2005年08月08日
2本のイタリア映画を2本のワインと共に
先週末は海へは行かず、かといって酒を飲む場が浜辺から渋谷に移っただけのこと、金・土・日と連日飲んだくれておりました。ただし、海に行かなかったのだからせめて映画くらいは、ということでdvdを含め3本鑑賞。
まずは『チーム★アメリカ ワールドポリス』ですが、このような作品に何故あれだけの人間が押しかけることになったのか、シネ・アミューズのあの混雑ぶりは、『誰も知らない』の時以来ではなかったかと。夏休みという時期的な問題なのかとも思いましたが、どうやらそれだけではなさそうな感じも。特に笑いどころでもないような、ただのタイトルバックが画面に出た瞬間に笑い出した数名の若造がいましたが、彼らのように“観ること”よりも“笑うこと”を最大の目的にしているかのような人種がいたのも、人騒がせなトレイ・パーカー&マット・ストーンの作品ならでは、ということなのかどうか。初体験だった私にしてみれば、何となく薄気味悪い光景でした。
まぁそれはともかくとしてこの映画、画面で展開されるギャグもバイオレンスもエロスも、それが人形であるからこそ笑えるのではないか、と。つまり、表情が豊かとは決して言えない、あの目の大きなマリオネットの顔がクローズアップになれば、全てがギャグとして機能してしまうということです。まぁそれでも要所要所で大いに笑ってしまったのもまた事実。特に印象的だったのが数回にわたり挿入されるオリジナル・ソングで、映画における特訓シーンなどでたびたび使用される“フラッシュバック”(8/9訂正:“モンタージュ”でした)という手法そのものを軽々と暴いた歌には笑いました。このたりのセンスには大いに共感します。
一応R-18ということですが、多分に漏れず、今回の成人指定にさしたる意味などないと、最後に加えておきます。
さて、近く鑑賞予定の『輝ける青春』(マルコ・トゥーリオ・ジョルダーナ監督)への準備として彼の旧作を観直そうと思い、TSUTAYAにて『ベッピーノの百歩』を、ついでに未見だった『ぼくの瞳の光』(ジュゼッペ・ピッチョーニ監督)もあわせてレンタルしました。
2作とも、すでに友人の熱いリコメンドを受けての鑑賞となりましたが、私の評価も彼らと同等、あるいはそれ以上かもしれません。『ベッピーノの百歩』は所謂シチリアマフィアが描かれつつも、それは主題ではなく、あくまでマフィアとの戦いに身を投じた実在の青年・ベッピーノの人生に焦点が当てられています。ジョルダーナ監督が描く“家族”と“歴史”がおぼろげながら掴めた様な気がします。後は『輝ける青春』を観るばかりです。
もう一本の『ぼくの瞳の光』も『ベッピーノの百歩』同様、ルイジ・ロ・カーショが主演していますが、この俳優が本当に素晴らしく、言葉少なげに不器用な青年の心情を見事に表現していることに感動。何故だかは説明出来ないのですが、本作にはナンニ・モレッティの映画を観ているような感覚も。どなたかそのように感じられた方はいませんでしょうか?
