2005年03月31日

必見備忘録 4月編

今月はやや控えめのラインナップです。

■『アビエイター』[上映中]
 (渋谷TOEI2 11:30/14:55/18:20〜21:25)

■『コーヒー&シガレッツ』[4/2〜]
 (シネセゾン渋谷 10:00/12:00/14:20/16:40/19:00〜21:00)

■『ANALIFE アナライフ』[上映中]
 (シアター・イメージフォーラム 21:00〜22:35)

■『サマリア』[上映中]
 (恵比寿ガーデンシネマ 10:50/13:00/15:10/17:20/19:30〜21:20)

■『コースト・ガード』[4/16]
 (シネマスクエアとうきゅう 9:30〜)

『アビエイター』には期待しています。スコセッシを再認できるかどうか。

ジャームッシュの新作は、“どこでも買える合法ドラッグ”(本人談)であるコーヒーとタバコを題材にした、いかにも心躍りそうな作品です。私はコーヒーを飲まないのですが、タバコだけは止める気がしないので、それぞれの吸い方に注目してみます。

『ANALIFE アナライフ』は今月中に観ようと思っていましたが、なかなか都合が付かなかったので。mixiで監督が数回私のページに足跡をつけていたのが直接のきっかけです。鬼才・松本俊夫氏の推薦文にも反応した次第。

今月はキム・ギドクの新作・未公開作が観られるという意味で、記憶に残る月になろうかと。すでに公開中の『サマリア』は、“恵比寿効果”もあって超混雑が予想されますから、後半にでも。『コースト・ガード』はかつて特殊な機会に公開されたらしいのですが、今回もまた特殊な機会である「韓流シネマフェスティヴァル」という、口に出すのも躊躇われる特集上映にて。2本とも恐るべき作品に違いなかろうと思います。

『スクール・オブ・ロック』あるいは、鏡としての映画

スクール・オブ・ロック起こりえたかもしれない可能性について書いてみても仕方が無いことは重々承知しているつもりですが、それでもあえて書いてみれば、この痛快極まりない映画を、仮に劇場で観ていたと仮定するなら、私は間違いなく泣きに泣いていただろうと思います。それはもちろん、年齢を重ねるごとに涙もろくなっているからとかそのようなレヴェルの話ではなく、言ってみれば私の若かりし記憶が本作のあからさまな叙情性に対し、ほとんど無媒介的にシンクロしてしまったせいなのです。

ところで、ある映画作品を前にした時、自分以外の人間との見解の相違はごく日常的に見られますが、それはもちろん“映画の観方”が違うという原因もあるにせよ、やはり、その作品を観た人間がどのような人生を送ってきたのか、やや大袈裟に言えばアイデンティティーの相違という部分が大きいだろうと思うのです。どれほど装ってみても、人が映画を観る時、多かれ少なかれ自らの人生=歴史を反映させざるを得ない、と。これは否定しようのない事実だと、今は確信しています。
超が付くほどの“娯楽映画”『スクール・オブ・ロック』を観て、何故このようなことを考えるに至ったのか。それは、この作品に紛れも無い過去の自分を投影させていたことに気付いてしまったからなのです。

『スクール・オブ・ロック』が、良く出来た面白い映画であることは否定しません。
しかし私は、ほとんど本作を観てはいなかったのかも知れないのです。観ていたのは、ノスタルジーに彩られたかつての“自分”にほかならず、気付いたときには、これまでいくらか冷静を装い、それがほとんど無意味だとどこかで知りつつも、映画作品に進んで自らを重ねることを禁じてきたつもりだった私のさもしい意識が、見事に瓦解していました。古くはジャン=リュック・ゴダールの『軽蔑』、そして、つい先日も『ビフォア・サンセット』で似たような体験をしたのですが、ほとんど監督の野心など隠蔽されているかのごとく堂々とメジャーな手法で撮られた本作は、私にとって鏡のような映画だったと言えるのかもしれません。

私が、父と友人の影響でギターに目覚めたのが中学生の時だったと思います。
とりわけ、本作でも非常に重要な位置づけをされているレッド・ツェッペリンに出会って以来、それこそ寝食を忘れるほど心酔し、無謀にもロックという概念をひたすら探求していたような気がします。悪友とギターを弾いている時、大音量にあわせて絶叫しつつ暴れている時、私は確かに自分が何かから解放されていると実感していました。例えば勢いで入部してしまったラグビー部だとか、あるいは受験勉強だとか、もしくはふとした瞬間に我が身を襲う孤独だとか、それらから解き放たれ、かりそめの快楽を手にしたような錯覚を覚えていたのです。ロックという武器を手にした私は、無鉄砲で、そして横暴だったと言えるかもしれません。ちょうど、本作の冒頭でのジャック・ブラックがそうであったように。流石に自分をピカソに例えるほど傲慢ではなかったと思うのですが。

『スクール・オブ・ロック』には、特筆すべき凝った構図や台詞、演出があったわけではありません。愚直なまでに分かり易く、最も典型的なアメリカ映画の一つだったとすら言えるでしょう。ジャック・ブラックのオーバーリアクション、ギャグ、反動的なキャラクター造形などは、特に新味の感じられない、言わば徹底した過剰さのみを頼りに演出されていたような気すらします。演出だけでなく、それが『恋人までの距離』を撮った監督とは思えないほど、何の違和感も感じさせない切り替えしや、通俗的な心理的ズームアップも多様されています。
にもかかわらず、生徒たちに初めてロックを教えるシーンが齎す感動は何なのか。もはややりつくされた感のある、あの数回に分けて繰り返されるバンドメンバーの“選別”シーンに見て取れるあからさまな観客への目配せにもかかわらず、私は涙を流さんばかりでした。“選別”といえばすぐさまロバート・アルドリッチを思い出してしまうのですが、後に調べてみたら、山田宏一氏も『特攻大作戦』に比較されていたのですが、それはともかくとしても、アメリカ映画がこれまで培ってきたあまりに映画的な描写は、リンクレイターと聞いて想像しがちなテイストからはかけ離れているなと思いつつも、実に豊かな瞬間を形作っていました。
加えて、その固有名詞の氾濫も、私を感動させる要素だったと言えるでしょう。名だたるロックスターの名前がいくつも出てきて、その映像や歴史が“授業”の中心になるのですが、次第に教師の風格が漂い始めたジャック・ブラックの、ほとんど地で演じているかのような形態模写を含め、悉く具体的なイメージに対しても、私の人生=歴史がシンクロしないわけにはいきませんでした。
その他、挙げればキリが無いほどの美点と、リンクレイターらしからぬ(ポジティヴな)凡庸さが横溢しているのですが、それらの列挙はしないでおきます。この文章は、あくまで私の人生=歴史がほとんど全編に渡って反映されてしまったということが示せればそれでいいのですから。

