2006年08月08日
第28回PFFとPFFスペシャルに参加できた幸福、または『錆びた缶空』に関する覚書
もう随分と時間が経ってしまいましたが、今年は「ぴあフィルムフェスティバル」に初めて参加しました。平日に会社を休んでまで観たかった作品は2本。共に群青いろの作品です。
『鼻唄泥棒』も『14歳』も、私にとっては非常に意義深い作品でした。彼らは少なくとも現在の私にとって、最も重要な映画作家であることを確信出来たので。まだ彼らの作品を観ていない方には、とりあえずdvd化されている『ある朝スウプは』と『さよなら さようなら』を観ていただくほかありませんが、何となく彼らのことををやたらに喧伝したくないという気持ちが募ってきて、だからこの記事も書けずにいたのです。よってここでも、作品の詳細については書かずにおきます。必見、などと高らかに宣言することも止めておききましょう。とりあえず『14歳』が正式公開された暁には、必ず誰かを連れ添ってもう一度観にいくつもりです。その人(たち)だけに、私は自分の群青いろに対する思いを語ることが出来るのだと今は思っています。
とりあえずは、日に日にその重要度を増していく「ぴあフィルムフェスティバル」に感謝。来年は是非コンペティション作品も鑑賞したいと思います。
ところで、その「ぴあフィルムフェスティバル」に嘗て出品された作品を大々的に回顧した「PFFスペシャル」。今では日本を代表しかねない作家へと変貌を遂げた、あるいは遂げつつある作家の自主映画を観る事が出来るこの稀有な試みは、それだけで賞賛に値します。告知に充分な時間も予算もかけられなかったようですが、それでもこの試みに賛同したユーロスペースはやはり素晴らしい劇場だと思います。私が観たかった数作品はそのほとんどが平日の上映だったので、鑑賞は諦めていましたが、どうやらこっそりと追加上映が決まったらしく、そこにはあの松井良彦の『錆びた缶空』や豊島圭介の『悲しいだけ』などが含まれていて驚き、それを知ってしまった以上、万難を排してユーロスペースに駆けつけることが私の義務だと確信しました。
金曜日21:00のユーロスペースには、ざっと30人程の観客しかいませんでした。これから鑑賞する作品について考えると、私にはそれくらいがベストな環境だと思われましたが。
ここではとりわけ、『錆びた缶空』についてのみ思いつくままに書いておきたいと思います。
私が長年にわたり鑑賞を切望している『追悼のざわめき』の松井監督ですが、今回が初鑑賞になります。果たして、松井監督の3本のフィルモグラフィーのうち処女作である本作は、期待に違わぬ作品でした。撮影は石井聰亙、8mmの荒れた質感は途轍もない生々しさを画面に刻み込んでいました。
『錆びた缶空』はホモセクシュアルの性交シーンで始まります。かなりのクローズアップで切り取られた彼らの体の一部が幾重にも積み重ねられていくこのシーンに、私は最初、ある種の違和感を感じていました。それがいかにも審美主義的で、スキャンダラスに思えたからです。しかし、彼らが会話し始めるや否や、私が感じた違和感はたちどころに消え去りました。そこに流れているであろう空気、ぶっきらぼうな声や生活音、仕草などが孕む、例えようも無い生々しさ。リアルというよりも、あくまで生の証としての生々しさが、時にユーモアに、時にグロテスクに私の脳裏に響いていく。それは『鬼畜大宴会』を観た時に感じた生々しさをはるかに凌駕していました。ゲリラ的に撮影されたであろうさまざまなロケーションもまた時代を色濃く反映しており、ホモセクシュアルの三角関係という、決して万人が共有しえぬ題材にもかかわらず、そこには映画における“普遍的な何か”(それは愛だったり破滅だったりするのでしょう)が距離無しで観客を撃ち抜いているかのようでした。それは稀有な映画体験であったと同時に、まったく感動的な映画体験でした。
私にとっての松井監督は、現在進行形で発見されるべき監督なんだと思います。
なお、ここでは詳述しませんが、その他3本の作品もかなり独特で、魅力的でした。「ぴあフィルムフェスティバル」の歴史と今日的意義を充分に感じさせるこの催しに参加できたことを、今はただ幸福に感じています。
2006年08月08日 17:53 | 映画雑記, 邦題:さ行