2005年08月24日

イタリア映画によせて

別に『ニューシネマ・パラダイス』を再見したからというわけではありませんが、今、あらためてイタリア映画の魅力というか素晴らしさについて、考えたりしています。限定的ながら『輝ける青春』が劇場公開されていることや、たまたま上司から頂戴した「リュミエール」(1987-冬)が“映画大国イタリア”という特集だったことがその要因になっているような。

ここでふと思うのは、私の中のイタリア映画体験のほとんどはヴィデオによるものだったということ。同時代的に観ることの出来た監督など、本当に数える程しかいないのです。主要なところで先にあげたジュゼッペ・トルナトーレやベルナルド・ベルトルッチ、ナンニ・モレッティあたりでしょうか。つまり、90年以降にデビューした監督の作品を同時代的に発見することがほとんど無かったのではないか、と。

学生時代、私は多くのイタリア映画にそれこそ心を奪われました。といってもそれらは40年代後半以降の作品に限られ、初期のスペクタクル史劇もディーバ(女優)中心のスターシステムも全く知りませんでした。かろうじて“ネオレアリズモ”という言葉だけを頼りに、ヴィットリオ・デ・シーカやピエトロ・ジェルミ、そしてロベルト・ロッセリーニに辿りついたという感じです。その時すでに一連のヌーベル・ヴァーグ作品の何本かは鑑賞していたと思いますが、なるほど、後にヌーベル・ヴァーグに影響を与えることになるネオレアリズモと呼ばれた作品群は、それまで観ていたものとはどこか異質の生々しさがあったように思います。第二次大戦を教科書の上でしか知らない私にとって、それらはいささかも“リアル”ではなかったものの、その時初めて映画における“生”というか“のっぴきならない現実”を観たかのような錯覚に囚われたのです。アメリカ映画や香港映画には感じられなかった、映画の中の生。これが私のイタリア映画の強烈な印象としてその後も残り続けるのですが、まぁ言ってみれば若かったということです。

その後、ミケランジェロ・アントニオーニとフェデリコ・フェリーニ、ルキノ・ヴィスコンティそしてピエル・パオロ・パゾリーニへといたる過程は、当時心酔していた澁澤龍彦氏の影響をもろに被った形になり、今にして思えば、本来観るべき部分とは別の何かを見出そうと必至に足掻いていたようにも思え、まさしく若気の至り以外の何者でもありませんが、彼等の作品は良くも悪くも未だに私のイタリア映画観を決定付けているのだと言わねばならないでしょう。『赤い砂漠』の殺伐とした工場、『道』の海と叫び、『若者のすべて』の家族、『テオレマ』の聖性…これこそがイタリア映画だ、などとは声高には言えないものの、私がイタリア映画について思考する時には絶対に避けて通れない作品なのです。

先日、相棒のng氏に聞いてみました。我々はどうしてイタリア映画に惹かれるのか、と。彼は一言「人間そのものを描いているからじゃないかなぁ…」と。もちろん、その簡潔な言葉だけをこの文章の結論にしたいわけではなく、私とて未だにその疑問は解消されていないのですが、少なくとも、ある一つの指針にはなるかと思います。

今そのフィルモグラフィーの全てを制覇したい監督がいるのですが、そこに共通しているのが「マルコ」という名前。私の中では“3人のマルコ”として記憶されています。すなわち、マルコ・ベロッキオマルコ・フェッレーリ、そしてマルコ・トゥーリオ・ジョルダーナです。彼らの作品のほとんどが特殊な機会にしか上映されないのが現状ですが、その機会を逃さないことが当面の義務になるでしょう。

折角なので、10年以上ぶりに再見した『ニューシネマ・パラダイス』をもう一回だけ観直してみようと思います。実は当時見落としていた箇所というか、カット割りやらカメラの動きなどでいくつかの発見がありまして、今も驚きの只中にいるのです。私はこの映画を世紀の傑作だとか触れてまわる意志も義務もないのですが、それでもここにある叙情性は、それが映画に纏わるものであるだけに、決して貶める気になどなれないのです。若かりし頃、あるいは最近観てこの映画に心動かされた方のコメントなどいただければ幸いです。
ちなみに、嘗てシチリア島を旅した際、この映画のロケ地に赴こうと四苦八苦しましたが、結局は行かれずじまいでした。

