2006年07月12日

映画とは画面なのか構成なのか演出なのか〜『嫌われ松子の一生』を観て〜

嫌われ松子の一生英題:MEMORIES OF MATSUKO
上映時間:130分
監督:中島哲也

今どき整理券を発行しない劇場に、果たしてどのような意図があるのかを一観客に過ぎない私が考えてみても始まりませんが、ごくたまにいいセレクトをするので決して無視できない劇場であるシネクイントには、やはり、積極的には行きたくないなということが、今回はっきりしました。

それが『嫌われ松子の一生』だったから私もあの苦行に耐えた次第ですが、例えば嘗て体験したように、『マシニスト』のような酷い映画のために何十分も並ぶという時間の使い方はどう考えても健全とは思えなかったし、信じがたいくらいの観客で埋め尽くされた今回の『嫌われ松子の一生』にしても、一時間以上も並んで観るべき映画だったろうかと考えると、非常に難しいところではあります。

言うまでもなく、映画を予告編だけで正確に判断するのはほとんど不可能だと思いますし、仮に第三者の書いたレビューなり批評なりを事前に読んだところで、やはり観ないことにはその出来栄えがわからないものですから、上記のような感想も、あくまで“後の祭り”に過ぎないものです。だから私は、この先も何度となく同じような思いをすることになるのでしょうが、せめて整理券を発行してくれれば、その他の劇場で映画を観る時と同様に、より有効な時間の使い方が出来るはずだという確信だけは揺らぐことがないでしょう。

というわけで、比較的若い観客たちと共に観た『嫌われ松子の一生』ですが、これは確かに渾身の力作であるということに何ら疑いはないにしても、その上、鑑賞後に一言「なかなか面白い」という感想をふと漏らしてしまうことに大きな逡巡を伴うことがなかったにしても、私としては何とも複雑な心境でいます。『下妻物語』ですら、序盤には疑問を隠せなかったにもかかわらず最終的には受け入れることが出来たのですが、今回は結論を出すのが非常に難しい。
実も蓋もない言い方ですが、『嫌われ松子の一生』には、もはや、あらゆる賛辞もあらゆる否定も、あまり意味を成さないのではないか、とすら思えるほどです。異空間にある映画、などという言葉すら浮かんできてしまいます。
アニメーションのように精緻に作りこまれた画面が横溢しており、我々の知っている“現実”がそこには存在しないかのように思えてしまうからといって、では本作を“非=映画”だと言う事が出来ない。これは『シン・シティ』を観た時に感じたような違和感とはまた別種のものです。

とまぁそんな感じなので、以下とりあえず思いつくままに。

上映時間が長すぎたこと。、これはマイナスの要因でした。とくに松子が河原で力尽きた後(背後から頭を殴られるロングショットは悪くない)からラストまでのシークエンスに関しては、重要な場面であると承知してはいたものの退屈さを否めず、自分のテンションが急激に下降していくのを実感してしまいました(グライダーを使った撮影はなかなか見事ではありましたが)。

加えて、やはりあの極限まで作りこまれた過剰な画面の洪水を、映画として充分に咀嚼できなかったことが大きかったように思えます。そのエンターテインメント性という点に関しては、とりわけ幾度か出てくるミュージカルシーンにおいて遺憾なく発揮されていたと思いますし、やや羽目を外しすぎな感もありますが、テレヴィを使ったギャグや実在の人物を大胆にフィーチャリングする手法などもこの監督にしか出来ないことのように思われ、まさに言葉通りの意味で、“世界観”は見事に構築されていたのですが……
まぁしかしこれは私の至らなさなのかもしれず、あるいは映画の嗜好性の違いに拠るのかも。