映画は個人を映す鏡である、というような一説を、かつてどこかで読んだ気がするのですが、少なくとも『スクール・オブ・ロック』に対してはその言葉が真理足りえると素直に思えました。仮にもレビューとは言いがたいこの文章は、本作を3度繰り返して観た私の率直な思いに他なりません。以後このような文章は、出来れば書きたくはありませんし、そう書くこともなかろうかと思いますので、どうかご容赦を。

2005年03月29日

24時間戦えない私は…

今週は何を観ようか、などと暢気に考える余裕もないまま、土曜日は朝一で『デーモンラヴァー』を鑑賞しました。シアター・イメージ・フォーラムに入ると、「先着10名様に…」とサイン入りのプレスシートを渡され、それ自体は喜ぶべきことではあるのですが、あまりにも内容が薄かったため、ただで貰っておきながら若干不満を募らせたりしました。客席はざっと15人強といったところ。クロエ・セヴェニーとジーナ・ガーションの2ショットなどそう観られるものではありませんが、ほとんど“違和感”(これはポジティブな意味ですが)のみで構成されているような本作において、キャスティングの妙に驚いている暇などありませんでした。
それにしても、アサイヤスの作品は衣装がいいですね。

イメージ・フォーラムを後にし、その足でジムへ。夕方鑑賞予定(すでにインターネットでチケットを購入していました)だった『サイドウェイ』に備えました。16:00の上映まで何も口にしていないというのもどうかと思い、ヒルズではホットドッグとビールを胃に流し込み、それでもまだ時間と胃に余裕が感じられたので、追い討ちをかけるようにNYサンド(ブリトーみたいなものです)と、上映中に飲むつもりで赤ワインを購入。
二回目『サイドウェイ』はやはり素晴らしく、前回と同じところで笑っているのに、あたかも初めてそのシーンを観たかのように楽しむことが出来ました。開場は満席、劇場全体が幸福に包まれたかのような錯覚を覚えました。一口で飲み終わってしまう赤ワインをボトルで飲めていたなら、全く言うことがなかったのですが。

明けて日曜日は、夕方より新宿で所用があったので、これまでほとんど行くことがなかったピカデリーにて『エターナル・サンシャイン』を。大方の絶賛を受け、多少の気負いが無かったとはいいませんが、結果的には不満だけが脳裏をかすめ、同行した女性に感想を求めたところ、「私は好きだとけど。少なくとも『マシニスト』よりは…」と思いもよらなかった比較をされ、その見解には大いに頷きました。
本日、すでに鑑賞済みの後輩と意見を交わしたのですが、彼曰く、「“策士策に溺れる”感じだった」と。なるほど、うん、それはそうかもしれないと膝を打ち、上手いこと言った後輩には『サイドウェイ』を熱くリコメンドした次第。

もちろん、これは今に始まったことではないのですが、ある作品を観た後に抱く感想というか感情には、どうしたってその人の歴史が反映するものだなぁ、と。このことは、現在書いている『スクール・オブ・ロック』評でより具体的に書くつもりですが、この週末に観た3本の映画は、なんだかそんなことを考えさせてくれました。

このところ観るべき映画が多すぎて全てをカヴァーしきれず、歯痒い思いを禁じ得ません。一番の心残りはジャッキー・チェンの新作を見逃したことですが、『クライシス・オブ・アメリカ』も、恐らくこのまま観ないで終わりそうです。平日はなかなか映画を観られないので、dvdやヴィデオも数本ストックされたままです。今週は劇場を1本に抑え、それらを消化する時間にあてようかと思っています。

2005年03月28日

『デーモンラヴァー』を語ることの不可能性

原題:DEMONLOVER
上映時間:120分
監督:オリヴィエ・アサイヤス

オリヴィエ・アサイヤスは常に変化し続けています。もはや彼の作品は、ジャンルという概念とは別種の、ほとんど未知のストリームを漂っているかのようです。

その証拠に、本作は、企業スパイを中心に置いたサスペンスという、後付の説明には到底収まり得ません。それどころか、ありとあらゆる要素のアマルガムが観るものを不意打ちし続けるのです。

一部日本を舞台にしているにもかかわらず、そこには観たことも無い画面と音がある。しかし観たこともないことを、いったいどのように語ることができるのでしょう。

私は今、自らの限界を強く思い知った感じがします。

『エターナル・サンシャイン』、何をどう受け入れられないのか…?

原題:ETERNAL SUNSHINE OF THE SPOTLESS MIND
上映時間:107分
監督:ミシェル・ゴンドリー

確かに、チャーリー・カウフマンの脚本がある観客の目に“斬新に”映ったとしても、それを非難することは出来ません。それを“面白い”と言うことも、あえて否定しないでおきましょう。キャスティングも決して悪くないし、とりわけ、ケイト・ウィンスレットの奔放なキャラクターには切なさすら感じることが出来ます。ルールにとらわれないフラッシュバックは、観るたびに“新たな発見”を生みもするのかもしれないし、本来形にしがたい空想に確たるイメージを与えるミシェル・ゴンドリーの想像力は、極めて“正確に”炸裂しているとすら思います。

しかし、私にはいかなる感動も動揺も齎すことがありませんでした。
ここに、一度しか観ていないから、という言い訳は通用しません。これが合う、合わないという相対的な問題に収斂されるのであればまだ救いがあるのですが。

あるいは私が間違っているのでしょうか……? 
そんなことをあれこれ考えさせられた作品です。というわけで、観ないことには始まりません。いや、どうか積極的に観て欲しいと思います。つまり言いたいのは、どうしても受け入れられない作品に直面した時、その作品の何をどう受け入れられないのか、それを考えてみることが、実はすこぶる大事だと言うことです。

といいつつも、やはりもう一度観ないことにはそれすら考えられないという、弱い弱い自分……

2005年03月23日

(密かに)トラックバック問題解決

一難去ってまた一難、といったところでしょうか。

先日は当ブログの危機をくぐり抜けたばかりだと言うのに、今朝新たな問題が発覚しました。すなわち、外部からトラックバックが打てない、と。そういえば、最後にトラックバックを頂いたのが2/23で、普段からひっきりなしにトラックバックを打ってもらえるようなブログではないにせよ、「来ないナァ…」程度の危惧は抱いておりました。まさかこちらのcgiに問題があろうとはゆめゆめ思わず、生来の楽観的性格が故か、そんな懸念もすぐに忘れてしまっていたのです。コメントは従来どおり頂いていましたので。

しかしながら、本日頂いたコメントにてようやくその事態に気づき、丸々1ヶ月間その状態を放置していたことに青ざめ、至急処置をしました。
原因は、2/24に導入したトラックバックスパム対策にあったようです。その時、トラックバック用のcgiを軽く書き換えたのですが、どうやらそれが悪かったらしく、スパムどころかあらゆるトラックバックを排除していたのです。