それにしてもやはりイタリア映画はいいですね。私はイタリアという国に対する思いがあるからなのかもしれませんが、それを差し引いても、イタリア語は聞いているだけで心地よい言語だと思います。毎年開催される「イタリア映画祭」にも、本来であれば積極的に参加しなければならないところですが、私はどうもあの朝日ホールが苦手で、つい遠ざかってしまいがちです。まぁそれも一人で観ようとするから気が進まないのかもしれず、であるなら、次回からはng氏かこヴィ氏を誘って参加出来ればと思います。お二人とも、その時は宜しくお願いします。
2005年08月08日 12:59 | 映画雑記
>[R]さま
こんにちは。コメントありがとうございます。
今日の記事は、[R]さんのコメントを受けて書いたという部分もあるんです。
これは自戒を込めてですが、新作だけ観ているようでは駄目ですね。書きながらそんな風に思いました。
Posted by: [M] : 2005年08月24日 17:34
先日、『ペッピーノの百歩』と『ぼくの瞳の光』を鑑賞しました! この二作を観て、「イタリア映画」に対して抱いていた先入観が見事にくつがえされました。正統派なイメージがあったのですが、その要素もしっかりと携えつつ、しっかりと横道にそれてくれている(オリジナルを模索している)気がしました。
『ペッピーノの百歩』の「百歩のシーン」はもう見事だとしか言えません。陰影へのこだわりにも目を見張るものがありました。
『ぼくの瞳の光』は、とにかくラストにやられました。最近の映画では、『サマリア』のラストにもの凄い感動(大きな嫉妬)をしたのですが、それに匹敵するものでした。まるで本をめくっているかのようなオーバーラップも反則技でしたね。
よくよく見回してみると、フェリーニ、アントニオーニ、ベルトルッチ、トルナトーレ、モレッティに限らず、異端の作家が多く見られるところですよね、イタリアって国は…。確かにあの風土と言語は、なんとも言い尽くせぬ心地よさがありますね。「映画への愛(=人生の謳歌)」を強く感じます。
Posted by: [R] : 2005年08月23日 23:39
>こヴィさま
おっとこれは失礼しました。
朝日ホールは上映を待っている間立ちっぱなしでかなり辛かったんですよ。ヴィスコンティの時は、ほとんどが年配ばかりでしたし。それ以来、あそこに行く時だけは、孤独を避けようとしてしまうんです。
Posted by: [M] : 2005年08月10日 18:01
あ、「全部」は「観た」ではなく、「一人で」を修飾しております(笑)。([M]氏の“一人で観ようとするから気がすすまない”を受けて)
Posted by: こヴィ : 2005年08月10日 16:27
>こヴィさま
こういう時のために、フットワークは日々ジムで鍛えております。
朋友ng氏も「最近はイタリア映画だね」などと言うのですが、それもこれら2本に触発されてのことみたいです。なるほど、モレッティとの共通点は“世界からの疎外感”ですか。納得です。あのように本を使う映画も近年珍しいような気がしました。嘗てはゴダールの独壇場でしたからね。
それにしても今年の「イタリア映画祭」全てご覧になったとは!(今猛烈な嫉妬に襲われています)まだ気が早いですが、一先ず「来年はイタリア映画祭で会おう!」と叫んでおきます。
『真夜中を過ぎて』何とか傑作選としてdvd化されないものでしょうか……
『輝ける青春』は、来週末か再来週末に予定してます! 予約が取れなかったら、またぞろ会社を休んでしまいそうです。いや、それだけの価値はあると信じたいです。
Posted by: [M] : 2005年08月10日 13:06
[M]さん
あいかわらずフットワーク軽い! ルイジ2本さっそく見たんですね。イタリア映画の成熟ぶり驚いたでしょ? 『ぼくの〜』がN・モレッティの雰囲気に近いというのは、主人公の「世界」からの「疎外感/哀しみ」が共通してるのかもしれません。それをユーモアに転嫁せず、希望と諦めが同居しているところが、シリアスにひたひたと胸に迫ってきて余韻が深いですね。ラスト(?)の夜の車のシーンが忘れられません(と書いてるけど間違ってるかも・笑)。あのSF(本)の使い方はうまいですね。まあ私、本が出てくる映画にはなんでも弱いんですが…(ゴダール然り)。
今気づいたんですけど、夏休みになら一日潰して岩波ホールもいいかも、と傾きはじめてます。
イタリア映画祭はいいですよ(私は今年全部一人で観た)。今年のは『真夜中を過ぎて』をシネフィル[M]さんに見てほしかったです。来年一緒に行きましょー!
Posted by: こヴィ : 2005年08月10日 02:53