2006年06月01日

『あんにょんキムチ』、宙吊りのアイデンティティに向き合うこと

あんにょんキムチ原題:あんにょんキムチ
上映時間:52分
監督:松江哲明

本作は公開当時(1999年)当時21歳だった松江監督が、今は亡き(と書かねばなりません)今村昌平が開校した日本映画学校の卒業制作として撮った処女作です。韓国系日本人が、祖父の生き様を知っていくことで自らのアイデンティティと正面から向き合っていくというこのドキュメンタリー、私はまず、そのタイトルに興味が惹かれました。“あんにょん”とは、“こんにちは”という挨拶を意味しますが、韓国語に限らずその他の外国語にもよく見られるように、それはそのまま別れの挨拶、つまり“さようなら”という意も兼ねています。キムチが大嫌いな松江監督の、韓国という国に対するアンビバレントな感情が、この二重の意味を持つタイトルに端的に表わされていると思ったからです。

松江監督の妹が全編にわたってナレーションを担当し、この家族のバックグラウンドや現況を淡々と説明する手法は観ていて分かりやすく、その声のトーンも作品の雰囲気に合っていました。一通りの家族紹介が終った後、監督である兄の紹介になるのですが、この時、自分の部屋で確かカップラーメンのようなものを食べながら、テレヴィ画面に映る映画を熱心に観ている姿に奇妙な親近感を感じ、そういえば自分も21歳くらいの時はこんな感じだったなぁ、などと思いながらちょっと笑ってしまった次第です。もちろん監督はその時カメラの存在を知っていたはずですが、あの演出(とあえて言わせてもらいます)に漂うリアリティには説得力がありました。

演出と言えば、監督が妹と2人きりで語らう場面が本当におかしくて、とりわけ質問者である監督が、妹のあっけらかんとしていながらも妙に的確な意見に対し、自身の曖昧さ故か、監督のほうから望んだ対話が次第に空転していかざるを得ない様は“演出ならざる演出”と言うほかなく、監督自身の出自に対する不確かで説明しがたい感情が画面に滲み出ていて感動しました。そしてそれが一度だけでなく、後半にもう一度繰り返さ、やはり同じような結果になるあたりにも。

ともに暮らす父や母、未亡人となった祖母から、3人の叔母、祖父を知る友人へとインタビュー重ねていくうち、次第に明らかになっていく祖父の人間性。同時に、臨終に際し「哲明バカヤロー!」と言い放って死んでいった祖父への、怠惰や無理解から生まれた拭いがたい贖罪の意識を真に思い知ることになった松江監督が、久々に酒を飲んで酔った帰り道で「あの素晴らしい愛をもう一度」を歌い涙する場面は、松江哲明個人としての意識と、泣き崩れる自分の姿までも手持ちのビデオカメラに収めようとする監督としての意識とが拮抗した、本作の中でもっとも美しい場面でした。街頭の明かりだけの薄暗さで、しかも、泣きながらカメラを持っているがゆえにぶれまくる画面にもかかわらず、そこには画面の審美主義とは遠くはなれた美しさが確かにあったのです。

松江監督は、韓国の田舎にある祖父の故郷にまで赴くことで、それまで意識的に宙吊りにしてきた自らのアイデンティティに対し、一応の結論を出したかのようでした。“一応の”としたのは、同じ在日コリアンである彼の親類縁者にたいする最後のインタビューとその答えとなる身振りが、その簡潔さと表情の明るさに比して、深い問題を提起していたようにも思えたからです。2つの国旗のどちらかを選び振らせるということ。しかしそこに暗い影はなく、彼らは極日常的な表情でそれに応じています。彼らはこれまでも、そしてこれからもそのように生きるという決意が微笑ましく画面を充実させている様に、ついつい観ている私の表情も緩んだのでした。

2006年06月01日 17:47 | 邦題:あ行
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Title: 松江哲明『あんにょんキムチ』@PLANET+1
Excerpt:  卒業制作とは思えないほどよく出来ている。構成力はそうとうなものだ。自ら在日韓国人という物語を持っているという有利さもあるが。  いつもは日本人になりき...
From: オーサカイ
Date: 2006.07.08
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