私のほうからは通常通りにトラックバックを打つことが出来たのですが、先方にしてみれば「こっちからは打てんのかい! なんじゃいそりゃ!!」と怒髪天を突いていたのかもしれず、大変申し訳なかったと思っております。

というわけで、今は復旧いたしましたので、どんどんTB打っていただければと思います。

m(_ _)m

[M]@猛省中

『ビフォア・サンセット』は近年稀に見る神話的な傑作である

ビフォア・サンセットこの10年を振り返ってみても、『ビフォア・サンセット』を超えるロマンスを思い出すことは困難です。恐らく、学生時代に始めて接したフランソワ・トリュフォーによる神話的連作“アントワーヌ・ドワネルもの”以来の衝撃のような気がしています。トリュフォーがジャン=ピエール・レオーという“分身”を得て、その成長を長きに渡りフィルムに焼き付けたように、リチャード・リンクレイターもイーサン・ホークとジュリー・デルピーという2人の俳優達を見つめ続けることで、やはり神話的な作品を撮ってしまいました。

上映後、同行した女性に最初に放った言葉は、「短すぎる…」というものでした。それはかつてジャン=リュック・ゴダールがジャック・リヴェットの『アウト・ワン』に向けた賛辞とはやや異なる意味だと思うのですが、とにかく80分強の上映時間ではあまりに短すぎる、それが『ビフォア・サンセット』に向けた最初の言葉です。しかしながら、昂奮が収まり改めて考えてみると、本作の上映時間が、なんだか妙な説得力を孕んでいるようなそんな気がして、あれはあれで正しかったのだと納得してしまいました。それは多分、観客の一人に過ぎない私が、上映中、図らずもイーサン・ホークに同化していたことに拠るでしょう。あのシチュエーションは、劇中の二人にしてみればほとんど一瞬とも言えるような短さだったはずだと思い至ったからです。映画におけるロマンスは、観客にその登場人物への同化現象を齎すことが出来るかどうかで、その価値が決まってきたような部分があるかと思います。とはいえ、私自身はこれまでそのようにロマンスを楽しむことはせず、別の価値を探してきたつもりでした。そんな私が、まんまとイーサン・ホーク演じるジェシーに同化してしまったということ、『ビフォア・サンセット』に驚くべきは、その一点に集約されます。そしてだからこそ、ラスト近くにジュリー・デルピー自身によって弾き語られる「A WALTZ FOR A NIGHT」に危うく涙しそうになったのです。

前作『恋人までの距離』から『ビフォア・サンセット』まで、“実際に”9年という時間が流れていることは周知の通りです。“実際に”という部分を強調したいのは、その間、観客である我々の時間もやはり9年分流れているのだという事実を確認したいからに他なりません。“作品内で描かれた(あるいは描かれていない)時間”と“現実世界の時間”の二者が合致していること。本作におけるリチャード・リンクレイターの野心は、そこに表れていると言えるでしょう。

9年という時間は長いものです。もちろん、『ビフォア・サンセット』ではその膨大な時間の経過を随所で感じさせながらも、しかし、ある意味感じさせないとも言える。それは、この連作(とあえて呼びますが)が同じ手法で撮られているからだと思います。技術的には、ワンシークエンスをなるべく少ないカット数(本作は多くがワンカットでした)で撮り、照明は自然光中心(室内シーンにおいても、ライトの存在は感じませんでした)で、といった手法。構造的には、兎に角二人の会話以外の台詞は極力削られています。起こりえた具体的な“可能性”をその都度宙吊りにしながら、あえて曖昧な現在の二人を切り取ろうとする姿勢が作品を覆っている、とも言えるでしょう。前作でリンクレイター監督はある“スタイル”を確立し、その方法論を、本作でさらに推し進めたのだと思います。加えて、イーサン・ホークとジュリー・デルピーが脚本に参加したことで、その会話がより“現実的”な様相を纏うことになります。この効果は、息を飲むほかない車中のシークエンスショットで昇華するでしょう。このシークエンスは、前作には観られなかったジュリー・デルピーによる激しい感情の昂ぶりの発露に留まらず、スクリーンでは描かれなかった二人の現実生活へのシニカルな視線があからさまに露呈する極めて重要なシークエンスなのです。もはや残された時間はあと数十分。彼女を家まで送り届けたら、またもや飛行機の待つ空港まで行かなければならない。私は、ほとんど自らの時計を見るがごとく、刻一刻と迫る時間に追われているような感覚でした。いったいどのような結末で締めくくられるのだろうか、と。

『恋人までの距離』のラスト、二人が別れる場面では、切羽詰った二人がやっとの思いでその感情を表に出します。しかしそれまでのように悠長な会話のキャッチボールをしている時間など無い二人は、ただ抱き合い、口づけることしかできない。しかし、それはその後の諦念めいた二人の表情をより強めるためのシーンだったような気がします。
対する本作のラストシークエンス、ジュリー・デルピーの部屋(このインテリアが非常にいいのです)で、イーサン・ホークはカモミールティーなど飲みながら、彼女が弾き語る自作の曲を聴いています。およそ別れの時間が迫っている二人には見えそうもない一見すると悠長なこのシーンは、しかし、何と感動的なシーンでしょうか。前作同様、“理性ある大人”を演じなければならない二人の切なさが、何故だか自分の切なさに重なり、明らかにイーサン・ホークに対する想いを歌にしているジュリー・デルピーは、やはりというべきか、このシーンでも神々しいまでの透明な美しさを見せる。そして本作はまたしても曖昧なまま幕を閉じるのです。

しかし、このエンディングは本当に曖昧なのでしょうか。
私には、まだこれからも続いていく二人の“不確かな未来”を、“確実”に刻み付けていたように思えてなりません。それは続編に対する期待というより、確信に近い何かだと、今では言えるのです。

2005年03月22日

あの“光”を忘れないために…

すでに左のメニュー部分のみ先に更新しましたが、この3連休はdvdも含め3本の映画を鑑賞。『ロング・エンゲージメント』以外は期待以上の満足感を得られました。
恵比寿ガーデンシネマに行くにはそれ相応の覚悟がいると、上映の1時間30分近く前に整理券を求めて到着。すでに上映終了も近かった『ビフォア・サンセット』は、流石にそれほどの混雑を見せず、すぐ隣のイタリアンにてブランチをする時間もできたので、気分も上々の内に鑑賞出来ました。次回上映作品『サマリア』もかなり前から楽しみにしていたのですが、やはりやや時期をずらした鑑賞がいいかもしれません。

