2005年10月03日
『ミリオンダラー・ベイビー』、闇そして光
前作『ミスティック・リバー』に続き、クリント・イーストウッドが新たに撮りあげたこの作品を前に、私はまたもや言葉を失いました。もちろんそれは、“尊厳”が中心に据えられた物語自体の厳しさに対して、という部分もありますが、それよりもむしろ、主要なシークエンスにおける画面上の黒く、そして深い“闇”の存在が、私を言葉ごと飲み込んでいったからだとまずは言えます。
撮影監督であるトム・スターンの画面設計は、前作にも増して、闇と、そして光の存在を重視していたような気がします。例えば、闇が支配する古いジムの一箇所だけを照らす小さな明かりを頼りに、一人きりで黙々と練習するヒラリー・スワンクのほうへ、一度目はモーガン・フリーマンが、そして二度目はイーストウッドがぬうっと姿を現す時を思い出してください。彼らは、闇から光のほうに一歩歩みだすことで、ヒラリー・スワンクに初めて心を開いたのです。目には見えない彼らの心情が、繊細な照明によって見事に観るものに訴えかけていました。本作はほとんどが屋内の撮影ですから、そこには何らかの照明が必要とされるのですが、にもかかわらず目に付くのは、積極的とも言える闇の存在なのです。
本作における闇は、多くのシーンで幾度も反復され、その黒さを画面に定着させます。そしてそれは、目に見える黒さとしての闇ばかりではありません。モーガン・フリーマン演じるスクラップの失明した片目、あるいは、イーストウッド演じるフランキーが抱える娘との確執や、スクラップを失明させてしまったというトラウマもまた、暗喩としての闇と捉えられるのではないでしょうか。
ところで、『ミリオンダラー・ベイビー』において注目せざるを得ないのは、スクラップによるナレーションの存在です。スクラップのナレーションを中心に置くこと。彼は、状況説明をするばかりか、作品世界の構築という役割も負っています。語り部としての彼の存在を置くことで、この救いの無い(様に見える)物語を別の角度から再構築しています。そして、抑揚を抑えながら事実を淡々と述べることで、“伝える”という作業に徹している。その証拠に、物語自体は、そのナレーションによって左右されません。まず、ナレーションを物語りに介入させないこと、それを条件に、イーストウッドは、スクラップを中心に置いたのではないか、とすら思います。
だけれども、このナレーターだけが全編を掌握するのもまた事実です。神の視線に例えられもするこのナレーターという存在ですが、本作においては、そこに微妙な“感情”が存在していいるのがわかるでしょう。スクラップの存在は、比喩的にも決して超越的な神ではなく、飽くまで元ボクサーで片目を失った生身の人間としてあるのです。
そもそも本作において、神はいかなる救いの手も差し伸べません。信心深いフランキーが毎日ミサに通ったところで、最終的な決着は、フランキー自身でつけるほかなかったのですから。よって、神の存在を否定せんがごとき終焉へと至った本作のナレーションが生身の人間のそれであったということは、必然だったのかもしれません。そして、繰り返せば、ラスト近くでフランキーが神父に自分の思いを打ち明けたあの教会でらすら、深い闇が支配しているのです。
闇の存在もさることながら、イーストウッドは本作でも視線の高低差を生かした演出を施しています。イーストウッド組とも言える美術ヘンリー・バムステッドの腕が冴えるあの古く味のあるボクシングジムにおいて、フランキーの事務所は常にリングを見下ろせる位置にあります。最初はただ怪訝な表情でマギーを見下ろすだけのイーストウッドが、とうとうマギーと同じ高さで視線を交し合い、握手をする。このシーン感動的なのは、闇から光へという平行移動の運動と、視線の上下運動が交差するまさにその瞬間に交わされるからだと思います。
客席上方にいるフランキーとスクラップがリング上で苦戦するマギーを見下ろした後に、やはりと言うべきか、リングサイドにまで降りていって断ったはずのセコンドになってしまうというシークエンスもまた、握手のシーンと同様に捉えることが出来るでしょう。