あの人工的で過剰な“光”をどのように捉えるのか、私の嗜好性はこの点で問われるでしょう。その“光”は窓の向こうを過剰に満たし、人物の側面を非現実的に照らし、漫画的に歯を光らせ、空の色や星すらも自在に変貌させ得る程でしたが、とにかくあらゆる事物を覆い尽くさんばかりに操作されたあの絵画的な“光”(それはPierre et Gillesの作品のように人工的な美だったのかもしれません)に対する感性の差、これはもう良い悪いの問題ではないように思われ、つまり、全ての映画において多かれ少なかれ画面に構築された“世界”が、私の瞳にいかにして届き、そして作用するのかという根源的とも言える問いを発していたという意味で、かなり特殊な状況を強いられていたのかもしれません。ここで“根源的”という言葉を使ったのも、そもそも映画とは、その起源を“光”に持つ総合芸術だという私の認識に拠るのです。

あの壮絶な物語を、歌と笑いを中心に据えることにより巧みに映像化し物語りきってしまう、中島監督の上手さに賞賛を送りつつも、では、あの画面の何に感動し得たのか、あるいはし得なかったのかを、最後まで考えてしまいました。ここで、『嫌われ松子の一生』に存在する多くの画面は恐らく私の好みではなかったのだろう、と結論づけることも出来なくもありませんが、あの過剰な情報量をもつ画面あってこその『嫌われ松子の一生』なのだとも考えることが出来るため、後はもう堂々巡りです。

出来ればもう一度観てから自分の中での結論を出したいとは思いますが、この映画が現在の邦画界でヒットしているという事実に関しては、やはり必然なのだろうと思います。良くも悪くも、テレヴィというメディアの存在は、映画のあり方に大きな影響を与えているのでしょう。
『嫌われ松子の一生』を観て、映画とは何か、などという思考に流れていくことがどれほど生産的なのかわかりません。しかし、自分が映画の何に反応したのかということには、常に意識的でいなければならないと思うのです。たとえその答えが容易には出なくとも。結局、それが正しいか間違っているかなど、実は大した問題ではないのかもしれません。

取り留めのない文章ですが、今のところはこんな程度で。

2006年07月12日 18:48 | 悲喜劇的日常
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Comments

>かえるさま

松子とノラ、ですか。なるほど、そういう視点は浮かばなかったです。デプレシャンがこの物語を撮ったら、全く別の映画になっていたでしょうね。

多分私の場合は、あの画面である限り、どれほど物語的完成度が高くてもやはり不満が残るのだと思います。

シネクイントの椅子はフランス製でしたっけ。あれは確かにいい。


Posted by: [M] : 2006年07月21日 16:08

こんにちは。
そういえば、マシニストは並んでまで観ましたよ。
最近行ってないな。シネクイントは椅子が好きでした。

『キングス&クイーン』と『嫌われ松子の一生』は当然、同列に語れる作品ではないですが、松子とノラの境遇にはいくつかの類似点が見出せるようで。
だから、デプレシャンなら、松子の人生をどう再構築してくれるんだろうなんて妄想してしまいました。
松子の人生にイスマエルみたいな喜劇の男の人生を交錯したらよかったかも。
いや、監督が松子の元恋人であるべきだった・・・


Posted by: かえる : 2006年07月20日 17:09

>chocolateさま

繰り返しになりますが、決してダメではなかったんですよ。いろいろ言いたくはなりますが、面白かったことに変わりはないというあたりが何とも難しいな、と。

シネクイント、オープン当初はちょくちょく行ってたのですが、セレクトは確かに変わったかもしれませんね。あのシステムである限り、余程の作品でなければ行こうとは思いません。


Posted by: [M] : 2006年07月19日 13:02

こんにちわっ。

松子ダメだったんですねー。
リアリティに欠けてるっていうのは確かにあるかも。
映像は・・・賑やかですよね。(笑)

シネクイントは私もしばらく行ってません。
なんか昔と路線が変わったなーって思います。


Posted by: chocolate : 2006年07月19日 10:17

>ファンクフジヤマ君

私の場合、決して駄目とは言い切れません。
しかし『キングス&クイーン』は駄目でしたか?
こちらは大いに楽しめましたが。
まぁそもそもこの二作は同列で語るような映画ではないですけどね。


Posted by: [M] : 2006年07月14日 12:23

いやー松子は僕としてはダメでしたねー。やはり。
キングス&クイーンもいただけませんでした。


Posted by: ファンクフジヤマ : 2006年07月13日 21:59
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