代官山を冷やかしつつ徒歩で帰宅後、近所でレンタルしてきた『スクール・オブ・ロック』は、これまでに鑑賞したリンクレイター作品とは全くといって良い程に趣が異なり、パッと見はアメリカ映画の王道そのものでしたが、通常、第三者の強力なリコメンドが多数寄せられた場合、観る時に思わず肩に力が入ってしまうことが多く、先入観に抗うのもなかなか困難なのですが、にもかかわらず本作はそんなこちらの強張った態度を知らぬ間に武装解除させるほど“幸福な”映画で、かつてロック少年だった頃を確かに思い出させるジャック・ブラックやキッズたちの反乱振りに心から酔いしれ、そして楽しむことが出来た、と。もう一度鑑賞し、別途作品評を書くでしょう。

明けて月曜日の祝日は、『ロング・エンゲージメント』でしたが、こちらの客入りは何故だかイマイチでしたね。もしかすると、すでにネット等にUPされている作品評の影響なのかもしれませんが、調べていないのでそれもわかりません。しかし、実際に観た私の評価を言わせていただければ、ものすごくつまらない唾棄すべき作品ではない、といった感じ。これは戦争映画ではなく、やはり“純愛”映画でしょうから、私が乗れなかったとしても不思議は無いのですが。いかにもジュネ監督だと思われた細かい描写には納得できる部分もありましたが、トータルでは「……」でした。

ところで、特に90年代以降の邦画界では引っ張りだこだった照明技師・佐藤譲氏が去る2/24に逝去されました。所謂ドキュメンタリータッチという貧しい言葉では表現しきれない“繊細な”仕事をしてこられたベテランです。つい先日、『カナリア』を観た際、生前の氏のインタビューを読んでいたところでしたので、このニュースには驚きました。彼のスタイル(というと語弊があるかとも思いますが)は、今後も様々な形で受け継がれていくことと思います。
「boid」に青山真治監督の追悼文がありますので、よろしければご参照ください。

というわけで本日中には『ビフォア・サンセット』のレビューを更新したいと思っております。いや、最悪でも明日の昼までには。。。

2005年03月18日

『恋人までの距離』における“言葉”と“構図”を冷めた視線で楽しむ

恋人までの距離

本作が、一般的に認識されているような所謂“ラブロマンス”と異なる点を挙げるなら、映画における“台詞”が、現実における“会話”により近く、かつ、それとは逆に、現実感を伴わない“詩的”な言葉に代えられているからではないでしょうか。主人公である二人、すなわち、イーサン・ホークとジュリー・デルピーを結びつけるための、さしたる事件もアクシデントも起こらない本作ですが、その代わりに、時に極めて抽象的で、時に“リアル”な言葉によって、この『恋人までの距離』は成り立っているのです。

会話とは言葉の応酬に他なりません。であれば、監督であるリチャード・リンクレイターが言葉に拘るのも肯けます。冒頭、二人はヨーロッパを横断する列車で知り合いますが、国籍の違う彼ら(アメリカ人とフランス人)が、二人とも理解できないドイツ語を間接的媒介として知り合うという事実が、それを示唆しているかと思います。二人の国籍(言語圏)とは別の、いわば“第三の国”を舞台にしているという点を考えてみると、どうしても言葉にたいする監督の姿勢を意識せざるを得ません。

さてそれでは、二人のキャラクターはどのように明かされるのでしょうか。リンクレイターは、二人が読んでいる本によって、まずは示そうとしています。イーサン・ホークは「K(クラウス)・キンスキー自伝」を、ジュリー・デルピーはジョルジュ・バタイユの「マダム・エドワルダ」を読んでいました。ただし、これだけではあまりに抽象的過ぎます。少なくとも私は、確かに“二人ともやや曲者だろう”とは思っても、この二人が読んでいた書物だけでそのキャラクターを決定付けるにはいささか心もとない。しかし、この表現手法自体は決して悪くないし、それが監督による何らかのオマージュ(『ウェイキング・ライフ』にはそう解釈できるような言葉が溢れていたような…)に終始する“遊び”だとしても、何となく“らしい”感じがしました。

その後二人は幼年時の逸話を頼りに、お互いを理解しようと努めます。何となくお互い惹かれあった挙句、二人は列車を降りることを決意するのですが、まぁこの辺りは説話的にそれほど新味を感じなかったものの、面白いのはそのカメラの存在にあるのではないかと。まずは食堂車での会話ですが、とくにドラマティックではない会話がだらだらと続くこのシーン、実は多くがシークエンスショットで撮られたのではないかと思わせるのです。つまり、ショットごとに会話が寸断されず、一続きで撮られた会話を、切り替えしによってリズミカルに編集しているのではないか、と。いや、これは私の思い込みなのかもしれませんが、それほどまでにこの食堂車のシーンは印象的で、その印象は以降、ほとんど全編を覆わんがばかりでした。通常の切り替えしとは違い、本作における切り替えしは、聞く者が必ずと言っていいほどフレームの手前に映っているのです。話者のアップを交互に切り取るのではなく、それを聞いている人間も共にフレームに収めることで、会話の持続性が死んでいない、そんな気がしました。これは、二人の会話とその二者の間に漂う空気感をこそ重視しているの監督の、一つのアイディアだったのではないでしょうか。この手法は、二人が向かい合って話すシーンに、すべからく適用されていた様に思えます。
しかしそうかと思えば、続くトラムのシークエンスでは、文字通りのシークエンスショットが約5分くらい続きます。この時のカメラは、二人を同時に映し出している。というより、そのシチュエーション上(実際に走っているトラムにカメラを乗せている関係上)、そうせざるを得ないのです。もちろん厳密に設計された上での“リアル”な会話のキャッチボールが交わされているこのシーンもさることながら、続くレコードショップのシーンには驚きを禁じえませんでした。視聴室でレコードを聴く無言の二人を、やはりワンショットで画面に収めているからです。良くありがちな、二人の心の機微をアップの切り替えしで表現したりはせず、まだ出会って間もない彼らの、いかにも居心地の悪そうな視線や口元の動きが、逃げ場無い一つの画面に収まっているこのシーンは、しかし、観ているこちらにその居心地の悪さを充分に感じさせる素晴らしいシーンで、新鮮な驚きがあったのです。それは、確かに現実にもこういう瞬間があるという驚きというより、純粋に映画的な驚きなのです。

先に述べたように、『恋人までの距離』においてその会話の内容そのものは非常に抽象的です。生と死、魂の再生、孤独、人生、愛、そして男と女……およそ“好きだ”とか“愛している”などという通俗的な言葉は宙刷りにされたまま、観念的な言葉だけが紡ぎだされていきます。がしかし、時折かなりロマンティックな言葉が挿入されることも見逃すべきではないでしょう。極言すれば、その瞬間にのみ、二人は自分の言葉で話しているかのようなのです。つまり多くの抽象的な言葉は監督自身の言葉を代弁させられているようで、決して彼ら二人の言葉ではなかったのではないか、と。しかしそれが押し付けがましくなく、むしろさりげないという部分が、本作の美点だと思います。定められた“別離”を惜しむように繰り返される別れの言葉の掛け合いは、ロマンティックでありながらも美しい。「goodby」「au revoir」、そして「later」という言葉で締めくくられる悲痛な挨拶は、その別れを一秒でも先送りにしたいという、もはや恋人に限りなく近づいた二人の“距離”を如実に物語っているのです。

