は、ブラウン管に映る画面“だけ”が真実として目の前に現れるのです。
この当たり前のメディア性を、主人公は上手く利用します。彼にとって重要なのは“本当の”真実ではなく、“媒介を通した”真実だからです(パッケージだけ変えたピクルスの瓶もその一種です)。それはほとんど出鱈目であり、しかしその出鱈目さ故ドラマとして有効に機能しているといえると思います。コカコーラやレーニンの胸像は、よってそのわかりやすさの記号として重要だったのだと。それらに対する母親の反応が、この映画の主題といえるのでしょう。
ラスト近く、テレヴィの映像を信じて疑わなかったかに見えた母親が、息子の最後の大芝居にもかかわらず一向にテレヴィの画面を観ず、その息子を微笑ましく見つめる場面があります。全てを悟ったかのような彼女の複雑でありながら暖かい微笑み。息子は何度も母親の表情を確かめ、母親はそれに応じつつも、最後まで息子の後姿から目を逸らそうとはとはしませんでした。彼女が何をもって息子の芝居を見抜いたのかは明かされません。それは、芝居を見抜いたという事実にではなく、テレヴィに映る映像より目の前にいる息子を信じて見続けたという事実をこそ描きたかったからでしょう。個人的に、この映画の最も素晴らしいシーンだったと思います。私はこのシーンを観たとき母親の死を確信しましたが、やはりその直後、主人公のモノローグによってそれは明らかになるのです。このあたりの省略も見事でした。
最後に、監督のウォルフガング・ペッカーはかなりのキューブリックファンだと思いました。『2001年宇宙の旅』に対する直接的な言及もさることながら、主人公が母の部屋を元通りにするシーンがベートーベンをバックに早回しで撮られているのは、『時計じかけのオレンジ』のアレックス(そういえば『グッバイ、レーニン!』の主人公もアレックスです)がナンパしてきた2人の女性とセックスするシーンに対するあからさまなオマージュだったからです。映画史的目配せといいますか、ある種の“余裕”を感じました。
2004年09月22日
万事快調…
今週は休みが多いので映画好きにはもってこいと言えますが、こんなことを書くと、私は映画に行く他にやることが無い“寂しい男”だとも思われかねませんね。いや、それをむきになって否定するつもりなどありません、というか出来ません。今現在、日常生活におけるプライオリティの上位に映画が位置していることは紛れも無い事実なのですから。
さて、映画を観るにはそれなりのお金がかかるもの。一般的な料金は1,800円ですか。余程駄目な映画以外はパンフレットを買いますから、それがまぁ500円〜800円くらいでしょうか。加えて、私は上映時間よりも大分早めに映画館に入るようにしていますが、早く着いたら飲み物くらいは飲んで時間を潰したいもの。この場合、その飲み物がビールになる場合が多いと言えば多く、そうするとここでまた500円。というわけで、大体1本の映画を観るのに、3,000円程出費する計算になります。この事実はもう何年も変わりませんし、それが高いとか安いとか無駄だとか、そういった議論を超えた一つの慣習ですから、それはそれでモウマンタイです。ここで嘆かわしくも個人的な問題となっているのは、現在の私のポケットマネーが、1回映画を観る額と正確に一致しているということです。新たな収入を得られるまで、本日を含めあと2日間あります。しかも明日は祝日です。さて、この事態にどう対処すべきか、これが問題なのです。
もちろんポケットマネーには、諸々の生活費や交際費が含まれています(この金額で交際もあったものではありませんが)。つまり、明日映画を観にいけば、それ以外の全ての行動が制限され、後は自宅にて孤独かつ非健康的な状態で残りの時間を過ごさねばなりません。これはいささか辛い。かといって、休みの日に観たい映画を我慢し、自宅にて細々とヴィデオなど観るのもまた、容易に納得できない自分がいたりするのです。そもそも映画館に歩いて行けるから、という理由で無駄としか思えない金額のマンションに住んでいるのに、お金が無くて映画館に行けませんという情けなさ。“本末転倒”とはこのことです。“ミイラ取りがミイラ”、いや、これは関係ないですね。ちなみに、ここでクレジットカードという存在に触れないのは、もちろん意図してのことです。そのような存在に頼ることの危険さを承知しているからに他なりません。さてでは、どうするべきか?
