September 08, 2005

映画短評<2005.8>

ある朝スウプは
「群青いろ」という、今風に言えば“映像ユニット”を、貴方はご存知だろうか。その中心にいる高橋 泉(群青いろ 青)と廣末哲万(群青いろ 黒)は、自主制作ながら2001年から現在まで、数分の短編から30~40分の中篇をすでに20本以上製作している。PFFでのグランプリに選ばれた本作は、彼等の長編デビュー作だが、彼等が描こうとしているものは、実は最初から変わっていないのかもしれない。そしてその変わらない核とは、“痛み”である。

『ある朝スウプは』は端的に言って痛ましい。行為も、言葉も、そして合間に挿入される風景すら痛ましいのだ。出来れば目を背けたいが、しかし、瞳は画面に吸い寄せられていく。画面から強力な磁力が放射されているからだ。いや、あえて“痛ましい”という客観的な形容詞を使うのはやめよう。『ある朝スウプは』は直接的に“痛い”。その意味でかなり狂暴な作品だと思う。

主演の廣末哲万が、同棲している恋人役の並木愛枝を発作的に殴る場面。ほんの一瞬で終ってしまうそのアクションが、どれほど痛いことか。その平手打ちが痛々しいのではない。鬱屈しつつある男の感情が、本人の意思で制御できずに爆発する瞬間の身振り自体が痛いのだ。そして、不当にも殴られた並木愛枝はその時、純度100%の涙を流すだろう。黒い怒りと青い悲しみとに彩られた、群青色の涙を。私が最も感動したシーンである。

恋人同士も所詮は他人。それはしかし必ずしも悲観的結論ではないだろう。本作は、その先にある世界への扉を、そっと提示しているに過ぎないのだ。

チーム★アメリカ ワールドポリス
政治を笑いに転化させること。世界には風刺画という古くからの文化があるくらいなので、そのこと自体は実はそれほどスキャンダラスではない。映画においても、最近ではマイケル・ムーアがそのことを嫌と言うほど思い知らせてくれたのだし、『華氏911』が世界にあれほど受け入れられたのも、政治が笑いの対象として相応しいことを誰もが体験として知っているからだろう。

さて、本作は様々な固有名詞に溢れていて、仄めかしなど無いに等しい。その“ドキュメンタリー性”故に、それは確かに笑える。さらに、それを演じているのが全て人形であるということが、予め笑うことを強いてもいるだろう。この人形の存在というのがことのほか大きく、エロ・グロ・ナンセンスのみで成り立っている本作は、その度を越した反道徳性の割りに、一種のファンタジーとして映るのかもしれない。

カメラの動きや位置は、人間を撮る場合とほとんど変わらず、それが人形だということを忘れさせる、とまでは言わないが、アメリカ映画的なリアリティに貢献していたと思う。つまり、悪く言えば全編を通して図式的なのだが、そんなことは百も承知だとばかりに、全てを暴いていくあの印象的な挿入歌の数々には素直に感動した。


ベッピーノの百歩
マルコ・トゥーリオ・ジョルダーナ監督は、これまで幾度となく描かれてきたシシリアンマフィアを、抗争という切り口で描くのではなく、あくまで血縁(家族)の過酷さという観点から描く。人は生まれた瞬間からその家族を選べないが、人生を選ぶことは出来る。その闘争の過程は、たとえこの物語が実話を基にしていなくても感動的である。

幼少時代、親戚一同を前に熱心に詩を朗読するジュゼッペ・ベッピーノ・インパスタートは、後にラジオを通じ不特定多数に向けて熱弁を振るう。その時に発せられるイタリア語のあまりに美しく甘美な様が忘れられない。

ぼくの瞳の光
本作は、とにかくルイジ・ロ・カーショとサンドラ・チェッカレッリに尽きる、と言いたい。劇中で彼らが抱えている苦悩は、そのまま観ている観客の苦悩として共有されるかのようだ。あくまで客観的であろうとするその作風には好感が持てる。まさに本作はポエジーそのものだと思う。
夜のローマが、あれほど疎外感・孤独感に満ちた都市として描かれるとは……