にもかかわらず、あのラストシーンにおけるイーサン・ホークとジュリー・デルピーそれぞれの表情を観ると、未来はやはり“不確か”であり、十数時間かけて育まれた二人の“愛に似た何か”は幻想だったに違いないと思わせます。そして、最後に見せたジュリー・デルピーの、何かを諦めたような表情の透明性が、本作で最もフォトジェニックな瞬間だったと私が思うのも、あるいはリンクレイターその人の、一歩引いた視線を共有したからなのかもしれません。

2005年03月17日

復活の日に思うこと

当ブログのカテゴリーに“a tragicomedy”と名づけられたものがありますが、その由来は、悲劇というものは見る人が見れば喜劇にもなってしまうもの、取るに足らない日常などどのような視点で見られているのかわからないのであれば、それは悲観的かつ楽観的な表情を纏うことになるだろうと。落胆し困惑している側の“青ざめた表情”など第三者には案外見えないことが多いのではないでしょうか。

と、涼しい顔で書き始めた約3日ぶりの新規エントリーですが、これまで一週間近く更新を怠っていた時もあったというのに、この3日間はなんだかもう焦りに焦りまくって、最終的には別のブログシステムに移行しようかだとか、そんなネガティヴな思考ばかりが頭をもたげ、この間にいつも見てくれている方たちが離れていってしまうのではないかとすら思ったりして、全くもって悲惨な状態でした。

元を辿れば私のケアレスミスに端を発したのですが、残酷なまでに減っていくPVやUUを見るに付け、このままではまずい、と、日頃映画以外にはたいした積極性も見せない私が、今度ばかりは各方面を奔走。サポート担当者に場違いなメールを送って何の問題も解決しないばかりかあろうことか営業までされ、日本が駄目なら本場アメリカだ、と、今度は英語にてアメリカのサポートセンターに問い合わせるも、全く要領を得ない(英語がわからないというわけではありません)その冷たい文字列に怒りすら沸いてくる始末。
そうこうしている内にもPVはどんどん減り続け、つい先日の日記で「このところアクセス数が底上げされた感があります。」などと書いてしまったことを激しく悔やみ、あれも単なるバブルだったのか…という悲壮感が漂い始め、周りの人間にも励まされたり。
そんな折、もう一度基本に戻るべく、“困った時はGoogle”を合言葉に、これまで培ってきた検索技術を駆使し、遂にたどり着いたのがとあるブログ。そこにはかつて、私と全く同じ状況に陥って同じように途方にくれていた同士(!)がいました。その方は丁寧にも、どうやってその苦境から抜け出したのかを順を追って説明してくれていました。そして、遂に復活するに至ったと。

今更ながら思うのですが、インターネットは“無償の善意”に溢れています。“誰かの役に立つかも知れない”という思い(それは時にマイナスの威力にもなりえますが)に、私もこれまで何度となく助けられてきました。皆が口を揃えて「困ったらググれ!」と呪文のように唱えるのも、その先には必ず何らかの“救済”があるという暗黙の、しかし、かなりの割合で確かな真理があるからでしょう。

当ブログは、映画について私の思うがままを書いているだけの自己満足に終始しているというのが現状でしょうが、やはり見てくれている人間の立場に立つこともまた、結果的に有意義なことなのかもしれません。

というわけで、本日より心を入れ替え(?)、当ブログのさらなる活性化を目指していければと思っております。そのためには、とにかく書いて書いて書きまくるしかありません。

2005年03月14日

というわけで、約3.5L/3日のワインを飲みました。

インターネット関係の仕事に従事している私から見ればまだまだ弱小サイトである当ブログではありますが、それでもこのところアクセス数が底上げされた感があります。それもこれも、私の拙い文章を懲りずに読んでくださる皆様のおかげというもの。それに応えるにはやはり、一本でも多くの映画を観て、なるべく頻繁に更新するしかありません。ということで、先週末から本日にかけて、『サイドウェイ』『カナリア』、そしてもはや誰も話題にはしていないであろう、遅すぎた『半落ち』をヴィデオで鑑賞いたしました。

といってもそれぞれの文章は未だ書きあがっておらず、本日も当たり前のようにワインを空けていることもあり、明日以降を待っていただく他ないのですが、滅多に訪れることの無いお台場はメディアージュで鑑賞した『サイドウェイ』には予想以上の満足感を得られたと言えます。おかげでその日はワインが進む進む。ワイン好きとしては結構影響を受けますね、あれは。それに引き換え、『カナリア』は期待値が高すぎたのか、もちろん決して悪くは無いのですが、鑑賞後に言葉を失うほどではなかったと。そしてこれは全くの余談ですが、その『カナリア』を観た日に『半落ち』を観たという事実は偶然にしてはいささか出来すぎているなぁ、と。『カナリア』に主演した石田法嗣が『半落ち』に数シーン出演しているなど知らなかったのですから。そう思って調べてみると、彼は『リターナー』にも出ていたとか。全然記憶に残っていませんが。

先週末は大いに遊んでしまったので、予告していた『恋人までの距離』評も手付かずのままですが、恐らく今週観るであろう『ビフォア・サンセット』にあわせて更新できればと思っています。

散々遊んだ挙句、いい年してこんな時間に眠くなってきたので、今日はこの辺で。
明日から手術以来約2週間ぶりとなるジムに通うので、早めに寝るとします。

2005年03月11日

要は子供時代と大して変わっていないということ

本日返却しなければならない『恋人までの距離』のヴィデオ、昨日中に再見し、今日の昼位までにはレビューを、と思っていましたが、ヴィデオを鑑賞している途中でふと民放に目を向けてみると、あろうことか何年かぶりの『酔拳』が放映されていて、吃驚。お猪口で水を汲みいれる修行シーンを目撃し、しばし逡巡。ああ、今『酔拳』を観てしまうと、今日は間違いなく『恋人までの距離』を観終えられないなと思い至り、意を決して『恋人までの距離』の画面に戻ったのは良いのですが、頭の中では蘇化子を演じるユエン・シャオティエンの、あのおどけながらも鋭い動きがリフレインされ始め、もう居てもたってもいられなくなり、最終的にはかれこれ50回以上観ているだろう中華料理のやけ食いシーンだとか、頭でっかちとの出鱈目な喧嘩だとかを微笑みながら観続け、この時代のカンフー映画、というよりもジャッキー映画特有のカメラワーク、すなわち、敵の攻撃を受けたジャッキー・チェンがよろめいたり痛がったりするシーンを寄りで見せながら、次に敵が攻撃してくる瞬間には高速でズームダウンするという、あのお決まりのカメラワークや、拳が風を切る音、大げさなスローモーションを存分に楽しんでしまっている自分を発見する始末。
観ているこちらも白ワインをガブ飲みしながらブツブツ言っているのですから、言わば酔拳を実践しているようなもので、多少酔っていた方が筆が軽快に進むことを経験から知っている私は、まだ全てを観終えていないにもかかわらず、ここぞとばかりに『恋人までの距離』評を書き始めたのですが、次第に遠のいていく意識を押しとどめることが出来ず、蓋を開ければその場で熟睡というオチです。

