2005年10月13日

『トゥルーへの手紙』、“ホームムービー”のメッセージなるもの

トゥルーへの手紙俗に言う“ホームムービー”(あるいは“ホームビデオ”でもかまいませんが)と一般的に公開されている映画との差異はどこにあるのでしょうか。しばしば“ホームムービー”が観るに耐えないのは、それを撮っている人間(及び、その周辺)が観るということが大前提となっていること、つまり、ごく限られた人間が楽しむために撮られているからだと思います。それが物語を伴ったフィクションという形式を取ろうと、日常を切り取ったドキュメンタリーという形式を取ろうと、“ホームムービー”とはある閉じられた空間においてのみ“映画”足りえてしまうという、何とも特殊なものではないでしょうか。

ブルース・ウェバーが9.11を受けて撮ったドキュメンタリー『トゥルーへの手紙』は、非常に個人的な思いから出発しているようです。その出発点とは、愛犬・トゥルーに宛てた手紙を書こうと思い立った時に等しいのですが、その意味で極めて個人的な“ホームムービー”である本作は、しかし、観ている間早く時間が過ぎてゆくことだけを願うような、凡百の“ホームムービー”とはその質を異にしています。それはどのような点においてか。

最大の相違点は、ブルース・ウェバーがカメラマンであるという事実に存しているでしょう。先ず持ってその技術が違う。もちろん、機材も違う。または、そのキャストとして連なることになる人脈が違う。当然のことながら、彼はただの犬好きではないのであり、夕暮れ時の海辺で犬たちがはしゃぐ様を捉えたフィックスのスローモーションの美しさは、“ホームムービー”のように、誰にでも撮れてしまうものではないのです。

そしてもう一つの相違点は、この映画に託されたメッセージ性の存在です。個人的な出発点を持つ本作は、自分自身やその周辺のみに向けてではなく、恐らく“世界”に向けて作られているということだと思います。
ブルース・ウェバーが作品として世に残したかったものは、トゥルー他、ウェバー家のゴールデン・レトリバー達の愛らしい姿ではなく、その犬達にこめられた世界への、愛と平和へのメッセージであると、一先ずは言えるのかもしれません。しかし、そのような紋切り型を、ここでは自粛したいと思います。実際、78分の上映時間中それなりの部分を占める過去の映画の引用や、ラスト近くのマーティン・ルーサー・キングJr.の演説など、その平和への思いとやらが非常に散文的に配置されているためか、ある直線的なメッセージとしてブルース・ウェバーの思いが私に伝わることなど無かったからです。もちろん、私は映画から何らかのメッセージを読み取ろうとして日々映画を観ているわけではないのですから、それは当然だとも思うのですが。

しかし、『トゥルーへの手紙』を、あるメッセージの伝達をその存在意義にしている作品と断じてしまうのは、偏見に過ぎないのかもしれません。本作には、端的に美しいといえるシーンが存在するし、ブルース・ウェバー自身の、自然体で放浪者的な生き方にある共感や発見を見い出す可能性もないとは言えないのです。

私の場合、本作を観た“だけ”で、世界の平和について考えてみることなどいささかもありませんでしたが、その世界を繋ぐ海の、あの圧倒的な存在感と美しさ、そして、その海をサーフボードに乗って滑っていくトゥルーの、混迷する世界など微塵も感じさせないようなあっけらかんとした表情のほうが、よほど印象的でした。

2005年10月13日 12:11 | 邦題:た行
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