皇帝ペンギン
毎度の事ながら、“フィクションとドキュメンタリー”という問題に直面した時、私は無駄に思考してしまう他ないのだが、それでも本作をドキュメンタリーと呼ぶことが躊躇われるのは、皇帝ペンギンの過酷極まりない生涯を描きながらも、それを(無理やり)人間の価値観にあわせた上で、ある一つの“感動的”なドラマを捏造しようとする姿勢にいささかも共感できなかったからである。

餌の宝庫という意味で一種のオアシスである海中で、ペンギンがサメに襲われるシーンがある。サメは容赦なくペンギンを食おうとし、ペンギンは何とかそこから逃れようとする。しかし、何故そのシーンをスペクタクルとして見せる必要があるのか。何故、サメがカメラに向かって大きく口を開くショットに、あまつさえ仰々しい効果音を重ねる必要があるのか。それが家族向けの娯楽映画だからという理由で、その手の凡庸過ぎる悪しき手法で観客にエモーションを強要することが、私にはどうしても許しがたかった。

ドキュメンタリーが全て真実だなどという妄想はとうの昔に捨てているつもりだし、スペクタクルを全否定する頑なさもどうかという立場だが、たとえ映画がすべからく“嘘”で成り立っているとしても、このような捏造ドラマを許容するわけにはいかず、昨今、フランス産の動物ドキュメンタリーがそれなりの観客を集めているだけに、この手の手法がスタンダードになってしまったとしたら…とおせっかいな心配の一つもしてしまう。

対象との距離。少なくともドキュメンタリーと名乗るのであれば、それが最重要になってくるのだと私は思う。例えば、『ゆきゆきて神軍』と『神様の愛い奴』の間にある決定的な断絶も、まさにこの点に存しているのだと。


春の底/阿佐ヶ谷ベルボーイズ
まずは『春の底』という短編に関して。DV・モノクロで撮られた23分の本作には、脚本が存在せず、設定だけ与えられた俳優が即興で演じたのだという。ファーストシーンは恋人同士の口論であるが、興奮気味の彼女の演技が果たして“リアル”だったのかどうか、正直わからなかった。子どもを孕ませた彼が中絶代金を工面するために、ある初老の男性の息子に成りすまして手紙を書くが、その字の下手さ加減がいい。誠実であろうとするわりに、やっていることがあまりに杜撰で出鱈目であるという部分が、なかなか良く描けていたと思う。
全体的に画面に落ち着きがなく、室内でかなり低い位置に据えられたカメラも、生きていたとは言いがたい。が、決して不愉快な作品ではなかった。

『阿佐ヶ谷ベルボーイズ』は、『ある朝スウプは』に続いて廣末哲万主演。今回は監督と編集も兼ねている。どちらかというと抑制された演技をする廣末哲万が、ある瞬間にその感情を爆発させるシーンは、前作同様感動を禁じえない。

近年、映画にこれほどまでの居心地の悪さを感じたこともそうなかった。
居心地の悪さとは、その場にある空気がなかなか透明になろうとしない状態だと思うが、そのような場を生み出すのは、並大抵ではないはずだ。高い演出力はそれだけで証明されると思う。

3つの場所での出来事が並行して描かれる本作では、その編集にも注視したい。物語が進んでいくに従って、それぞれの場面が異様な緊張関係を保っていく。あるシーンの切れ目と次に続くシーンには、目に見えない一瞬の“危うさ”が存在していて、それがシーンごとの緊張関係を生んでいくかのようだ。

登場する誰もが、他者の感情を共有できない。同僚の死を前に、それぞれがそれぞれの闇を抱えながら右往左往し、それでも生きていくしかないという諦念すら感じるが、本作はそのような諦念に最後の最後で光を点す。それが同僚の女性と廣末哲万との切り替えしとして描かれる時、曰く言い難い安堵感を覚えた。