というわけで、『恋人までの距離』のレビューは未だ書きあがっておりませんが、本日会社にまでヴィデオを持ち込んで、昼休みなどに残りを鑑賞し終えたので、後は時間の問題ですね。まぁその時間とやらが一番厄介なんですが。

明日は午前中から『カナリア』初日初回を鑑賞するつもりでしたが、例によって舞台挨拶とバッティングすることを思い出して断念。となるとまずジムに行き、2回目辺りを鑑賞することになろうかと。あるいは『ロング・エンゲージメント』を引っ掛ける可能性もあります。

さて、少し前に軽く触れましたが、先日生まれて初めて体にメスを入れました。
今となっては全てを笑い話として回顧する準備が出来ていますが、一週間前はかなりビビッている自分がいたり。その不安はもちろん、術後の検査結果に対してなのですが、最も恐れていたのは手術とは何の関係も無い、言ってみればおまけのような血液検査なのです。と、ここまで書きましたが、詳細に関してはもう少しゆっくり書くとします。

2005年03月09日

この仕打ちはいったい…

昨日の記事に書いた備忘録に漏れが無いかチェックしていて、日仏学院で上映されている「カトリーヌ・ドヌーヴ、フランス映画を変えた女優」という特集を忘れていたことを思い出し、何とか『ハッスル』だけは観たいものだナァとあれこれ思案していたのですが、そんな時たまたま見つけたジョナサン・デミの新作『クライシス・オブ・アメリカ』の公式HPを見て愕然としました。東京ではユナイテッド・シネマとしまえん1館のみの上映という事実に。

いくらなんでもそれはないだろう、と憤るのはごく一部なのでしょうか。
せめてもの救いは、3/19に「アメリカの陰謀★ナイト」と題したオールナイト上映があることでしょうか。『クライシス・オブ・アメリカ』他、トニー・スコット『スパイ・ゲーム』、ジョン・フランケンハイマー『影なき狙撃者』の計3本立てです。とはいえ、23時過ぎにとしまえん駅に降り立つということが私にとってどれほど困難か、考えただけで気が滅入ってきます。

ともあれ、後1週間程ゆっくり考えて見ます。最悪、二番館での公開も視野に入れなければならないかもしれません。

2005年03月08日

必見備忘録を記す

前回、我ながら結構役立ったので、3月に公開される必見映画メモしておきたいと思います。

『ビヨンド the シー 夢見るように歌えば』[上映中]
 (新宿武蔵野館 11:30/13:55/16:20/18:45〜20:55)

『ビフォア・サンセット』[上映中]
 (恵比寿ガーデンシネマ 11:35/13:30/15:25/17:20/19:15〜20:50)

『サイドウェイ』[上映中]
 (シネマメディアージュ 11:25/14:20/17:20/20:20〜22:45)

『ロング・エンゲージメント』[3/12〜]
 (渋谷ピカデリー 10:30/13:25/16:20/19:15〜21:45)

『DEMONLOVER』[3/12〜]
 (シアター・イメージフォーラム 11:00/13:30/16:00/18:30〜20:30)

『カナリア』[3/12〜]
 (アミューズCQN 10:45/13:40/16:35/19:30〜21:55)

ざっとこんなところです。
アテネフランセの『現代日本映画2002-2004』は、相変わらず平日メインの開催なので断念。ヒルズで開催中の『生誕100周年記念 成瀬巳喜男 プレミアム10』には、出来る限り駆けつけるようにしたいです。ただし、モーニングショーというのがやや難。

そしてたった今気づいたことですが、『酔画仙』を見逃しました……また一つ後悔です。

『恋に落ちる確率』のトリックに全身で酔いしれる

原題:RECONSTRUCTION
上映時間:92分
監督:クリストファー・ボー

明らかに的を外している邦題はさておき、“ドグマ”との近親性が随所に見受けられたカメラワークと文法には新人監督としての野心が如実に表れています。その意味で、将来を期待したい監督だと断言したい気持ちにかられますが、2作目の公開は本作の客入りに拠るのでしょう。

一人二役という手法は様々な映画で試みられてきましたが、本作ほど、その2者の差異が大きかったことがあったでしょうか。あまりに巧妙な演出に、私は途中までそれら2人の女性を同じ女優が演じているとは気づきませんでした。なんと言うトリック!

『RECONSTRUCTION』とは“再編成・再構築”という意味になりますが、このタイトルでは何より女性を呼べないだろうという意図はわからなくもないものの、映画のタイトルはその中身とほとんど同じくらい重要なのかもしれず、そう考えると、いくらなんでもこの邦題はないだろうと思います。何故なら、本作は、この“RECONSTRUCTION”という言葉そのままの映画だからです。現実と虚構がその立場を互いに入れ替え、時間という概念すら自在に操作されるので、それだけ聞くと一見難解なイメージを与えかねないのですが、そこがこのクリストファー・ボーの腕の見せ所で、映画の中心に男と女のロマンスを置いているため、難解さはかけらも感じないまま、観客はどちらかに共感すらしてしまうことも可能なのです。

ともあれ、期待以上の作品に出会った喜びはことのほか大きかったと言えるでしょう。
次回作も是非正式公開してほしいものです。

『clean』は正式公開されるべきである

原題:CLEAN
上映時間:111分
監督:オリヴィエ・アサイヤス

マギー・チャンの多様で不確かなイメージが、ふとした瞬間に閃光を放つ。そこには、匂い発つような女性像ではなく、個としての生の瞬間が刻み込まれています。アサイヤスとのコラボレーションには、いやおうなく“現実”が刻まれてしまうということでしょうか。

脇役ながら、ニック・ノルティの異様な存在感には息を飲みました。あの声が素晴らしい。

このような作品が正式に公開されない日本の映画環境は、お世辞にも充実しているとは言えません。アルノー・デプレシャンと並び、今、最も観られなければならないフランス映画作家だと思います。