そういえば、私の右奥のほうに居る上司がニヤニヤしながら先ほど言っていました。
「(・∀・)ナンナラ、カネカシテヤロウカ?」と。
う〜む…(約2分間考え中)
うん、それがいいな、そうしましょう。
というわけで、早速上司に借りることにします。無利息一回払い。
なんて簡単な事。なんて簡単な人生。本日も万事快調なり。
2004年09月21日
『ヴィレッジ』の余韻に浸りながら上る道玄坂は新鮮だった
別に隠していたわけではありませんが、私はM・ナイト・シャマランという監督をどうも好きになれませんでした。彼の作品が、どれもこれもどうしようもない駄作だというわけではないのに、M・ナイト・シャマランという名前が私に訴えかけてくるのは、いつも決まって“狡猾さ”に終始していたのです。これにはさしたる根拠などないのかもしれませんし、よく考えればあるのかもしれませんが、そんなことをあれこれ考える時間があったら、別の映画を見ていたほうがいいし、どうしても観なければならない映画では無い以上、イヤなら避ければいいだけの話ですから。『サイン』を観た後、もうこの監督の映画に金を払うのは止めようとすら思いました。
新作『ヴィレッジ』についても事情は変わらず。またぞろ“不可解な謎”だとか“驚愕の結末”だとかいう宣伝文句ばかりが耳に残り、ほとほとうんざりしていたので、無視を決め込んでいました。私のまわりでシャマランを断固支持している友人などいませんでしたし。そんな折も折、mixiというコミュニティ上である映画監督氏の『ヴィレッジ』評を読んだのですが、そこには『見えない恐怖』という映画が引用されていました。あのリチャード・フライシャー作品の名前をそこに見つけたとき、どうやら眠っていた記憶が呼び起こされてしまったのでしょう、だったら観にいってやろうじゃないか、という気になったのです。もはやマスコミによる“情報誌的”宣伝など端から信用してはいませんが、かような映画好きの意見はやはり貴重です。フライシャーを引用したことにほとんど理由など無いし、ただのハッタリだとその映画監督氏はいいますが、まぁ騙されたら騙されたです。そんなこんなで、封印していたシャマランを、祝日の朝一番で体験しに出かけたというわけです。
『ヴィレッジ』を観終えて劇場を出たとき、私は妙な気分でした。“妙な”というのは、思っていたよりも良かった、というものとも少し違います。この一作だけで彼を見直してみせるのもなんとなく気がひけるし、だからといってあの瞬間(流石にここでは書かないようにしておきますが)、私は間違いなくシャマランを賞賛していたことを思い出したからです。このちぐはぐな余韻に浸りながら、とぼとぼと道玄坂を上っていく体験は、決して悪くなかったと言えます。
ここでは映画の内容にほとんど触れていませんが、それでもこの文章を読んで“シャマラン否定派”の人々が、私がそうしたように劇場に足を運んでいただければ、この拙文も浮かばれるというものです。先入観の決定的な敗北…この敗北は、しかし、どこまでも心地いいものでした。
またまた長くなりましたが、最後に昨日観たヴィデオ『リード・マイ・リップス』に関して。
ヒッチコックの『裏窓』が好きな人、オリヴィエ・グルメが好きな人、漠然とでも変身願望のある女性には必見とだけ言っておきます。私個人としては、ジャック・オディアール監督の映画は、今後絶対に見逃さないようにしようと決意した次第です。
『父、帰る』『GERRY』 ロシアもアメリカも素晴らしい
今週は昨日まで浴びるほど映画を観たにもかかわらず、本日も朝一で『ヴィレッジ』を鑑賞。「mixi(まぁ、別に隠すこともありませんから)」で某映画監督により強く推薦され、これまでシャマランに好意的でなかった私も、それなら観てみようじゃないか、という感じで観た次第。
『ヴィレッジ』の前に、昨日観た2作品についての雑感を。
偶然にも、この2本はある意味対極的な作品であり、にもかかわらず、それぞれが“自然”と切り離せないという意味で共通点もありました。同日に見る2本として、我ながら悪くないセレクトだったと思います。
昨年のヴェネチアを制した『父、帰る』は、予想通り、いや、予想以上の出来。湖と雨、つまり水に覆われた映画でもあり、同時に地平線が印象的だった『父、帰る』。実はこれまで、CM出身の監督たちにあからさまな軽蔑を隠そうともしなかった私ですが、“生活のために”広告業界で映像の何たるかを学び、映画にこそ自分の居場所があると断言するアンドレイ・ズビャギンツェフ監督の言葉を聞くにつれ、これまでの自分の考え(決して偏見ではありません)を、一部改めねばならないと痛感しました。だからといって、石井克人監督やターセム、ピトフあたりはどうしても好きになれないのですが、それはまさしく才能の差、というものではないでしょうか。
実際、処女長編にしてこの圧倒的な完成度を目の前にしれば、その経歴に固執することの愚かさがいやでも露呈するでしょう。数々の宗教的寓意(実際、この映画には、それらが満ちているのかもしれません)を超えて、私は、あのロシアの湖の水面に、ただ戦慄しました。いかなる説明的な描写もないのに、一本道が草原に伸びる固定画面や、廃船の情景や、島にある見晴台からの俯瞰にただ心を奪われました。“謎は謎のままでいい、映画は疑問符とともにあるべきだ”という監督の言葉に、深く肯かざるを得ません。傑作とは、理解を超えた画面にも存在する。私がこの映画を観て確信したのは、このことに他なりません。
