2006年03月20日

次回にも期待〜「ダンス・イン・シネマ 2006」の挑戦的なラインアップ

3/18〜19に開催された「ダンス・イン・シネマ 2006」は今年で3回目を迎えました。
私は1回目の時点でその存在すら知らず、2回目にあの『アデュー・フィリピーヌ』が上映されると聞いて驚愕ししつつ参加したのが最初。そして3回目の今年はオリヴェイラの未公開作品だというので、言うまでもなく参加しました。あいにく、19日は朝から予定が入っていましたので、18日のみの参加になりましたが、その時上映された2本の作品にはしたたか打ちのめされ、全てが終了した午後9時過ぎにはぐったりしていました。


『白い足』1本目の『白い足』は、ジャン・グレミヨン監督作品。フランスでは1949年に公開されていながら、日本で初公開されたのは1993年になってからのようです。私は、ジャン・グレミヨンという名前だけは知っていたものの、その作品に触れることが一度もなかったので、ほとんど何の予備知識もないまま鑑賞することになりました。ですから、まず『白い足』と聞いて想像したのは(それがフランス映画だったこともあるとは思うのですが)、“女性の足”だったのです。つまり、美しい女性の脚部が印象的なダンスシーンとともに目に焼きつくのだろうな、などと考えていたわけですが、蓋を開けてみればこの白い足というのは男性の白いゲートルのことで、ほとんど冒頭にそれが発覚して以降、こちらの予想をはるかに上回る画面と演出、そして音に驚かされ、同時に、嘗て始めてジャック・ベッケルの『肉体の冠』を観た時に覚えたような興奮と熱狂にうなされ、同席したこヴィ氏とともに快哉を叫んだ次第。

冒頭、夕暮れ時の海を背景に一台の自動車が右から左へと緩やかに進んでいくショットの美しさからしてすでに尋常ではなく、それは本作のロケーション(ブルターニュ地方)が素晴らしいからではもちろんあるのですが、その美しい風景に自動車のエンジン音が響き、それが画面手前の方で停止するまでのワンシーンは、単なる風景の美しさを超えた、映画にしかない興奮、まさに“映画が始まろうとしている興奮”としかいいようのないものでした。
本作は5人の男女を巡る復讐劇と言えるのでしょうが、その復讐が遂げられるか否かという問題から、次第にある男と女の情念を巡る物語にずれていき、そのクライマックスに位置していたのが、あの美しいダンスシーンだったのです。実はその前にも集団のダンスシーンがあり、そのダンスシーンと殺人の描写がモンタージュされる様は圧巻。このモンタージュは、“明と暗”あるいは“生と死”のモンタージュとして私の中に深く刻みつけられました。

ジャン・グレミヨンは「imdb」によれば、長短編あわせて40本以上もの作品を監督しています。日本で公開されているのは恐らく10本足らずですが、私はこの『白い足』1本で、ジャン・グレミヨン作品に対するの強い欲求が生まれました。とりあえずヴィデオ化されている作品を探して、むさぼり観たいなと思っております(こヴィ氏によれば、『白い足』はヴィデオ化されているとのこと)。


『言葉とユートピア』さてさて、2本目は待望のオリヴェイラ『言葉とユートピア』(2000年)。
上映前、映画狂人氏の講演がありましたので、会場は流石に満席。氏の言う“自在の境地”に達した数少ない監督の一人がオリヴェイラであるということでしたが、その辺りの氏の断言は、あくまでエンターテインメントとして聞けば非常に興味深く、何らかの示唆を与えてもくれると思うのですが、話が『言葉とユートピア』に及んだ時、私は一方で、このように思うことを禁じ得ませんでした。
つまり、

「ああ、多分この『言葉とユートピア』という映画は、人によっては恐ろしく退屈な映画にもなりえるんだろうな」

ということです。
それくらいの覚悟はしておいた方が良さそうだぞと思い、いざ上映に臨んだのですが、なるほど、私の疑念は序盤に早々と証明されてしまったかのようで、全てが書物に書いてある通りであるらしい台詞の“意味”を理解しようとすると、これはなかなか骨だな、という結論に達し、では、これからは字幕を追わず、画面のみに集中しようと思い始めたあたりから次第に引き込まれていくのですから、私もかなり出鱈目だなと思いますが、いやいや、出鱈目さで言えばオリヴェイラ監督のほうがもっと出鱈目なんじゃないかとも思われ、まぁそれは映画狂人氏も幾度か繰り返していたことなので恐らくその通りなのでしょう。