『レイクサイド マーダーケース』はミステリー以上の何かである

原題:レイクサイド マーダーケース
上映時間:118分
監督:青山真治

本作は、ミステリーをミステリーとは別の(もはや既存のジャンルには収まりがたい)次元にまで“強引に”昇華させた怪作だと思います。

久方ぶりにスクリーンで観る薬師丸ひろ子の演技は素晴らしい。彼女からは、危うげな強靭さとでも表現するしかないような、凄みを感じました。とくに彼女の目が赤く光る演出など、あまりにも意表をつかれほとんど呆気にとられてしまうほど。

サスペンスは湖畔において生み出されますが、それよりも個人的には、ラストにおける森における集団の異様なテンションに関して、私は説明すべき言葉を持ちません。それは、常に冷静沈着だった柄本明が急に怒鳴りだす場面の、ほとんど何を言っているのかわからないくらいの昂奮ぶりと重なります。

青山真治の思考は、ジャンル映画においてでさえ、一筋縄では捉えきれません。であるがゆえに、本作は新しく、そして感動的なのです。

『DV ドメスティック・バイオレンス』、本気(マジ)なエンケンは楽しいが…

原題:DV
上映時間:85分
監督:中原俊

本作の遠藤憲一は、間違いなく本気です。そして、本気な男を画面で観るのは幸福なことです。いい意味で余裕を感じさせないところが素晴らしく可笑しい。

対する小沢和義はどうでしょうか。終始眉間に深い皺を刻む表情には演技者としての余裕が感じられもしますが、だからつまらないというわけではなく、ラストの台詞はやはり本作の最良の瞬間だったように思います。

つまり裏を返せば、この2人以外に特筆すべきところが何一つなく、それでももう一つだけ良かった点を強引に挙げるなら、85分という短めの上映時間でしょうか。

しかしながら、この先中原俊の映画を見続けるかどうかは甚だ疑問と言わねばなりません。

『Ray/レイ』、最大の美点はシャロン・ウォレンだった

原題:RAY
上映時間:152分
監督:テイラー・ハックフォード

本作で最も印象に残ったのは、レイ・チャールズの母親を演じた、映画初出演のシャロン・ウォレンの感動的な演技だったという事実を重く受け止めたいと思います。

一度しか観ていないからでしょうか、ジェイミー・フォックスの“神がかった”演技に対して、どうしても“ものまね的”インパクトが勝ってしまい、冷静に判断できなかったので、そこは反省したいところです。

これまで積極的にその音楽に触れることもなく、しかしながらあの声と歌い方だけは妙に記憶しているレイ・チャールズというアーティストの人生を、映画を観ることで俯瞰出来たことは収穫だったと思います。

『ボーン・スプレマシー』のアクションに閉口する

原題:THE BOURNE SUPREMACY
上映時間:108分
監督:ポール・グリーングラス

ほとんど期待せずに観た前作『ボーン・アイデンティティ』の出来栄えにはなかなか関心してしまい、ここまで見せてくれるなら充分満足だと劇場を後にしたのですが、その記憶も覚めやらぬうちに続編が公開されるというので、今度は結構な期待を胸にいそいそと劇場に足を運んだのですが、果たして、本作はアクション映画だというのに、あの全てのアクションを“殺す”ようなカット割りはいかがなものでしょうか? 期待をしていただけに失望も大きく、ああ、監督が変わってしまったのだから仕方ないのだなと、これまでも何度か自分に言い聞かせてきた、“監督が交代する続編には期待してはならない”という掟を再度自己暗示するはめに。

アクションシーン以外は決して悪くなかったのですが、ポール・グリーングラスが過去にベルリンで金熊賞を獲っていたと知ったのは上映後だったので、最終的な判断は『ブラディ・サンデー』を観てからにしたいと思います。

但し、このシリーズにおいてはダグ・リーマンのほうが上だと言いたい欲望にかられるのもまた事実です。

『きみに読む物語』

原題:THE NOTEBOOK
上映時間:123分
監督:ニック・カサヴェテス

不覚にもラストのジーナ・ローランズに涙しそうになり、何とか堪えました。
個人的に、あの手のファタール的(二人の男性を天秤にかける)女性像に弱いのですが、本作の美点は挙げるなら、やはりジーナ・ローランズとジェームズ・ガーナー2人の演出ということになるでしょうか。

ニック・カサヴェテスは父親の映画とはまるで似ていませんが、これはこれで悪くないのです。あからさまな感動ものとして宣伝されてしまったがために、本作を取り逃がしてしまう人がいたとするなら、ちょっともったいないかもしれません。

スタッフロール後のケミストリーには閉口しましたが、誰一人劇場から出ようとしなかったのは、まだ涙が溢れていたからでしょうか…?

『パッチギ!』

原題:パッチギ!
上映時間:119分
監督:井筒和幸

堂々たるエンターテインメントとして、完成度も高い。とりわけ、喧嘩シーンは流石といったところです。その喧嘩=アクションシーンは、“アクション映画”である『ボーン・スプレマシー』より数倍は良かったと思います。

俳優陣も総じてよく頑張っていました。高岡蒼佑は『コンクリート』に出演したことを本気で後悔しているのではないでしょうか。これほどまでに演出の差が出るとは……。

沢尻エリカは素晴らしい。振り返った時の表情がたまらなく良かったです。小出恵介には勝村政信的な位置に収まって欲しいと人知れず応援したくなります。その中で出色は真木よう子でしたが、彼女を絶賛するに相応しい言葉が未だ見つかりません。彼女だけをもう一度観たいとすら思います。

この映画とは何の関係もありませんが、井筒監督といえば、私がまだ小学生だった時に観た『晴れ、ときどき殺人』のちょっとした濡れ場に昂奮し、擦り切れるほど繰り返しヴィデオを観た事を思い出して、ちょっとノスタルジックになりました。

2005年03月06日

劇場では一本だけですが…

またまた目当ての映画を見逃した土曜日。厳密に言うと、“見逃した”というより“見送った”わけで、『ビフォア・サンセット』初回を観るため、前日までに絶対に『恋人たちの距離』を観ておかねばと決めていたのにレンタルしたまでは良かったものの、結局は自宅で酔っ払ってしまい、観ず終い。ということは、翌日の『ビフォア・サンセット』もやはり見送ろう、と。
加えて、夕方からアテネフランセにてドライヤーの『ゲアトルード』を予定していたのですが、予定というものは一度崩れると連鎖的にその後に影響してくるもので、結局はドライヤーも断念。

全くもってだらだらとした土曜日でしたが、ドライヤーの代わりに観た『恋人たちの距離』は続編を期待させるに充分な出来で、改めて作品評を書こうかと思っています。リチャード・リンクレイターは現代アメリカ映画作家の中でも独特の位置にいるような気がします。何となくですが、彼が描lこうとする題材は、その表層の差にもかかわらず、結局は同じようなことを描いているようなきがするのです。あくまで何となく。