先に書いたように、『GERRY』にもまた自然がその背景にあります。ただし、どちらかといえば画面が“潤っていた”『父、帰る』とは異なり、『GERRY』はひたすら乾いている。砂塵、乾ききった岩、流れを急ぐ空と雲、そしてやはり、どこまで続くかわからない水平線がある。主人公の成年2人は、さしたる意味を持たぬまま、ただひたすら歩く。カメラは、観念的な抽象を一切廃し、ただ歩く2人を残酷なほど“具体的に”捉え続ける。そこには、画面に映っていること意外に何もありません。つまり、表面しかないのです。歩く2人と、時にその歩みを困難にする自然しかない。片方の成年を演じるマット・デイモンは、“理由もなく”、もう一方の相方であるケイシー・アフレックを殺す。“理由もなく”と書いたのは、そこに誰もが了解できる必然性などないからです。徹底的に表面の映画。ガス・ヴァン・サントは、この“表面性”を、『エレファント』にまで昇華させたと言えるのではないか、と思います。
さらに言えば、『GERRY』において、その“音”が素晴らしい。執拗な長回しの強度にも増して、歩く度に聞こえてくる足音の素晴らしさ。その足音は、終始、あの狭い劇場に響き渡っていて感動的でした。
『Brown Bunny』もそうでしたが、あの塩田についても強烈な印象が目に焼きついています。
ここまで書いて、またもや長くなってしまったことに気付きました。よって、『ヴィレッジ』と今日ヴィデオで観た『リード・マイ・リップス』については、また明日。
2004年09月19日
アルトマン、小津、そしてジャ・ジャンクー
今日は朝から疲れ気味でしたが、予定どおり新宿武蔵野館3にて『父、帰る』を、その足で渋谷に戻り、スペイン坂にある気に入りの店“cafe 人間関係”でビールなど飲みながら時間をつぶし、その後、始めて訪れるライズXにて『GERRY』を鑑賞しました。双方とも大変興味深く、そして恐らく、個人的には今年のベスト5内を飾るだろうと確信しました。と、映画の雑感に入る前に、先週借りてきた6本のヴィデオ。何とかすべて観終えましたので、それらに関して簡単に。
まずはロバート・アルトマンの『ストリーマーズ』。83年にアメリカで公開されながら、94年まで日本で公開されなかった映画で、ベトナム戦争を舞台にした密室劇です。よって、カメラは兵営の外へは出ません。もちろん、戦闘シーンもないし、銃を撃つシーンも無い。平和だったある部隊の兵営に、他者である黒人兵士が加わることで、それぞれが精神的均衡を欠いていく。そして、ラストの悲惨な事件へと展開していくという話です。密室劇ですから、カメラは狭い兵営の中でそれほど動かなかったと思います。つまり、会話に重きが置かれていたということです。出色だったのは、闖入者であるカーライルという黒人が、自分を罵る白人兵士をナイフで刺すシーンです。ほんの一瞬しか映らないそのシーンですが、その後の白人兵士の演出がいい。同僚の兵士たちも何が起こったのかしばらく理解できない。刺された白人兵士が、2〜3歩ヨロヨロとあるいて、バタンと倒れる。そして、それを観ていた兵士たちがその表情を変える。このあたりの呼吸が見事でした。『M★A★S★H』といい本作といい、アルトマンの戦争映画は、会話の映画です。私はこういう作品を観ると、ああ、やっぱりアルトマンは悪くないなぁ、と思ってしまいます。
続いて、小津を2本ほど。『晩春』(1949年)と『秋刀魚の味』(1962年)です。13年という時を隔てているこの2作品ですが、物語的にはほとんど同じ。厚田雄春氏によるカメラ位置もまたほとんど変りません。笠智衆演じる父親像も、原節子と岩下志麻がそれぞれ演じる娘像もまたほとんど同じです。にもかかわらず、この面白さはどうか。その単純な物語のわりに、小津の映画はちょっと“変”なのです。もちろん、有名なローアングルもしかり、食事のシーンしかり、そして日常的な会話しかり。全く普通ではない。この辺については、今後も何回か考えてみたいところです。これまで意識的に避けていた「監督 小津安二郎」を、そろそろ熟読してみようかと思います。
最後に中国の新星ジャ・ジャンクーの『一瞬の夢』。朝、急いで観たことを後悔しつつも、その完成度に驚きました。まさかこれほどまでとは…まだ27歳で、しかも長編デビュー作でこんな映画を撮ったジャ・ジャンクーという男。私は映画とは何の関係もない職業で、将来映画に関わることも無いと思うのですが、それでも、この監督に嫉妬ぜずにはいられませんでした。全くもって素晴らしすぎます。16mmのカメラを担当したのは、ユー・リクワイ。このカメラがまたいい。そのFIXショットの強度や、移動ショットのぶれが醸す危うさ。中国の山奥にも、こんな青春があるのです。ラスト、主人公ウーが警察に捕まり(彼はスリの常習犯です)、手錠を街頭か電信柱かに繋がれる。その時、まわりを取り囲む人々の目。こういう残酷さを画面に刻み付けることが出来る才能。ジャ・ジャンクーの作品は、どれも“絶対に”必見です。まだその名前すら知らない方、なるべく早くその凄さを確信してください。
というわけで、大分長くなってしまったので、今日観た映画については、次の記事で。
『陽炎座』に感動する
ごく単純に言えば、映画は“目に見える”画面(映像)と“目に見えない”物語で形作られていると言えます。もちろん、台詞や音楽といった“聴覚的”要素もありますが、それも前者に組み込むことが出来るでしょう。“○○が映っていて、××が聞こえてきた”という事実は、絶対的な事実として映画を観る人に共通しているのですから。他方、物語は飽くまで相対的な存在だと言えまず。同じシーンを観た観客が、同じ受け止め方をするとは限らないと言う意味で。
繰り返しますが、これは映画を非常に単純化した場合の図式です。
例えば物語を追っていけばそれなりに観られる映画があります。言い換えれば、観客が日常的に使用する思考回路や一般的な常識などが、何の苦労も無く通用してしまうような映画とでも言いましょうか。こういった映画は、面白かったとかつまらなかったとかいった感想を容易に引き出させます。まぁ、これはこれで問題はありません。では、観客の側の思考を端から期待していないような映画、というか、作家独自の“美学”だとか“思想”があまりにラディカルな映画に出会ったとき、観客はどのような反応を示すのか。私の興味は、そこにあります。
