2005年11月10日
『空中庭園』あるいは、象徴としての丸さ
本作のタイトルは原作そのままですが、映画としての『空中庭園』という言葉には、世界七不思議の一つに数えられる“バビロンの空中(架空)庭園”への思いが、暗喩的に込められていると見るべきでしょう。5層から成るバルコニーに珍しい色とりどりの草花が生い茂り、それを遠くからみると、まるで空中から吊っているかのように見えたことからそう名づけられたのがバビロンの空中庭園ですが、本作の舞台となる、サバービアともいえる新興住宅地に建つ“ダンチ”もまた階段状のバルコニーがあり、小泉今日子が母親を演じる京橋家のバルコニーは、まさにバビロンの空中庭園さながらの色彩豊かな花々で占められています。
さらに言うなら、『空中庭園』にはバビロンの空中庭園そのものを示す直裁な記号さえ見られ、それは京橋家のランプシェードの図柄だったり、原作には登場しないオリジナルキャラクター・テヅカの体に彫られたタトゥーだったりするのです。
ただし、ここで強調しておきたいのは、バビロンの空中庭園をイメージさせる舞台の造形性ではなく、舞台となった団地を含め、ここに登場する家族が“空中に吊られているかのように”不安定であるということです。
『空中庭園』において最も注目すべきは、カメラの動きとそれが齎す極度の緊張感にあると思われます。冒頭からカメラは振り子のように緩やかに揺れ、意識的に画面が固定するのを避けるかのように、それは常に揺らぎ続けるのです(その流れを断ち切らない、あのタイトルバックは実に見事でした)。さらに、しかるべきシークエンスにおける長回しには観る者を居心地の悪い現場に立ち会わせるかのような効果があり、かといってそれが安易な擬似ドキュメンタリー的でないのは、手ブレとは異なるカメラの意図的な揺れと、真上からの俯瞰や対象の周りをグルグルと回り続ける円運動などに見られる、あくまで技術的なカメラの動きと存在があるからです。
本作のクライマックスは、言うまでもなくあの誕生会シーンだと思われます。
外国映画を観ていて常々思うことですが、映画における食事のシーンには、少なからずサスペンスが存在するものではないでしょうか。確かに『家族ゲーム』を想起させもするこの食事シーンで重要なのは、あの半透明のテーブルの形だと思います。虚飾に満ちた家族が一同に会し、あまつさえ、夫の愛人までもがその場に居合わせるあの丸いダイニングテーブルの不気味さ。角が無く、しかも足元が透けて見えることが生みだす“収まりの悪さ”が、全編を貫く不気味なテイストの象徴ではないでしょうか(ラブホテルの壁紙や回転ベッドなど、本作には象徴としての“丸”が溢れていることも指摘しておきます)。
事実、彼らは予想通り、一人、また一人とその虚飾を剥がされ、何とか守ってきた家族という器は崩壊していきます。いや、実際にはすでに冒頭から家族は崩壊していて、それがようやく表出しただけなのです。
形ある(と思われていた)ものが、音を立てて崩れ去っていくこと。その顔に一瞬だけ殺意めいた相貌を垣間見せたコンビニでのシーンを除いて、常に笑顔を絶やすことの無かった小泉今日子の鬱屈した感情が静かに、しかしながら激しく爆発していくことで、腐心して築き上げてきた“家族の肖像”を自ら引き裂いていくその様は、圧巻と言うに相応しいと思いました。
このシークエンスにおいて、豊田監督の演出は冴えに冴えているのですが、特に、夫を演じた板尾創路、妻を演じた小泉今日子、その母を演じた大楠道代の演出は素晴らしく、それぞれが全く異なるキャラクターでありながら、その場に生成しつつある末期的な状況を構成していく手腕は見事と言うほか無く、そればかりか、そこには場違いなユーモア(板尾創路によるアドリブ!)までもが散りばめられているのですから、舌を巻きました。
監督は原作とは異なるシークエンスをラストに付け加え、最終的に救いのあるラストに変更したとのことですが、あの血の雨のシーンは個人的にどうにも咀嚼しがたく、もちろんそれが“再生”を表していることくらいは、テヅカの台詞(生まれてくる時は血だらけ、云々というもの)あたりからも伺えるのですが、あまりに映画的なその表現に、過剰に“意味”が強調される押し付けがましさを感じざるを得ず、若干残念だったと告白しておきます。
血の雨の中で叫ぶ小泉今日子というイメージは相当強烈ではあり、そもそもそのタイトルからして、ある意味寓話的色彩を帯びてもいる本作のラストには相応しかったのかもしれませんが、私としては、ただ雨に打たれるだけでも、その表情と撮り方によっては充分“リセット”のイメージが伝わると思ったのです。
ただし、映画として『空中庭園』は程よくバランスがとられていたし、先述した3人の役者(ほんの1シーンにのみ登場した國村準を加えてもいいのですが)に関しては、とくに文句をつける点も見当たりませんでしたので、豊田監督の今後には大いに期待したいところですが、一連の事件の余波が、彼の今後のキャリアにどの程度の影響を与えるのかを考えると、自業自得とはいえ、日本映画界にとって残念な事態といわざるを得ないでしょう。
2005年11月10日 12:02 | 邦題:か行
Excerpt: 監督の覚せい剤所持による逮捕というニュースで有名になってしまったこの映画。 私もその事件がきっかけで知ったのだけど、ちょっと気になったので、見に行ってきた。 作品的には、・・そうだなぁ、ちょっと微妙かな。 <STORY> 京橋家は、「家族に秘密がない」ことをモ...
From: toe@cinematiclife
Date: 2005.12.14
Excerpt: 冒頭、古代世界の七不思議の一つ「バビロンの空中庭園」を描いた蛍光灯の傘が、家族の食卓の真上に映し出される。この庭園を作ったのは、偉大にして悪女(堤防を築き、夫を毒殺したといわれる)のセミラミス女王という説がある。本作の主人公の絵里子は、現代のセミラ...
From: マダム・クニコの映画解体新書
Date: 2005.12.24
>こヴィさま
確かに本作には“ホラー的”とも言える描写が見られましたね。あのカメラの揺らぎは小説では描けない、あくまで映画的なものです。
映画の後に原作を読むのも気が引けましたが、ちょっと読んでみてもいいかもしれませんね。
Posted by: [M] : 2005年11月24日 12:25
今日観てきました。(観るつもりだったので)この↑レビューを初めて読み、ほとんど私が付け加えるところはありません(!)。カメラは凝ってましたね。タイトルがでるところは上手かった。振り子はっもちろん、葉っぱの穴から引いてベランダを映すところとか、最後の方のバスでソニンが窓から飛び下りるところのショットとか。血の雨のシーンはたしかに“やりすぎ”の感もしましたが、その叫びはやはり痛々しくもゾッとするものがありました。原作での相違という店で言付け加えるならば、原作では各章がそれぞれの登場人物の視点(主語)によって語られていて、一つの事象が別の視点で捉えられていくことによって次第に「秘密」が暴れていくというミステリ仕立てになっているのですが、映画ではストーリーは順に並列で見せていく替わりに、そこに独特の映像感覚によってホラー的要素を加えていると言えるでしょうか。小説と違う映画ならでは話法を駆使して見事に描ききっていて、やはり豊田監督の才能を感じさせます。強力にレコメンド!
Posted by: こヴィ : 2005年11月23日 01:34