2005年08月24日 17:30 | 映画雑記
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Comments

>[M]さま

マッシモ・トロイージは、ほんとうにいい俳優でしたね。亡くなってしまって残念です。『イル・ポスティーノ』における佇まいは僕に、『パリ、テキサス』のH.Dスタントンを思い起こさせました。『BARに灯ともる頃』は未見なので、今度チェックしておきます。マストロヤンニとの共演(競演)なんですねぇ、ニヤリ。

『1900年』は、昔に一度レンタルしたことがあるんですが、鑑賞せずに返してしまいました(冒頭の何十分かは観たかもしれないんですが、覚えてません!)。
まとめ借りをすることが多い僕はいっつもそんなことばっかりやってます…。もっと酷い映画への冒涜もしております。ながら観とか早送りとか。懺悔!

『最後の晩餐』は近いうちに鑑賞して、感想を報告致しま〜す! そのまえに早速借りてきてしまった『赤い砂漠』『テオレマ』『未来は女のものである』『ジュリオの当惑』を見なくてはなりませ〜ん!


Posted by: [R] : 2005年08月29日 22:51

>[R]さま

『イル・ポスティーノ』ですか。確かに封切りで観て結構感動したような記憶が。フィリップ・ノワレの印象は、確かにこちらのほうが強いかもしれませんね。マッシモ・トロイージはいい俳優でした。エットーレ・スコーラの『BARに灯ともる頃』も未見であれば是非ご覧下さい。

ヴィットリオ・ストラーロといえば、『1900年』は観ましたか? 何となくですが、『輝ける青春』の前にあれを観直そうと思ったので。

『最後の晩餐』は是非にお薦めいたします。ただただ最高だとしか言えません。

今年の後半は、私もイタリア映画三昧といきたいところです。


Posted by: [M] : 2005年08月26日 11:12

とても浅い映画歴ではあっても、一応ヨーロッパ映画好きを自認してきた僕ですが、「イタリア映画」を蔑ろにしてきたことを強く実感し、いまさらながら深く反省しております。
とは言っても、イタリア映画と僕との間に妙な繋がりがあるのもまた事実です。
ひとつは、映画に目覚め始めた頃に無性に好きだったのが『イル・ポスティーノ』であるということです。詩人少年でラブレターばかり書いていた中学生の僕は、あの作品の純粋さに惹かれ、しばらくのあいだ僕のベストワンでした(果たして今観たらどうなのか?)。このときフィリップ・ノワレを発見したのです。『ニュー・シネマ』よりもこっちのノワレの方が僕にとっては印象が強いのです。
もうひとつは、時代や好みに関係なく、僕が思う「監督らしい監督」「最も映画らしい映画」が、フェリーニであることです。撮影所のチネチッタで葬儀をしたというのは実に素敵なエピソードですね。
「イタリア映画」が僕の意識に入り込むのに十分な要素(きっかけ)があったわけですが、なぜ追い求めなかったのでしょうか? まったく不思議です。おそらくヌーヴェルヴァーグ(仏)のせいでしょう!
「ネオレアリズモ」に関しては、『無防備都市』『自転車泥棒』『ドイツ零年』などの主要作品どまりです。ほんとうにもったいない気がしてきました。
そしてなぜだか喰わず嫌いしている、ヴィスコンティとパゾリーニ! そういえばちょっと前にヴィスコンティ映画祭やってましたね。後者も何度かチャンスがあったのだが結果的に見逃している。
そんな僕でも意識的に観ている人がいる。それは監督ではなく撮影監督のビットリオ・ストラーロですね。無条件で心酔してしまいます。
“3人のマルコ”…実に気になります! 『最後の晩餐』は[M]さんのリコメンドが何度もあったので、二度ほどパッケージに手を伸ばしたのですが、気分・調子が大切かと思っていまだ未見です。『母の微笑』も観てみたいです。『輝ける青春』は時間を見つけて是非観に行こうと思います。9月に入ってからですね。
そして『ニュー・シネマ・パラダイス』の再見! 試みてみます。僕は3度目になりますが、また新たな感覚が味わえそうな気がしてきました。2005年の後半は、「イタリア映画」と共に「新しい映画への旅」を開始したいと思います。


Posted by: [R] : 2005年08月26日 01:56
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