昨日、鈴木清順の『陽炎座』を観ました。傑作『ツィゴイネルワイゼン』の翌年に作られたこの映画もまた、こちらが抱く諸々の感想を予め禁じているような映画でした。その体験を換言すれば“清順美学”に酔ってしまったとも言えるかもしれません。にもかかわらず、『陽炎座』に感動しなかったかと言えば、それは全く別の話です。物語は単純極まりないかもしれない『陽炎座』には、しかし、不気味な細部が溢れていて、こちらをその都度動揺させるし、あの階段、あの橋、あの桜、そしてあの舞台、どれをとっても圧倒的な強度をもって私に迫ってきました。ほとんどトリッキーな編集に加え、松田優作の声、大楠道代の肢体、楠田枝里子の顔、中村嘉葎雄の女装、そして原田芳雄の出鱈目さは、この映画のジャンル性をことごとく崩壊させ、ホラーでもアクションでもサスペンスでもなく、そのどれもが当てはまってしまうと言う奇跡的な映画にまで昇華していたと思います。
やはり映画には物語だけでは語りきれない何かが“絶対に”あるのです。それを見落とすことは、時に、残酷な結果を招く。『陽炎座』は“理解”せずに“感動”することができる稀有な映画でした。
とここまで書きましたが、なんだかまとまりの無い文章ですね…やはり6本借りてきた映画を一日一本ずつ観て文章を書くということには無理があったということです。しかも、今、この時点であと一本はまだ途中までしか観ていません。今日返却しなければならない上に、11:50からは『父、帰る』に行かなければならないし…とりあえず、帰ってからまた書きます。
2004年09月16日
『処女ゲバゲバ』を観て、パゾリーニを思い出す
昨日はヴィデオにて久々のピンク映画を。私はピンク映画を特に好むわけでも嫌っているわけでもないのですが、これまで観てきたものは総じて面白く、刺激的で、美しいものが多かったと言えます。“エロスと暴力”、この二つから目を背けている作品に決して面白いものがないというのが私の持論ですから、60〜70年代に集中的に撮られた若松孝二作品は、端的に言って私好みだったと言うことです。
今はシネクイントあたりでも、「女の子限定ピンク映画オールナイト」などが組まれるくらいですから、そんな心配などいらないと思われますが、もし仮に、ピンク映画に対する無知から来る偏見など持っている方がいましたら、そういう偏見はまず捨て去るべきだと思います。
さて、にもかかわらず、この『処女ゲバゲバ』について言及することは難しい。大島渚によって“出鱈目に”つけられたタイトルをみて、そこに“処女=エロス”と“ゲバ=暴力”のアナロジーを発見することは誰にでも出来ることですが、だからといってそういう言説は既に何度も繰り返されていますし、今更同じことを言っても始まらない。確かに、良し悪しの判断は簡単ですし、それなりの言葉を費やすことも出来ないわけではありません。ただ、これほど美しく、同時に出鱈目な映画について、私が言及すべきいかなる言葉も見つからないのです。フレイザー「金枝篇」に着想を得たとされる出口出(大和屋竺)による脚本の途方も無さはどうでしょう。何処までも続く荒野が、瞬時に地下室と化すイメージの鮮烈さはどうでしょう。無時間的なモノクロームの画面が、カラーに切り替わる瞬間の息を飲むようなアクション性はどうでしょう。このような答えの無い自問自答を繰り返す他ないのです。
ただし、一つだけ思い浮かんだことがあります。あの画面、どこかで目にした事があるな、と思いながら観ていたのですが、それはどうやら、ピエル・パオロ・パゾリーニの『豚小屋』だったようです。あるいは、『アポロンの地獄』かもしれませんが、とにかく私の頭にはその時、“若松孝二=パゾリーニ”とまでは言いませんが、この二者の距離や時間を越えた近親性というか、“間=フィルム性”というか、そんな発想が渦巻いていました。それが絵空事だとしても、私にとって価値あることだったと加えておきます。
最後に、芦川絵里の腋毛。あの決して長くは無いショットに反応出来ない人間は、ピンク映画に対する繊細な感性を端から放棄していると思いますがいかがでしょうか? あの猥雑さこそ美しいのだと私は思うのですが…
2004年09月15日
映画とインターネットとコミュニティ
6本も映画を借りておきながら、今日もやんごとなき用事がありまして、昨日から鑑賞途中だった『処女ゲバゲバ』も観られずにいます。明日から、無理にでもヴィデオ鑑賞に勤しまねばなりません。
さて今回は、以前書いて公開せずにいた、映画を介したインターネット上のコミュニケーションについて。
私がまだインターネットを始めたばかりの頃、よく書き込みをしていた映画サイトがありました。もはやそのサイトの名前すら覚えておりませんので、今現在存続しているかも定かではありません。当時を思い起こせば、映画の話が出来る友人・知人はごく一部に限られていたと思います。そんな時にインターネットを介して、知らない人間と映画について深く語り合える、それが非常に新鮮な感覚だったことを良く覚えています。まだセキュリティーのセの字も知らなかった私は、ただ映画の話をしたいがために、せっせと掲示板に書き込んでは、その反応を心待ちにしていたものです。“ホドロフスキーいいですよね!”とか“カサヴェテスは何が好きですか?”とか、そんなことを無邪気に書き込んで、それなりにコミュニケーションをとっていました。あの時頻繁にやりとりしてた男性がいるんですが、彼は今、どうしているでしょう。
