2006年02月17日

奇妙な夢〜現実の反映か反映の現実か〜

夢私は一端眠り始めると、かなり深い眠りに入る体質なので、夢というものをほとんど見ません。
にもかかわらず最近は疲れているのか、原因は不明なのですがなかなか寝付けず、ちょくちょく夢のようなものを見ている気がします。はっきり“夢を見た”と断言出来ないのは、その内容をまるで覚えておらず、でもあれは多分夢だよなぁ、という極めて曖昧な目覚めの所為なのです。

ところで、私は精神分析などに関する本をほとんど読んだ記憶がないので、夢というものがよくわかりません。それがは果たして何かを反映しているのか、あるいは、諸々の煩悩やら願望やらの表れなのか、30年以上生きてきても未ださっぱりわからないのですが、それはもちろん、それをおぼろげにでも理解した気になれるほどには夢を見る回数が絶対的に足りないという事実からも、容易に納得できます。
「おや? さっきまで見ていた(かもしれない)あれは……?」。朝起きてそんなことを考えてみても、結局はすぐに忘れてしまうのだし、「何故あんな夢(のようなもの)を見たんだろう…」などといちいち悩んでも仕方がないのです。

さて、このような映画とは何の関係もない話を書き始めたことにはそれなりの理由があって、それをすでに察している方もいるだろうとは思うのですが、実は昨日、ある夢をみました。“のようなもの”ではなく、確かにあれは夢だったのです。恐らく全てを覚えているわけではないでしょう。ただ、いくつかの具体的な描写が可能であるという点において、今はあれを夢だったと断ずることにいささかの躊躇もありません。それがどのようなものだったのか、簡単に書いてみたいと思います。

最初の舞台は、何故か自分が所属している会社のオフィスです。私は、現在仕事をしている席ではなく、数ヶ月前まで座っていた席でボーっとしています。ふと上司がいるであろう方向を見ると、そこには今とかわらぬ上司の姿があるのですが、その傍に、あまりに場違いな人物の姿が認められます。それは何と、吉田喜重監督でした。監督は、私の上司と何やら真剣に話している様子。面と向かってではなく、二人は隣り合って同じ方向を向き、目線を合わさずに話しているのです。
私は、「何で吉田監督がここに?」などとは考えず、監督と何らかの会話を交わす機会がないだろうかと窺っていたように記憶しています。すると上司は私を呼びつけました。そして私に、ある課題を出すのです。それは、ある書物(映画の台本だった気もしますが、定かではありません)を読みながら、行間に感じたことを書いてこい、そんな課題でした。まぁそれ自体は驚くに値しませんので容易に了承したのですが、そこで上司が奇妙なことを言うのです。「考えてから書くんじゃない、考えつつ同時に書くんだ」と。私は、「そんなことは出来ないでしょう」と反論すると、「そんなことはない、あれを見ろ」と、吉田監督のほうを指し示すと、監督は、ものすごい速さで何かを書いていました。そしてここが興味深かったのですが、その様子は、確かに“考えつつ同時に書いている”様子にしか見えなかったのです。関心し感動した私は、さすが吉田監督だ、などとわけのわからない納得をしつつ、その姿に見入っていました。そして書きあがったものを見せて貰うと、これが全然読めない。それでも、ああ、これはきっと速記文字なのだろうと、そこでも強引に納得してしまうあたり、やはり紛れも無い夢だったのでしょう。

そうこうしているうちに、場面は急転します。オフィスからある野原へ。まさに時空が歪んだような感覚でした。そこには上司の姿も吉田監督の姿もなく、代わりにある女性が二人いて、私のほうに近づいてきます。二人の顔はまるで覚えていません。知った顔だったのかすら。
その内の一人と、私は若干の会話をし、そしてまぐわい始めます(性的な絶頂には達しはしませんでしたが)。もう一人の女性の眼前で。全てが唐突に、理由もなく、暴力的に始まり、そして終ると、時空は再度歪み始め、私はまた元居たオフィスに戻っていました。しかしそこには誰もおらず、自分の机以外何もない空間でどうすることも出来ず、またぞろボーっとしていた時、目覚めたのです。現実の世界に。

この夢を見て一つだけ確かなことがわかったとするなら、それは、現実と夢の関連性ということでしょうか。もちろん、そんなことは世間一般に言われているし、「夢にまで出てきた」という言葉の存在もまたそれを示唆しているのですが、普段夢を見ない私は、それすら疑わしかったということでしょう。それをこの夢で実感出来たというわけです。
ここ数週間、私は可能な限りポレポレ東中野に足を運び、吉田喜重監督作品を観てきました。それだけなく、家で観るヴィデオも吉田喜重、読む本もまた吉田喜重ということで、それこそ“吉田漬け”だったことを鑑みると、無意識の内に身体が、脳が、吉田的カオスに犯されていた(無論、これこそを私は欲していたのですが)のかもしれません。前述した夢は、その帰結としての夢だったのです。

今にして思えば、あの夢には吉田的な場面が散見されました。
あえて隣り合って話そうとする二人(『鏡の女たち』)、時間と空間とが同時に歪むこと(『煉獄エロイカ』)、そして二人の女と一人の男(『エロス+虐殺』)。あの野原は、もしかすると『血は渇いてる』における夢の島だったのかもしれない、などと言うといささか捏造めいてきますが。

近年、ここまで一人の監督に拘り劇場に日参したことはありませんでした。私が観た夢はその内忘れてしまうものですからどうでもいいですが、吉田監督が図らずも言っているように、“作品は残る”のです。
今日を最後に終了してしまう「吉田喜重 変貌の倫理」、全て観る事は叶いませんでしたが、夢にまで出てきた吉田監督にあらためて感謝します。

2006年02月17日 12:00 | 悲喜劇的日常
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Comments

>keikoさま

こんばんは。
そうですね、このサイトは2004年の5月からなので、まだ2年経っていない感じです。
本当はもっとまめに更新したいんですが、最近なかなかゆっくりと文章を書けず、我ながら歯痒い思いをしています。
でもそういう風に言っていただけると、素直に嬉しいです。


Posted by: [M] : 2006年02月23日 20:52

今晩は。

・・あの〜、全然関係ないんですが、Mさんの
昔の記事というのを読む事は出来ないのですか?
それとも、このサイトは始まってから、1,2年
でしたっけ・・?


Posted by: Keiko : 2006年02月23日 19:29

>[R]殿

毎日映画的な夢とは…。それを全て覚えておくことが出来れば、現実世界の創作に役立つのでしょうね。あの全く覚えていない時のもどかしさといったら…

黒澤の『夢』ですが、実は観ておりません……


Posted by: [M] : 2006年02月20日 17:36

吉田的カオス、いいですね。いろんな意味で善い!
さぞかし灰汁の強い夢であったことでしょう…。
ほとんど夢を見ない[M]さんにとっては相当ですね。

僕は[M]さんとは反対で、眠りがとても浅く、
ほとんど毎日、夢を見ます。それも映画的な…
これがほんとうに驚くほど映画的な夢なんです!
幻想的とか壮大とかではなく、これシナリオ?みたいな…

先日は、僕が「本当の父親」なのに「近所のオジさん」と嘘ついて、
「本当の娘」と別れる、という設定の夢を見ました。
これは割とベタですが、もっと複雑な構造の物語=夢をよく見ます。
無意識の僕は、素晴らしいストーリーテーラーなんですけどね…
起きてる間は全くダメですね。なんとか近づきたいものです 笑

しかし、黒澤明の『夢』は、あまり好きではありません。


Posted by: [R] : 2006年02月18日 02:50
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