2005年03月18日

『恋人までの距離』における“言葉”と“構図”を冷めた視線で楽しむ

恋人までの距離

本作が、一般的に認識されているような所謂“ラブロマンス”と異なる点を挙げるなら、映画における“台詞”が、現実における“会話”により近く、かつ、それとは逆に、現実感を伴わない“詩的”な言葉に代えられているからではないでしょうか。主人公である二人、すなわち、イーサン・ホークとジュリー・デルピーを結びつけるための、さしたる事件もアクシデントも起こらない本作ですが、その代わりに、時に極めて抽象的で、時に“リアル”な言葉によって、この『恋人までの距離』は成り立っているのです。

会話とは言葉の応酬に他なりません。であれば、監督であるリチャード・リンクレイターが言葉に拘るのも肯けます。冒頭、二人はヨーロッパを横断する列車で知り合いますが、国籍の違う彼ら(アメリカ人とフランス人)が、二人とも理解できないドイツ語を間接的媒介として知り合うという事実が、それを示唆しているかと思います。二人の国籍(言語圏)とは別の、いわば“第三の国”を舞台にしているという点を考えてみると、どうしても言葉にたいする監督の姿勢を意識せざるを得ません。

さてそれでは、二人のキャラクターはどのように明かされるのでしょうか。リンクレイターは、二人が読んでいる本によって、まずは示そうとしています。イーサン・ホークは「K(クラウス)・キンスキー自伝」を、ジュリー・デルピーはジョルジュ・バタイユの「マダム・エドワルダ」を読んでいました。ただし、これだけではあまりに抽象的過ぎます。少なくとも私は、確かに“二人ともやや曲者だろう”とは思っても、この二人が読んでいた書物だけでそのキャラクターを決定付けるにはいささか心もとない。しかし、この表現手法自体は決して悪くないし、それが監督による何らかのオマージュ(『ウェイキング・ライフ』にはそう解釈できるような言葉が溢れていたような…)に終始する“遊び”だとしても、何となく“らしい”感じがしました。

その後二人は幼年時の逸話を頼りに、お互いを理解しようと努めます。何となくお互い惹かれあった挙句、二人は列車を降りることを決意するのですが、まぁこの辺りは説話的にそれほど新味を感じなかったものの、面白いのはそのカメラの存在にあるのではないかと。まずは食堂車での会話ですが、とくにドラマティックではない会話がだらだらと続くこのシーン、実は多くがシークエンスショットで撮られたのではないかと思わせるのです。つまり、ショットごとに会話が寸断されず、一続きで撮られた会話を、切り替えしによってリズミカルに編集しているのではないか、と。いや、これは私の思い込みなのかもしれませんが、それほどまでにこの食堂車のシーンは印象的で、その印象は以降、ほとんど全編を覆わんがばかりでした。通常の切り替えしとは違い、本作における切り替えしは、聞く者が必ずと言っていいほどフレームの手前に映っているのです。話者のアップを交互に切り取るのではなく、それを聞いている人間も共にフレームに収めることで、会話の持続性が死んでいない、そんな気がしました。これは、二人の会話とその二者の間に漂う空気感をこそ重視しているの監督の、一つのアイディアだったのではないでしょうか。この手法は、二人が向かい合って話すシーンに、すべからく適用されていた様に思えます。
しかしそうかと思えば、続くトラムのシークエンスでは、文字通りのシークエンスショットが約5分くらい続きます。この時のカメラは、二人を同時に映し出している。というより、そのシチュエーション上(実際に走っているトラムにカメラを乗せている関係上)、そうせざるを得ないのです。もちろん厳密に設計された上での“リアル”な会話のキャッチボールが交わされているこのシーンもさることながら、続くレコードショップのシーンには驚きを禁じえませんでした。視聴室でレコードを聴く無言の二人を、やはりワンショットで画面に収めているからです。良くありがちな、二人の心の機微をアップの切り替えしで表現したりはせず、まだ出会って間もない彼らの、いかにも居心地の悪そうな視線や口元の動きが、逃げ場無い一つの画面に収まっているこのシーンは、しかし、観ているこちらにその居心地の悪さを充分に感じさせる素晴らしいシーンで、新鮮な驚きがあったのです。それは、確かに現実にもこういう瞬間があるという驚きというより、純粋に映画的な驚きなのです。