インターネットも慣れてくるにつれ、私は次第に傍観者的態度にシフトしていきます。それは他でもない、セキュリティーを意識し始めるからです。まぁ、それも今にして思えば、単なる“自意識過剰”なだけなのかもしれません。映画の話をしたいと言う欲求は相変らず持ち続けていたにもかかわらず、参加できない。なかなか歯痒い想いです。
で、思いついたのが自分でサイトを始めればいいという、単純かつ明快なこと。サイトを開設すればセキュリティーが保てるというのは無知からくる故の無い思い込みですが、もはやそんなことはどうでもよくて、ただ映画を通したコミュニケーションをとりたいという願望が勝ったのでしょう。サイト開設直後は、なんらコミュニケーションツールがないわけですが、こうしてblogというツールを得て、やっと見ず知らずの“映画好き(だけではないと思いますが)”とコミュニケーションする可能性が出てきました。ここにきて、ようやくスタートラインに立てたということです。
最近、様々なblogに顔を出すようになりました。一時の警戒心など嘘のように忘れ、意見を交換しています。つい先日も、某ソーシャルネットワーキングサイト(別に隠してもしょうがないのですが、こう書けば皆さんお分かりかと思ったまでです)に新規加入いたしまして、このblogはそちらとも連携しています。まず観てもらうこと、このサイトの判断は、その後でいかようにもされるのですが、WEBという膨大な空間の中で最も困難なことは、まずアプローチされることです。最近になって、遅まきながらその事実に気付いた次第。結果として、以前よりも少なからず活性化しているのですから、これは喜ぶべきことです。
つまりこれらの考察から得られる教訓は、常に開かれたサイトにすべきだという事実に他なりません。それぞれの感想が飛び交う。このサイトはまだまだその段階にはありませんが、兎に角、ここに集まる多くの人の意見を聞きたいというのが本音です。それが、私が思い描いていた活性化ということなのでしょう。
2004年09月14日
Milano/Paris/Marseille編、完成
先ほど、“映画と旅”第2章が完成しました。
いや、前にも書きましたが、なかなか骨が折れます。疲れたので、今日はこれから観るつもりだったヴィデオも観られないかもしれません。6本も借りたのに、果たして今週すべて観られるのか心配ですので、とりあえず、向こう数日間は映画のほうに没頭する予定です。
週末にはまた映画が控えているので、明日以降の日記は久々にヴィデオの感想が中心になるかと。
あ、その前に早く「誰も知らない」を書き上げないと。こちらも何とか今週中には・・・
今日は簡単ですが、明日はじっくり。
2004年09月12日
『なぜ彼女は愛しすぎたのか』、『CODE46』
昨日は日記の更新が出来ませんでしたが、こんな私にも映画以外の用事があると言うことで。といってもそれ以外の90%は酒を飲んでいるこの私、とても威張れたものではありません。
ということで、昨日はシネマソサエティにて『なぜ彼女は愛しすぎたのか』、そして本日はシネセゾンにて『CODE46』を鑑賞してきました。前者の入りは20名弱、それに比べ後者は7割方埋まっていました。面白いのは、双方とも“男と女の物語(ラブストーリー)”であるにもかかわらず、メディアでの扱われ方が全く異なっているということです。まぁ、監督の知名度から言って、ウインターボトムはすでに確固たる地位を築いていますから、その客入りに差が生じてしまうのは止むを得ないこと。にもかかわらず私個人の感想を言えば、女性監督エマニュエル・ベルコによる長編デビュー作のほうが面白かったと言えます。
この映画、35mmのフィルムとDVを使い分けていたように思うのですが、日本語の公式サイトが無いばかりか、その他のサイトでも書いてあることがまちまちなのでわかりません。室内ではフィルム、戸外ではDVだったと思われるその映像、“ドグマ的”なアプローチばかりが目立つようですが、それは審美主義に背を向けた感のある、あの戸外での光の捉え方や、ぶれるカメラを見れば肯けもするのですが、女性監督ならでは(というと多分に語弊がありますが)の審美主義的ショットもありまして、それは初めて少年と主人公が結ばれる場面だったと思います。あまりに露出過多からなのか、2人が結ばれる舞台となる部屋が、ことごとく白で飛ばされ、ほとんど『マトリックス』における仮想空間とも言うべき、幻想的な空間を作り出していたからです。そうかと思えば、基本的に自然光で撮影されたであろうこの映画の、他の室内シーンは、総じて暗い。目が悪い私のような人間には、ちょっと暗すぎるのではというシーンがいくつもありました。もちろん、監督の狙いであるのはわかります。ただ、いくらドキュメンタリー的な映像を目指していても、光に対する配慮がちょっと足りないのではないかと思ってしまいました。題材としては新しいし、演出も決して悪くないのですが、最後までその部分が気になりあまり“入り込め”ませんでした。いや、そもそも“入り込む”映画ではないようにも思われますが、ただ、これは私が“男性”であるからなのかもしれませんね。実際、一緒に観た女性は、絶賛していましたから。しかし、監督のエマニュエル・ベルコは、少し前の某外務大臣にそっくりですね。。。そう思うと若干興を削がれるので、あまり意識しないで観て頂くことをおすすめします。
『CODE46』は、一応SFというジャンルに属しているようですが、“近未来”的映像は最小限に抑えられていて、所謂SF映画というよりも、やっぱりこれはラブ・ストーリーだろうと。私は『モーヴァン』のイメージをずっと引きずっているのか、サマンサ・モートンの演技にばかり注目してしまったのですが、“CODE46”に抵触し記憶を消去され、ティム・ロビンスと“交われない”彼女が、手足をベッドに縛られ、苦しみながらも結ばれていくシーンを、ずっとアップで捉えていたシーンにはなかなか圧倒されました。その直前に一瞬だけ写っていた局部も快く忘れさせてくれるほど、忘れがたいシーンではありましたね。
