2007年05月07日
渡辺文樹監督の『罵詈雑言』『腹腹時計』『御巣鷹山』に一日を費やして
もう何時のことだったかまるで思い出せませんが、初めて渡辺文樹という映画作家の名前を目にした時、まだ映画経験の少なかった私は、恐らく彼を“カルトな作家”だと人くくりに決め付けていたような気がします。当時の私は彼を形容する言葉を持っておらず、その作品を滅多に観られないという点だけが一つのインパクトとして記憶され、その作品内容や撮影スタイルはほとんど二の次、とにかく観てみたいという気持ちを数年に渡って抱き続けながらも、やはりその程度の思い入れでは他県にまで足を伸ばすことなど到底出来はしませんでした。
周知の通り、渡辺監督の作品は通常の劇場ではまずかかりません。制作のみならず、上映場所との交渉に始まり、宣伝(良かれ悪しかれ彼の名を轟かせた、あのアジビラ風ポスターを張りまくるという行為)や実際に映写機を回すことまで全て自分の責任で行ってしまうと言う意味で、真のインディーズ作家だとも言えそうな彼の頑なな姿勢を今回間近で観る事が出来たのは、映画好きとして確かに幸福だったろうとは思います。自身の制作プロダクションを、スペイン語で“険しい道”という意である“マルパソプロダクション”と名づけたのも、恐らくはクリント・イーストウッドを意識してのことではなく、彼の映画制作が真に険しい道筋であることを端的に表しているのだとすら思われ、感動したくらいなのです。しかしながら、やはり映画好きだからこそ、作品そのものに言及しないわけにはいきません。
作品評に入る前に一言だけ書いておくと、渡辺監督の上映スタイルが、まず自身による前口上から始まるということを是非記しておきたいと思います。彼はこれから始まろうとする作品が出来上がった背景や経緯を観客に聞かせた後、上映に臨むのです。まず作品を解説する、という彼の態度が果たして誠実なのか、あるいは言い訳に過ぎないのかは観る者それぞれに委ねられているのですが、一般の劇映画作家に比べプロモーションが極限までそぎ落とされている分、上映に立会い自らの口で語らざるを得ないという立場も分らないではない、と思いました。すでに何度も繰り返したであろうあの前口上は、まだ未知だった監督の資質のようなものを観客に少なからず伝えていたと思うし、それを差し引いたとしても、稀有な体験には違いないのです。
さて、1本目に観た『罵詈雑言』に関してですが、第4作目である本作が撮られたのは1996年。これを遡ること9年前に『ゆきゆきて、神軍』が撮られているという事実ばかりが、上映中頭に浮かんでは消えていきました。つまり、あの手の方法論は既にあった、ということになりますが、誤解の無いように言うなら、それは本作をいささかも貶めはしません。そんな思いを知ってか知らぬか、上映前、監督は「いきなり対象に向かってカメラを向けたんじゃなく、ゆっくりと信頼関係を築いた上での事だ」というようなことを仰っていましたが、仮にそうだとするなら、本作を観る限り、事前に築かれたであろう対象との信頼関係は無残にも崩れ去ったであろうし、そのゲリラ性はより際立つのではないか、と。私が本作を評価するのは、いささか手垢にまみれた感のある、昨今のワイドショーめいた演出に対してではなく、目に見えない対象との信頼関係を自ら壊しにかかろうとする監督自身のアナーキーな態度に感動したからです。まぁそれもこれも監督の前口上があったからこそ、もしそこまで計算していたとしたら、なかなかの策略家だと言えるでしょう。
次に観た『腹腹時計』は、1999年に完成したからというわけではないのですが、ある種世紀末的ともいえる娯楽映画でした。そう、本作はその題材の危険さとは裏腹に、娯楽映画という他ありません。それぞれのシーンにおける、稚拙さを隠そうともしない演出にもかかわらず、ここには圧倒的な力が漲っています。その力の存在を、私は、監督の映画に対する愛ではないかと思います。
私がやはり本作を評価したい理由、それは、誰にでも映画を撮る権利があるのだという極自然な感情を思い出させてくれたからです。やはり監督は前口上で、「娯楽映画を追求してみたかった」というようなことを述べられていましたが、そう言いながらも、劇中、シネマヴェリテ風と言うほかないシークエンスを紛れ込ませ、フィクションとドキュメンタリーとに引き裂かれまいとする強い意志が垣間見られました。
本作は、そのキャストにも注視しないわけにはいきません。主要人物を除いたほとんどが老人のみという事実を、私は重く受け止めたいと思います。いや、老人たちによる非=現実的なドラマのみならず、その他のキャストに対する、まるで演出放棄とも言えそうな数々の棒読みぶりを物ともせずに、監督はただひたすらに、自分で撮りたい映画を撮っている、その点には深く感動した次第です。
最後に付け加えると、本作におけるいくつかのアクションは、それが現実に他ならない(スタントマンなど本作には出てきません)という意味で、フィクションを明らかに凌駕していたと思います。
最後に『御巣鷹山』ですが、実は私、子どもの頃にリアルタイムで見聞した事故でもあるこの歴史的な大惨事について、過去にいろいろと調べたりしたことがあったのです。しかしながら、すでに渡辺監督の作品を2本観続けた後で本作に求めるべきは、決して事実の検証などではないことがわかっていました。よって、この日に観た3作品中、もっとも身構えて、というか、心の準備をした上で鑑賞したわけですが、そんな私の覚悟すらも、本作は裏切ってくれました。しかし何という出鱈目さでしょう! この出鱈目さは、映画における出鱈目さを好む私にとっても、実に意表をついたものだったのですが、すでにそれを許せる素地は出来上がっていたというのも驚きといえば驚きです。これに比肩しうる出鱈目さを、私はそう易々と思いだすことが出来ず、少なからず動揺したほどです。
本作はとりわけ、カメラの動きが記憶に残っています。もはや言うまでもなく、それもまた出鱈目だと言わざるを得ないようなシーンがあるのですが、誰もが気づくであろうそのシーンについては、すでに様々な場所で触れられているのでここでは触れずにおきます。私は、そのシーンを、すこぶる挑発的だと思ったのですが、この映画は言ってみれば全編これ挑発的と断言したいような映画で、ラスト近くに繰り広げられる血みどろの殺陣もその観点から見ると、なかなか悪くないとすら思えるのです。
他の2作品に比べた場合、私は間違っても本作を人に薦めはしませんが、やはり“映画を観た”という印象は強く残っています。
渡辺文樹監督は、既に次回作2本を撮りあげているようです。そして恐らく、また地方中心の上映になるのでしょう。次回、仮にまた東京での上映機会があるとするなら、私は今回のように駆けつけるのか、否か。それはまさに、映画好きとしての倫理的な問題にならざるを得ないと今から思慮しているのですが、少なくとも長年の思いが実った今回の上映は、結果的に非常に有意義だったと言えるでしょう。
2007年05月07日 20:00 | 映画雑記