April 25, 2006
『セブンス コンチネント』、この映画から逃げてはならないということ
原題:DER SIEBENTE KONTINENT
上映時間:111分
監督:ミヒャエル・ハネケ
『セブンス コンチネント』を直訳すれば、“第7の大陸”ということになります。現在、地球上には6つの大陸しか存在していないので、“第7の大陸”とは何かのメタファーだと考えられます。劇中、オーストラリアという固有名詞が幾度か口にされたり、あるいは観光ポスターという形で登場したりもしますが、“第6の大陸”であるオーストラリアと、この“第7の大陸”との関連性はあるのかどうか。結論から言えば、どちらともいえません。『セブンス コンチネント』には、ある場所(右写真)が数回登場し、その場所が恐らくは“第7の大陸”だと言うことも可能ではあるのですが、その場所に関する情報の一切を、観客は知らされることがないのです。本作においても、監督はただ挑発的に問いかけることで、観客に作品への参加を強いるでしょう。説明やメッセージという概念から遠く離れ、我々観客を“不安と攻撃の真っ只中に投げ込む(ミヒャエル・ハネケの発言より引用)”ことこそが、彼にとって映画を撮ることに等しいということです。
本作はまず、その特異なスタイルが印象的です。ミヒャエル・ハネケが“長回し”の作家であることは容易にわかりますが、しかしそれとは別に、彼は“反リズム”の作家だったということを発見できたことは収穫でした。“反リズム”とはつまり、 説話の自然な流れ(ほとんど思考ゼロの状態でも物語を理解した気になれるという程度の意味です)を意図的に断ち切り、その都度画面に視線を集中させるような、ある種“脅迫的”ともいえる説話構造を意味します。
ショットとショットの間に挟まれるあの黒画面。それは例えば、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』におけるそれとは大きく異なる印象でした。ジャームッシュ的ではいささかもなく、むしろブレッソン的な画面の断ち切り方で、観客が無意識にとろうとするリズムを奪うのです。誤解を恐れずに言うなら、あの間=黒画面は、端的に言って、非常に居心地が悪いものです。それは恐らく、こちらの内面にまで映画が踏み込もうとしていることへの恐れなのかもしれません。これを挑発と言わずして何と言えばいいのでしょうか。
特異なスタイルと言えば、『セブンス コンチネント』では、カメラのそれに注目しないわけにはいきません。本作における対象との距離は非常に緊密であると言えます。カメラは、顔や手など人物の各部位はもとより、車や家具などの物質に至るまで、頑ななまでのFIXショットで対象を見つめようとします。ではいったいどの程度の間見つめ続けるのか、恐らくそれは厳密に計算されたものであるはずです。画面と観客の間にある距離が、そのテンションを最も張り詰めるその瞬間に向けて。
さらに私の注意を惹いたのは、本作における数字への執着です。
ファーストショットが車のナンバーのクローズアップだったことに始まり、画面には幾度となく数字のクローズアップが映し出されます。本作では重要な意味を持つであろう時計、レジスターの10キー、電話のダイアル、紙幣や硬貨……。タイトルにも“7”という数字が含まれていますし、本作は3章から成る章の冒頭に具体的な日付のテロップが出て、ラストでは壁に家族が死んだ日時が書かれるのです。
映画に限らず、物語世界における数字はいやおうなしに具体性を伴うものです。行為自体はいくらでも抽象化できますが、一端数字が出てくると、画面は途端にリアリティを帯びる。そもそもが実話にその着想を得た『セブンス コンチネント』ではありますが、本作において不吉に漂うリアリティは、むしろ頻出する数字によって齎されているのではないでしょうか。そこには少なからず監督の批評性が込められていると思われますが、ではそれが何に対するものなのかという点、それもまた、監督から観客に対する一つの問いなのです。
さて、私がどうしても触れておかねばならないことがあります。それは言うまでもなく、後半30分近くにわたって繰り広げられる破壊行為に関してです。家具を壊し、写真を破り、洋服を切り裂き、金をトイレに流し、最後には自分をも地上から消滅させるというこのカタストロフィー、あのようなシークエンスを、私はこれまで一度も観た事がありません。その破壊描写は徹底していて、機械的です。いみじくも夫・ゲオルグが言うように、全ては「系統立てて順序よく」行われていきます。次々に破壊されていくものを観ながら、観客は少なからずショックを味わうでしょう。何故そんなことをしなければならないのか、ここでもそんな難解な問いを突きつけられるのですから。
ミヒャエル・ハネケは、画面に映っているものだけを観、そして考えてみろと挑発します。物語の中心にいる3人の家族には、およそ内面と言われるものが感じられません。特に演出が奇抜というわけではなく、誰もが了解可能な演技を、彼らもしてはいるのですが、所謂深層心理を描写する意思など微塵もないのではないかとすら思えるのです。ハネケ自身、心理的リアリズムに拘泥せず、状況自体をラディカルに尖鋭化させることで、人物の心理的個人的菜鋳型を避けようとしているというようなことを言っていました。つまり、登場人物が置かれている状況、あるいは彼らの極端な行動ですらも、その要因や根拠は我々観客自身に委ねられているということです。
人生をリセットするという純粋で強靭な意志。今、ここではないどこかへの遥かな視線。あの3人の家族は、“第7の大陸”(それはしかし、ユートピアと言えるのか?)をただ求め、結果的に一家心中という選択肢を選びました。妻・アンナがクスリを飲み干す時の横顔に、私は確かに絶望感を感じました。しかし、彼らの内なる真実を理解することなど、出来はしないのです。我々に出来ることは一つ、映画を通じて自分の不安や痛みに向き合うことだけではないでしょうか。ただしこれだけは断言しておきたいのですが、あの空前絶後とも言える破壊行為には、観客を動かすだけの、映画にしか持ち得ないような力があるのです。
一見あまりに素っ気無い、表面的なショットが積み上げられていくことで、『セブンス コンチネント』は構築されていきます。しかし同時に、本作は自らの意志で壊れていくかのようにも思えました。これではまったく抽象的で、私にしか理解出来ない表現だということもわかっています。しかし、観終えた直後も、そして数日経った今も、その印象は変わることがありません。
彼らの死は、何かを生み出したのか否か。彼らが向かおうとしていた“第7の大陸”は、死後の世界にほかならないのではないか。だとすれば、ラストショットであるテレビの砂嵐に、私は一体何を感じたのか。明確な答えなどありません。しかし我々観客は、ミヒャエル・ハネケによる全ての問いから逃げることなど決して出来ないし、また逃げるべきではないのでしょう。
April 25, 2006 12:00 PM | 邦題:さ行
author : [M]