長身のティム・ロビンスと、どちらかと言うと小さいサマンサ・モートンが、並んで歩いたり、一緒にシャワーを浴びたり、抱き合ったりする度、その伸長差を上手く画面に定着させ、それを生かした演出をしていたようにも思えます(個人的には2人でシャワーを浴びるシーンが好きです)。シネマスコープで撮られた俯瞰ショットが随所に差し込まれますが、上海とドバイで撮影されたと言うあの“近未来”とは遠い、しかし、現在とは似ていない感じもする映像は、『アルファヴィル』を想起するまでも無く、監督のSF映画に対する距離感が充分表出したのではないでしょうか。それは上海で交わされる言語が、各国のそれをごちゃ混ぜにしたようなものであることにも存しています。まだ見ぬ未来を造るのではなく、今あるものを組み合わせて未知の何かを発見するという姿勢。常に“新しさ”を求めてきたウインターボトムのアイデアはそれほど悪くない感じでした。最後に、ラストで魅せたサマンサ・モートンのアップに、私はルネ・ファルコネッティを重ねてしまいました。彼女は悲劇が似合う顔だと思います。
2004年09月10日
“cinema et voyage”始めました
まずはご報告を。
予告しておりました映画と旅のコーナー“cinema et voyage”を本日より公開いたします。が、今はまだ“INTRODUCTION”だけです。恐らく、明日には(?)第1章をお見せできるかと思います。この(?)が余計ではありますが…
このコンテンツは、思ったより準備が大変でした。“前時代的”な「写るんです」による紙焼き写真のスキャニングに始まり、すでに薄れつつある記憶を辿りながら文章を興す作業など、もちろん当時の“冒険”を回想すると言う楽しみが無かったわけではありませんが、やはり、なかなかに骨が折れたと言わざるを得ません。まぁ、これもいつもの“言い訳”ですので軽く聞き流していただくとして、“いつもの”と言えばついでに言わせてもらいますと、今回“INTRODUCTION”だけを公開するのも、常に形から入ろうとする私のさもしい意識の現われなのかもしれませんが、恥を偲んで“言い訳”を重ねれば、何かを始めようとする際、私には、どうしても“コンセプト”と言いますか“覚書”と言いますか、そういったものを考えなければ気がすまない部分がありまして、それによって読み手に、さらには、自分自身にも、ある決意表明をしなければ何となく気持ちが悪いと言いますか。まず最初に私自身のスタイル(立ち位置)を知っていただきたいということです。手の内を明かすのはいささか躊躇われるものの、このような“旅日記”的文章は、それがなされた状況を了解できなければ、たちどころにつまらないものになってしまうと思うのです。だからと言って私のそれが面白いと言えるとは思えませんが、私にとって最低限のスタンスを表明したいと思った次第です。
さて話は映画のほうにシフトしますが、今週から観なければならない(と私が勝手に思い込んでいる)映画が目白押しです。一先ず、土曜日を皮切りに劇場通いに勢を出すとします。人に薦めたくなるような作品に出会えるでしょうか。ちなみに、昨日母親と電話で話した際、年に1本も映画を観ない彼女に『誰も知らない』を熱く薦めておきました。母に映画を薦めるなど、多分生まれて初めてです。単なる偶然でしょうが。
2004年09月08日
何故この3人が・・・?
今朝見つけたニュースにちょっと驚きました。
いや、別に王家衛がヴェネツィアに行くから驚いたわけではなく、コンペティション作品ではありませんが、『愛神(EROS)』という作品が上映されるということに。上の記事を読んでいただければわかりますが、王家衛とスティーヴン・ソダーバーグとミケランジェロ・アントニオーニが共同監督しているのです。この3人がどうにも結びつかないのは私が単に無知だからなのかもしれませんが、いずれにせよちょっと興奮する事件ではあります。
3人の共通点などを考えてみると、これがどうにも・・・女性を魅力的に描けるということと、強いて言えばその“節操の無さ”でしょうか。もちろんいい意味での。そういえば、『愛神(EROS)』の主演はコン・リーですから、やっぱり前者でしょうか。
それぞれの監督は決して嫌いではありません(全てを観ているわけではありませんが)。アントニオーニなどは、かなり好きな作家だったこともあります。この3人の監督作品の中でのフェイバリットを挙げれば、『花様年華』、『イギリスから来た男』、『赤い砂漠』ということになるでしょうか。いや、正直に言えば、ソダーバーグは大して好きではありません。『イギリスから来た男』を挙げたのは、テレンス・スタンプの好演にではなく、あくまでジョー・ダレッサンドロに如何わしい役柄を与えたことに拠ります。
それにしても、アントニオーニはまだ動けるのでしょうか・・・もはや一人で監督することは不可能なのかもしれませんね。そういう意味での共同監督であれば納得ですが、舞台が60年代の香港であることを思えば、原案が彼にあったとは考えにくいです。では何故に? このネタに詳しい方、教えてお星様。
:::追記:::
いやはやお恥ずかしい限りです。共同監督じゃなくて、オムニバスだったんですね。流石に3人で共同監督なんてありえないと少し考えたらわかりそうなもの。『愛のめぐりあい』の印象を引きずっていました。