氏は“画面の完璧さ”と“言葉そのものの美しさ”との2点を殊更強調していたようでした。なるほど、やはり“意味”など考えるなということだったのでしょう。いや、私にポルトガルの歴史に対する知識が欠如していただけで、あるいはその“意味”にも深い感銘を受けた観客はいたのでしょうから、あくまで私にとっては、という話ですが。確かに一つ一つの画面は完璧というか強い。撮影がレナート・ベルタですからそれにも肯けるのでしょうが、とりわけ、画面奥に光(窓)を配し、手前にいる人物が影になっているかのような画面設計はほとんど全編を貫いていて、要所要所に、確かに息を飲むような真正面のクローズアップがある。オリヴェイラには大胆不敵という言葉が似合うような気がしました。そして、ポルトガル語の美しさに関してもまた、納得せざるを得なかったのですが、それもそのはず、本作はその大半がアントニオ・ヴィエイラという宣教師による説教により成り立っているのです。説教をしている彼の姿は、3人の異なる俳優により演じられているのですが、顔も声も違う彼らに共通していたのがまさに“言語”であり、撮られる構図はそれぞれ異なれど、その声が微妙に響いていく様は、その“意味”などまるでわからなくてもその“凄み”だけは確実に伝わるといった感じで、つまりここで言いたいのは、上映前に氏の講演を聞くことが出来たことは、かなり助けになったということです。別に氏に言われるままに観ようとしたのではなく、あくまで結果的にそのようになったというだけですが、まぁそれら全体を俯瞰してみても、この「ダンス・イン・シネマ」という催しはやはり刺激的だったので、次回開催される時にも、積極的に参加しようと決意するのでした。

2006年03月20日 12:58 | 映画雑記
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Comments

>ヴィ殿

てっきり貴兄だとばかり…。あのコーナーは貸し出し中になっていることがほとんどなかったので、タイミング的にそう思いました。
渋ツタはベッケルが6〜7本ありますね。


Posted by: [M] : 2006年03月30日 18:31

>『この空〜』は私は吉祥寺で借りました。が、結局見れずに返却……(しかも延滞。。)。 ベッケル祭は私も考えてます(笑)。


Posted by: こヴィ : 2006年03月30日 03:08

>ヴィ殿

まったくその通りです。我々も、今観ることの出来る彼らの作品だけは逃さないようにしたいですね。

ところで昨日、渋ツタに行きまして、『この空は君のもの』を発見しましたが、レンタル中でした。ということは貴兄?
ジャン・グレミヨンついでにというのも変ですが、近く個人的なベッケル祭りを開催したいと思います。


Posted by: [M] : 2006年03月27日 12:45

>オリヴェイラ
ほんと、ハリウッドの黄金期やヌーヴェルヴァーグの衝撃をオンタイムでは体験できなかったけど、彼ら(ゴダール、リヴェット、ロメール)やオリヴェイラ、そしてイーストウッドの“今”を同時代的に分有できるのは、やはり僥倖というしかありません。「映画」の果てしなき可能性、豊かさを再確認いたしました。
『エドワールとキャロリーヌ』は、彼の多彩なタイプの中で他の作品でいえば『幸福の設計』に近いです。あとルビッチとか。トリュフォーが大好きだったはず。


Posted by: こヴィ : 2006年03月24日 02:05

>ヴィ殿

『不安』はまたいつ観られるかわからないので、羨ましい限りです。『この空は君のもの』、借りたみたいですね(mixi読みました)。先日ヨーロッパコーナー探しましたが、あちらのコーナーでしたか。
『エドワールとキャロリーヌ』は未見です。いかがでしたか?


Posted by: [M] : 2006年03月22日 12:20

先にこんなに気合いのこもった文章書かれてしまった(!)。私も明日にでも書いてみます。翌日の『不安』もまさに“オリヴェイラ的”としか言いようのない自在さと美しさ完璧さでした。
ちなみに『白い足』と、『この空は君のもの』も同時期(96年ぐらい?)にビデオ化されてます。ツタヤだとクラシックコーナーかな? ちなみに私は昨夜ベッケルの『エドワールとキャロリーヌ』見直しました。


Posted by: こヴィ : 2006年03月20日 18:50
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