で、本日は朝一で『パッチギ』の初回を。20人弱の客入りでした。
何の衒いも無く、正面からエンターテインメントたろうとする井筒監督の戦略は、概ね成功しているように思いました。私はテレヴィタレントとしての彼を全くと言っていい程信用していませんが、映画作品を観れば、彼の聡明さが分かると思います。

さて、左の“reviews”欄に列挙してる作品、しだいに“レビューしていない”作品名が増えてきてしまいました。あまり格好いいものではありませんから何とかしなければと思っているのですが、だからと言ってこれまで以上の速度でどんどんとレビューを量産できるわけではありませんので、取り急ぎ急場凌ぎとして、今後は短評的なコーナーも設けようかと考えています。私が書くレビューは比較的長文なので、もっともっと短く簡潔なものを。恐らく一ヶ月ごとに一記事ずつ書いていくことになろうかと。早速今週中に書き上げようと思います。

そういえば、昨日はもう7度目くらいの『ザ・ロック』を、そして今現在、もう4度目くらいの『ラッシュアワー2』を性懲りも無く観ております。そんな暇があったら…と自分でも思ってしまいます……

:::私信〜イカ監督殿:::
『ナショナルアンセム』お送りいただき、ありがとうございます。実はまだ鑑賞できておりませんが、レビューのほうはもう少しだけお待ちください。観る前から楽しみにしておりますので。

2005年03月04日

『ソン・フレール〜兄との約束〜』、救済へと到る視線の変容

ソン・フレール『ソン・フレール〜兄との約束〜』の上映後、客もまばらな劇場の隅でしばし思いに耽ってしまったのは、私にもやや年の離れた兄がいて、今はもう年に一度会うかどうかという関係を何年も続けているという状態が、この悲痛な、しかし、穏やかな安らぎをもたらす映画とどこかでシンクロしたからなのか、あるいは、そのラストシーンが『息子のまなざし』のラストショットにおける、“宙刷りの救済”にも似た、妙な安堵感を覚えたからなのか。いずれにせよ、その後に予定していた映画へと緩やかに思考を切り替えることが出来ず、この映画を引きずったまま、何故だか孤独に苛まれつつ家路に向かうほかありませんでした。

『ソン・フレール〜兄との約束〜』は、パリの病院内におけるシークエンスとブルターニュの海辺におけるシークエンスが交互に展開されます。各シークエンスの冒頭に示される字幕を見ても明らかなように、もともと一方向のはずである、冬のパリから夏のブルターニュへと流れる時間の流れが解体されていることがわかるでしょう。この二つのシークエンスは非常に対照的な撮られ方をしていて、色彩設計や俳優の演技の質のようなものまで異なっています。もちろん、それは意図された演出であり、病院内のいささか緊迫感を伴う冷たい描写と陽光に照らされた海岸における(束の間の)開放感が交互に展開することで、観る者は息つく暇もないまま、兄弟の関係性が徐々に変容していく様を追い続けることになります。

本作において最も特筆すべき点は、執拗なまでに繰り返される、人間の肉体そのものへの視線に存しているとまずは言えると思います。それは時にエロティックであり、時に残酷であり、そして穏やかでもある。
病が再発し、ほとんど絶望に打ちひしがれる兄のブリュノ・トデスキーニは、すがる様な目で弟であるエリック・カラヴァカの家を訪ねていきます。長らく反目しあい、恐らく互いに兄弟であるという意識も薄れつつあったでろう二人が唐突に出会うシーンで、弟は困惑の表情を浮かべつつ、心身ともに衰弱しきった兄を看病すると決めます。この時の兄を見つめる弟の視線が、ラストで海を見つめるあの穏やかな視線へとどのように変化していくのか。それが本作の主題となるでしょう。つまり、兄弟の関係性の変容を媒体にした、弟の視線の変容こそが重要なのです。邦題にある“兄との約束”という副題も、本作が弟の物語であることを端的に示しているのです。

しかしながら、我々観客の視線を奪うのは兄の方だと言えるでしょう。生きる望みはもうほとんど残っておらず、もはや光などどこにも見出せない状態で臨む手術に際して行われる、ほとんど儀式のような、機械のように正確無比な看護士による剃毛行為をなすがままに受け入れる兄の深い諦念は、そのシークエンスの異様な長さとともに私の魂を揺さぶるに充分過ぎました。ショッキングとさえ言えるこの剃毛シーンは、恐るべき手際のよさで淡々とこなされていきます。一切の感情を排しているかのような二人の看護士の美しい手さばきと、死体のように痩せこけた兄の痛々しさ。何より肉体そのものが物語を凌駕し、観客に語りかけているような、極めて感動的なシークエンスです。
術後、ブルターニュでの静養に入ってからも、常に死と隣り合わせな状態に晒されている兄は、その手術跡で我々の視線を奪い、そうかと思えば大量の鼻血で死に瀕し、ここでもその肉体が朽ち果てて行く様を強烈に印象付けられてしまう。ではそんな兄に向けて、弟はどのような視線を投げかけるのか。

同性愛者である弟は、兄の看病をするうちに恋人を失っていきます。同じように、兄の恋人もまた、彼の元を去っていくのですが、彼女と弟が最後に交わす会話のシークエンスは、一瞬、かなりの違和感を齎すかもしれません。自らの辛い過去、すなわち、兄との禁断の日々を告白し、吹っ切れたように、同時に何かにすがるように兄の恋人の唇を貪る弟…。このシーンの直前に、弟は兄の病院で一人の青年とすれ違うのですが、兄と同じように病に伏すこの青年との短い会話と、やはり絶望的に塞ぎこむその青年の腕を強く握り締めることしか出来ない弟の言い難いもどかしさが、前述のような一見すると不可解な行為に到らせたのではないかと思います。もはや兄に対する心のわだかまりは少しずつ溶け始め、自分を求める兄に対する視線の変化が表れてくるのです。兄とはほとんど視線が交わることが無い弟ですが、兄の手術を境に兄の苦悩を真に知ることになったのではないでしょうか。弟が、兄と同じような状態でベッドに横たわる幻影を見るシーンはそのように解釈したいと思います。

ブルターニュは癒しの空間として描かれていますが、人気の無い海岸は時にその荒涼さを際立たせ、瞬時に残酷な空間へと変貌しそうな気配もあります。にもかかわらず、兄が自ら命を絶つシーンには、曇天の空と荒れた海というダークな色調に反して、安堵感に満ちているようです。一糸纏わぬ姿で海へと入っていく兄を捉えた美しいショットは、弟の視線そのものだったのではないかと思います。それは他でもない、ラストで海を見つめる弟の優しい視線に重なるのではないか。兄の死によって兄弟が真に“再生”したことを示すあの穏やかなシークエンスによって、弟の物語はようやく幕を閉じるのです。

肉体そのものを深く見つめること、そして、触覚を通じてその肉体を感じること。いくら兄弟とはいえ、そのようにしてしか真に相手を理解できないのかもしれません。