で、いろいろ調べているうちに見つけたサイトによれば、『EROS』は王家衛とソダーバーグによる、アントニオーニへのオマージュとして制作した作品らしいです。いずれの作品も、“愛とエロチシズム”が主題となっています。まぁ、どちらにせよ興味深い作品ではあります。
アントニオーニ氏には大変失礼をいたしました。まだまだ現役ということですね。
2004年09月07日
女性監督のデビュー作に注目
私が映画を観るのは主に渋谷になりますが、今週末から月末にかけて、渋谷の劇場では観るべき作品が多いようです。今ざっと観るつもりの作品を挙げてみれば、『CODE46』、『珈琲時光』、『ジェリー』、『なぜ彼女は愛しすぎたのか』、『モンスター』、そして特集上映では『小津安二郎の戦後』というものも。毎週2本が最低限のノルマになりそうです。
上記作品のうち、『なぜ彼女は愛しすぎたのか』と『モンスター』は、供に女性監督の長編デビュー作に当たります。『なぜ彼女は愛しすぎたのか』では、監督のエマニュエル・ベルコが主演もしています。すでに4回は予告編を観ているのですが、何故これを観たいと思ったかと言うと、予告編に登場する海のシーンが印象的だったので。そういえば、ちょっと前に観た『ある日、突然』というアルゼンチン映画も、予告編での海が良かったので観にいった次第。
一方の『モンスター』の監督はパティ・ジェンキンス。最近テレヴィでよく耳にするような名前ですが、彼女の経歴を公式サイトで確認すると、10代の頃にアレン・ギンズバーグとウィリアム・バロウズの助手として働いた経験があるとか。写真を見ると、結構若く見えますが、それはどうでいいですね。『モンスター』では、シャリーズ・セロンがアカデミー賞を獲得したので、どちらかというと彼女の怪演ばかりが話題になりがちですが、私としてはこの新人監督の演出面や構図(彼女は撮影助手の経験があります)など、シャリーズ・セロン以外の部分に注目しようと思っています。別に反動ではありませんが。あ、個人的な好みは共演のクリスティーナ・リッチの方が上です…
2004年09月06日
『ディープ・ブルー』、またはスローモーションの氾濫
昨日はヒルズにて『ディープ・ブルー』を。日曜日ということもありましたが、公開から大分時間が経っているにもかかわらず、あの大きな劇場はほぼ満席でした。これには正直吃驚。私などは誘われるままに行った口で、強いて言えば夏の終わりにその“青さ”を目に焼き付けたかったという口実が成り立つのですが、例えば“癒し”だとか“映像美”だとか、それらを求めて集まった観客だったのでしょうかね。まさかあそこまで客席が埋まっているとは予想だにしていなかったので、ついついそんな思いにとらわれてしまいました。いや、大きなお世話ですね。
まず端的に言ってスローモーションだらけの映画でした。私は映画におけるスローモーション(もしくはそれに類する時間操作術)に対する執着みたいなものがあって、その使い方によっては手放しで賞賛することもあれば、理由も無く憤ることもしばしば。とにかく安易なスローモーションは許せない性質なのですが、『ディープ・ブルー』におけるスローモーションは、説話上の劇的な効果を狙ったというより、スローにしなければ画面としてほとんど成り立たないからという必然によるものではなかったかと。例えばシャチがアザラシの赤子を貪り食うシーンがあって、その過程でアザラシの赤子が数メートル上空にポーンと放り出されるショットがありましたが、あのシーンなどスローで見せなければほんの一瞬で終わってしまうシーンで、あまりに呆気ないというか味気ない印象しか残さなかったのではないかと思うのです。そういう類の映像がそれこそ氾濫している映画ですから、勢いスローモーションだらけになってしまうと。ただ今にして思い起こせば、ベルリンフィルが担当したサウンドトラックが妙に仰々しくて、どうにも“感動”を強いられているようで我慢ならない部分も。そう考えると、あのスローモーションはやっぱり劇的な効果を狙ったのかもとも思えてきました。いきなり前言を覆しましたが、う〜ん、どっちなんでしょうか…
ただ、私など“自然の摂理”とやらには全くの無知ですので、それなりの驚きも多かったと言えます。へぇ〜、深海にはこんなクラゲがいるんだぁ〜、コウテイペンギンは健気に生きているんだナァ〜などと人並みに関心しはしたものの、どうもその反応は映画を観た反応とは遠いものだった気も。つまり、ニュース映像だとかNHKの番組だとかを観たときの反応に近かったろうと。
まぁ、たまにはこんな映画を観るのもいいかな、といったところで。
2004年09月05日
画面の“美”についての雑感
昨日は久々に会う高校の同級生らと渋谷で飲んだわけですが、我々が久々に集まる場合、そこにはかなりの可能性で異性も同席しているので、またぞろ大いに飲む羽目になり、それは女性がいたからなのか、それとも映画の話で盛り上がったからなのかは定かではありませんが、まぁそのせいで昨日の日記を断念せざるを得なかったということです。
そして本日これから映画を観に行ってきます。今日はヒルズロッポンギにて、『ディープブルー』を。あの手のドキュメンタリーはここ数年ちょくちょく公開されるようになりましたが、私はほとんど観ていません。それは、大文字の“映像美”に自分がどれだけ感動できるかわからないからです。映画における画面の美しさに対する見解の相違といってしまえばそれまででしょうが、私の場合は少なくとも、美しい画面を観るために映画館に行くというより、観た映画の中に感動的な画面があって、それは結果として美しかったといえるだろうという感じです。その美しさはどちらかといえば、ありきたりなシーンだったり、如何わしいシーンだったり、“映像的な美”とは程遠いものだったりすることが多いとさえ言えるかもしれません。
さて、『ディ−プブルー』はどれほど“美しい”のか。その辺についてはまた後程。