先に述べたように、『恋人までの距離』においてその会話の内容そのものは非常に抽象的です。生と死、魂の再生、孤独、人生、愛、そして男と女……およそ“好きだ”とか“愛している”などという通俗的な言葉は宙刷りにされたまま、観念的な言葉だけが紡ぎだされていきます。がしかし、時折かなりロマンティックな言葉が挿入されることも見逃すべきではないでしょう。極言すれば、その瞬間にのみ、二人は自分の言葉で話しているかのようなのです。つまり多くの抽象的な言葉は監督自身の言葉を代弁させられているようで、決して彼ら二人の言葉ではなかったのではないか、と。しかしそれが押し付けがましくなく、むしろさりげないという部分が、本作の美点だと思います。定められた“別離”を惜しむように繰り返される別れの言葉の掛け合いは、ロマンティックでありながらも美しい。「goodby」「au revoir」、そして「later」という言葉で締めくくられる悲痛な挨拶は、その別れを一秒でも先送りにしたいという、もはや恋人に限りなく近づいた二人の“距離”を如実に物語っているのです。

にもかかわらず、あのラストシーンにおけるイーサン・ホークとジュリー・デルピーそれぞれの表情を観ると、未来はやはり“不確か”であり、十数時間かけて育まれた二人の“愛に似た何か”は幻想だったに違いないと思わせます。そして、最後に見せたジュリー・デルピーの、何かを諦めたような表情の透明性が、本作で最もフォトジェニックな瞬間だったと私が思うのも、あるいはリンクレイターその人の、一歩引いた視線を共有したからなのかもしれません。

2005年03月18日 12:47 | 邦題:か行
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Title: 『恋人までの距離』〜アキレスの恋〜
Excerpt: 『恋人までの距離(ディスタンス)』(原題「Before Sunrise」) 監督:リチャード・リンクレイター出演:イーサン・ホーク ジュリー・デルピー 【あらすじ】ブダペストからウィーンへ向かう列車にて、通路を挟んで隣り合わせに座ったジェシー(イーサン・ホーク)とセリ
From: Swing des Spoutniks
Date: 2005.03.23
Title: 『恋人までの距離』
Excerpt: リチャード・リンクレーター。 『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』を観にいったとき『ビフォア・サンセット』の予告編があって、ジュリー・デルピーがなんだか痛々しい感じにすっかり年齢を重ねていたことに少なからずびっくり。 でもまあ、彼女らしいナチュラル
From: kiku's
Date: 2005.03.24
Comments

>yyz88様

毎度どうもです。
DVDを持っていらっしゃるんですか。素晴らしい。
私も2回観ただけですので、もしかすると“思い込み”的な部分もあるかもしれませんが、この映画といい『ビフォア・サンセット』といい、何度も見返したくなる映画であることに違いは無いと思っています。
『ビフォア・サンセット』のレビューを書き終えたら、TBさせてもらいますね。今もって難航中ですが…


Posted by: [M] : 2005年03月22日 23:53

シークエンスショットの話は興味深いですね。さすがにいつも鋭い視点で見ていらっしゃいますね。これDVD持ってるので何度も見てるのですが、そういう事言われるともう一度見てみたくなりました(笑)


Posted by: yyz88 : 2005年03月22日 21:16

>るーぷ様

はじめまして。コメントありがとうございます。
そうですね、この映画はかなりさりげなく撮られているようで、いろいろなテクニックが駆使されている感じがしました。一度観ただけでは気付かない部分も、二度目に観て「あ!」と思ってみたりも。
続編も素晴らしかったですので、お薦めです。
ともあれ、今後ともよろしくです。


Posted by: [M] : 2005年03月21日 20:30

TBありがとうございます。
すごいしっかりした映画評ですね。
TB頂いたのですが、僕のところでよかったのでしょうか。
気づかないショットが組み合わさっている作品ですよね。
なので、見逃してしまいそうになりますが、じっくり観ると気づいたり。
すごく参考になりました。ありがとう。


Posted by: るーぷ : 2005年03月19日 09:37
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