小さな作品ではあるが、その存在感は長らく記憶に残るだろう。
私はこういう作品が好きなのかもしれない。

September 8, 2005 12:27 PM | 作品(短)評
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Title: 映画「チーム★アメリカ ワールドポリス」
Excerpt: 7月30日公開初日で、「リンダ リンダ リンダ」からハシゴして観た。 9・11以後の"世界の警察"の活躍(?)を人形劇で描いたこの映画、見所は盛りだくさんだ。貴重な文化遺産を胸のすく程大破壊、過激な殺戮シーンに飛び散る血、様々な体位を見せる...
From: 茸茶の想い ∞ ??祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり??
Date: 2005.09.10
Comments

>湾岸殿

コメントありがとうございます。
『ぼくの瞳の光』と『ペッピーノの百歩』、2本立てであれば是非行ってみてはいかがでしょうか。確かなことはいえませんが、個人的には、現在公開中の新作2本分以上の価値があると思っています。
共にdvdで観られる作品ではありますが、劇場で観ておいて絶対に後悔しないはずですよ。

もしその2本がかなり刺さったのなら、12月に下高井戸シネマで公開される『輝ける青春』も是非。


Posted by: [M] : October 11, 2005 12:17 PM

来月、早稲田松竹で『ぼくの瞳の光』と『ペッピーノの百歩』がかけられるらしいのですが、行こうか迷っています。
1週間の上映のようで。
『ペッピーノの百歩』は[M]さんも好評のようですが・・・。

だいぶ前の日記にコメントしてしまい、すいません。
返信はだいぶ遅れてもいいのでお待ちしてます。
こちらのmixiの日記に書かれても構いませんのでー。


Posted by: 湾岸 : October 10, 2005 11:27 PM

>[R]さま

廣末哲万監督の画面については、確かに賛否あるとは思います。先日『さよなら さようなら』をレンタルしてきたので、それを観た上で考えてみますが、わたしにはそれほど不快ではありませんでした。

高橋氏の発言にあった「真っ直ぐな愛、云々」に関しては、わたしとしてはどちらでもいい話で、結果としてわたしの感受性がどちらの方向に揺れることになったのか、それが重要だと思っております。


Posted by: [M] : September 20, 2005 12:06 PM


>[M]さま

『阿佐ヶ谷ベルボーイズ』―助監督のS君に強くリコメンドしたら、打ち合わせ後に観に行くというので、結局たまらず僕もついて行ってしまいました。

『ある朝スウプは』はどうも受け付けなかったらしいS君でしたが、こちらの作品は「まぁまぁ」だった模様。僕はといえば、またもや感動してしまいました。

しかし落ち着いてみると、やはり画面が甘いなぁという気がしました。S君も同じ意見でした。あの落ち着きのない画面が狙いとも言えるのでしょうが、もっと大胆にひいてもいいのでは?とおせっかいながら感じてしまいます。
でも廣末哲万がフレームに収まったときの安定感には、目を見張るものがありますね。現代の病を演じさせたら、彼の右に出る者はいないでしょうね。

前回のトークショーの際に、「群青いろの作品群は“痛み”がキーワードだと思いますが…云々」と僕が質問したところ、高橋泉さんが「そこまで“痛み”は意識してません。真っ直ぐな愛を描いているつもりです!」というようなことを仰ってました。
確かに「そうだな」と思いました。“愛”に向かっているからこそ、散りばめられた“痛み”が、観客側に“痛い”をもたらすのだなと実感!
昨今の日本映画は、無駄に「空虚さ、病み(闇)、痛み」などを取り入れる風潮がありますが…群青いろはそれらと真摯に対峙し、作品内でシッカリと昇華させている気がします。そこに好感が持てますね。


Posted by: [R] : September 15, 2005 01:54 AM
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