2004年09月03日
作家の死とはいったい…
ドイツ文学者の種村季弘氏が8月28日になくなりました。71歳だったそうです。
私は種村氏の直接的な“読者”だったわけではありませんし、その数多い著作もほとんど読んではいません。飽くまで、澁澤龍彦という人物を介してしか、その存在には触れ得なかったからです。ネットで種村氏追悼と思われる記事を多く目にしているうちに、彼の著作をまともに読んでもいない自分が、それらに同調して同じような記事を書くことが次第に躊躇われてきたので、書くつもりだった追悼めいた文章を断念することにします。いくらその死を悲しんでみたところで、私には追悼する資格などないからです。
しかしそれにつけても思うのは、どんな分野でもいいのですが、好きな作家・芸術家が死んだ時、ある種の喪失感が否めないのはどうしてかということ。近親者や友人の死であればわかりますが、会った事も無い、ただその作品を通じてしか知らない人間がこの世からいなくなっただけなのにもかかわらず、しかも、作品自体は我々が望めば手にすることだって出来るというのに、その死を深く悲しむという感情。これは非常に特殊な事態だと思うのです。もちろん、その感情に何がしかの理屈をつけることは出来るのだと思いますが。私は今、何故だかそんな思いに囚われています。「お前何言ってんの?」と思われる方もいるでしょうが、それが正直な気持ちなのです。
種村氏の著作を一冊でも多く読むこと、結局、彼の友人でも知人でもない私に出来ることは、それしかないのだと思います。
2004年09月02日
la Biennale di Venezia
9月1日より、第61回ヴェネチア国際映画祭が開幕しました。21作品あるコンペティション出品作には、すでにかなりの数の前売り券が売れていると予想される『ハウルの動く城』が入っていることもあって、日本のマスコミも注目しているようです。ヴェネチアは過去にも黒澤明や北野武に金獅子賞を与えていますから、アカデミー賞を獲ったことのある宮崎駿にマスコミの注目が集まるのも無理からぬ話。しかもタック氏が声優とくれば尚更のことでしょう。コンペ以外でも、革新的な映画を集めたヴェネチア・オリゾンティ部門に、お仕事大好き監督による『IZO』(イメージ・フォーラムにて公開中)や長編デビュー作から世界的に注目された監督による『ヴィタール』が出品されます。
それにしても、浅野忠信の活躍ぶりときたら! 今回のヴェネチアにも出品されている『珈琲時光』と『ヴィタール』の2本に出演しているばかりか、昨年のヴェネチアでは、コントロコレンテ部門(主に前衛的な作品が対象となる部門)で主演男優賞ですから。“演技”というよりは、”空気”を操作しつつ映画を彩る彼のような俳優(柳楽優弥も、恐らくその系譜に位置しているかと)が現われたことで、今後は海外の主要な映画祭で日本人が俳優として何らかの賞を獲ることが増えていくのではないかと思います。私自身は俳優で映画を観るということがありませんが、俳優で映画を観る人達がいるからこそ、かなりの映画好きしかその存在に敏感ではなかったはずのペンエーグ・ラッタナルアーン監督作や、一部に確実なファンがいたとは思いますが、その手法ゆえにどうしても苦手だと公言する人がそのファンよりは絶対に多いであろう是枝裕和監督作がそれなりに受けてもいるのですから。
とりあえず予告編だけでの判断になりますが、『ヴィタール』はなかなか陰鬱とした雰囲気で悪くない感じがしました。主題歌はcoccoが歌うみたいですから、その希少性から、そちらのファンも映画館に行くのかもしれませんね。
最後にこれも予告編と、いくつかの雑誌で読んだ記事に拠るのですが、11日から上映される『父、帰る』(アンドレイ・ズビャギンツェフ監督/昨年の金獅子賞)は必見でしょう。初日に駆けつけるつもりです。
2004年09月01日
「旅は若さを創る」byフェルディナン
先日、会社の同期の前で、『誰も知らない』に出演している末っ子役の清水萌々子を激賞してみたところ、あっさり「あなたロリコン?」と返され、やり場の無い憤りを感じた[M]です。断じてそういう事実はありません。
以前に日記にも書きましたが、“映画の旅”に関するコーナーを作ろうといろいろ構想しています。難しいのは、“映画と旅”と題してはみても、そこに登場するタイトルは3つか4つくらいしかないということです。そうなると、タイトルでそれぞれの文章を区切るのは、いささか心もとない気がしてきます。では場所で分けてみてはどうか? 確かに訪れた都市や街はそれなりに列挙できますが、映画とかかわりのあるエピソードがあらゆる場所で生まれたわけではありませんから、勢い、エピソードの無い街はただ通り過ぎただけという印象にも繋がってしまうだろうと。たとえ本人的には忘れがたい街でも。と、そんなことを考えているうちに時間だけが過ぎていくといった状況です。いやはや。
そもそも私が旅に出ようと思い立ったのは、どんな心境によるものだったのか。何が私をヨーロッパへと駆り立てたのか。それは多分、『気狂いピエロ』においてジャン・ポール・ベルモンドが言った「旅は若さを創る」という台詞に集約できると思います。もちろん、まだ若かった私が、さらなる“若さ”を求めたわけではないのですが。もっと抽象的に、かの台詞に反応したんだと思いますが、今となっては定かではありません。未知の何か、新しい世界、感動、まぁそんなようなものを求めていたのでしょう。当時の私にとって、“若さ”とは、それらと同義語だったのです。
ゴダールが断片の人なら、私の“映画と旅”に関するテクストも、断片の集合体にしてみてもいいかもしれませんね。いずれにせよ、今週より少しずつ書き溜めていきます。
「どうなることやら…」(by マリアンヌ・ルノワール)