あるいは、マギーに対するある重大な決心をしたフランキーが、ほとんど真っ暗なロッカールームでスクラップと会話を交わすシーン。ベンチに腰掛けたフランキーには、顔の半分ほどしか見えないくらい闇に支配され、傍らに立つスクラップもやはり、辛うじて上半身に間接的な光が差す程度です。途方も無い決意を胸にしたフランキーを、スクラップは見下ろしています。それまでどちらかと言えば、対等な高さで視線を交し合っていた二人が、見下ろす・見上げるという関係に変化しています。しかしすでにその意思を揺るぎないものとしているフランキーは、スクラップに対しほとんど言葉を発しないまま、光のあるほうへと去っていくのです。私はこのシークエンスを観て、この演出こそがイーストウッドだと理由も無く断言したくなりました。
それにしても、マギーがタイトル戦において、唐突なフックを喰らって倒れるシーンを初めて観たときは、二重の驚きがありました。一つは、まさかこんな展開が…という驚き。もう一つは、イーストウッドらしからぬあのスローモーションに対する驚きです。
それまでいかにも無駄なく力強い簡潔さでシーンを積み重ねてきたあのイーストウッドが、まさかあのように劇的とも言えるスローモーションを使うなどとは思ってもみませんでした。しかし思い出してみると、イーストウッドはマギーのほとんど全ての試合において、ノックアウトの直後にあの忌まわしき凶器となるスツールを、何度も何度もリング上に置くショットを見せているのです。しかし、このタイトル戦でスツールをリング上に置くのは、イーストウッドではない別の人間です。だからこそ、彼が懸命にスツールに手を伸ばそうとするショットもまたスローモーションで切り返されるのですが、一見すればボクサーに一時の休息を与えるあのスツールが、ボクサーの生命を奪う凶器にも変貌するのだという残酷な思いが、あのスローモーションには込められていたのではないでしょうか。カメラの視点は倒れたマギーのものになり、リングを照らす無数の光が、真っ暗な闇に暗転したとき、マギーの人生もまた、無残にも闇に彩られることになるという意味で、忘れがたく、そして極めて重要なシーンだと思うのです。
忘れがたいと言えば、もう1シーン。
マギーの思いとは裏腹に、家族から散々な仕打ちを受けた日の夜、フランキーと二人でとあるダイナーに立ち寄るシークエンスがあります。車中、彼女は自分の父親と飼っていた犬の話をし、男と女としての、もしくは擬似的な父と娘としての二人の距離が、グッと縮まる印象的な会話の後、マギーが嘗て父と共によく訪れたというダイナーにフランキーを連れて行きます。そのシークエンスが終わるとき、店の外に据えられたカメラは、ゆっくりとズームダウンしながらダイナーの外観をじっくりと画面に収めます。あるシーンの終わりとして、その舞台となる場所を引きで撮ることでシーンを終える手法自体はとりたてて珍しくはないのですが、初めてこのショットを目にしたとき、そういった常套的手法とは異質の肌触りを感じ、やや動揺しました。このショットにはかなり重要な意味が込められているのではないか、と。わざわざダイナーの看板まで律儀に見せ、そのドアの曇りガラス越しでは中にいる二人が判別できるわけでもないのに、では何故このようなショットを撮ったのだろう、と。
『ミリオンダラー・ベイビー』は、そのダイナーのショットで幕を閉じます。より遠景の外観から、今度はゆっくりズームアップしていきながら、前述のショットとほとんど同じ構図でそのダイナーが映る。そしてダイナーの中には、確かに人影がある。しかしそれが、姿を消したフランキーかどうかはわかりません。ただ、私は先に観た、あの不可解だったショットの意味が、ごく自然に了解されたような気がしたのです。闇の中にあって、そのダイナーにはほのかな光が灯っています。フランキーの選択は善悪という概念に基づかれたものというより、光と闇のどちらかを選ばねばならない過酷なものだったのかもしれません。そしてそれがどのような形であれ、あらゆる闇には光が差し込まれる余地があるのではないでしょうか。
観るものへと委ねられたラストシーンに、あえて結論は出すべきではないでしょうが、あのダイナーの控えめな光は、どことなく優しかった、そんな気がするのです。
2005年10月03日 00:34 | 邦題:ま行
Excerpt: 今日は映画の日。渋谷でクリント・イーストウッド監督の「ミリオンダラー・ベイビー」を鑑賞。観終わった後、しばらく立ち上がることができなかった。そんな作品。公開直後なので、ネタバレをしないように雑感を書き留めてみる。 この「ミリオンダラー・ベイビー」は、イ...
From: BLOG IN PREPARATION
Date: 2005.10.03
>[R]様
なるほど、確かに“選択”という言葉は重要かもしれませんね。それぞれの選択は、いずれも過酷な結果を齎す厳しいものばかりだったようにも思えますが、イーストウッドほど、オプティミズムから遠い作品ばかり創る監督もそういないのではないでしょうか。
尊厳といえば、同時期に『海を飛ぶ夢』という映画が公開されましたが、ご覧になりましたか? よろしければ、dvdが出ておりますので、チェックしてみてください。意見が分かれるところだと思いますが、私としてはそれほど乗れませんでした。
Posted by: [M] : 2005年10月30日 17:33
もう、ビデオレンタルが開始されましたが…
本日やっと、映画館で『ミリオンダラー・ベイビー』を鑑賞することができました。
ただただ、「素晴らしかった!」のひとことです。
光と闇の設計、そのバランス、ほんとうに見事でした。
「尊厳」や「倫理」についても考えさせられましたが、
個人的には、「選択」という行為について、熟考させられました。
まだ、噛み砕いている最中ですが…
「安易な選択」も「慎重な選択」も、ある種の「運命みたいなもの」に翻弄されるというか…
私達は「見えやすい場所(光の中)」で物事を選択し過ぎなのではないでしょうか?
片目が霞んでひるんだマギーに向かって、フランキーは言ってのけましたよね…
「片目があれば充分」みたいなニュアンスの言葉を!
そんなふうに「見えにくい場所(闇の中)」でも恐れず選択することが大切なのだと…
イーストウッドの「できない、できない…」という言葉に強い意志を感じました。
それが彼の選択だったのであり、そのあとの結末を齎した存在については思考中です。
フランキーの最後の重大な決断よりも…
マギーの、フランキーの、スクラップの、デンジャーの、他の者の何気ない数々の選択が、
僕の胸の中を去来していきます。自分を守るための選択…。なぜでしょうか?
とりとめのない感想でスミマセン。
Posted by: [R] : 2005年10月29日 03:50
>Ken-Uさま
TB及びコメントありがとうございました。
かなり時間が経ってからの更新になってしまいましたが、私からもTBさせていただきました。
イーストウッドは、本当にあっけなく一本の作品を撮ってしまうような印象があるのですが、出来上がった作品は(特にここ2作品は)、何だかもの凄いとしか言えませんね。ただし、それを容易に彼の人生と結びつけることは禁じなければならないと思います。
>格闘技のリングは、光と闇の世界の境界領域ということな>んでしょうか。
少なくとも私の中では、あのリングをそのように捉えました。
余談ですが、マギーがどんどん勝ち上がっていくシーンの積み重ね方の簡潔さが、私にはたまらなく好きです。だからあのスローモーションに驚いたんですけど。
Posted by: [M] : 2005年10月03日 17:55
[M]さん、おじゃまします。
自分の記事が古く、内容も貧しかったので迷ったんですが、TBさせていただきました。
クリント・イーストウッドが描く「闇」には興味をそそられます。この物語の舞台が、光と闇が交錯するボクシングの世界であることも興味深く感じました。格闘技のリングは、光と闇の世界の境界領域ということなんでしょうか。
彼が何故ここまで、光と闇の世界で引き裂かれる人間関係を描くのかに興味があるんですが、先日WOWOWで放送されたドキュメンタリーでは掴むことができませんでした。
まあ彼の私生活は置いておきましょう。それとは無関係に、この作品が素晴らしいものであることは間違いないですよね。
Posted by: Ken-U : 2005年10月03日 13:13