2005年07月27日
『毛の生えた拳銃』と『世界』を経て、華麗に現実から逃避した数日間
これまでは日常的に、目の前に横たわる現実を出来るだけ現実として見据え、それに対峙するようにしてきた私ですが、この季節、流石に現実から逃避したくもなり、それをストレスと言うなら、そのようなストレスがたまること事態、東京に住む現代人として出来る限り避けねばならないと思ってもいるので、ここは一つ「エスケイプ from 現実!」とばかりに、ちょっと現実逃避してきました。この場で詳述は避けますが、とりあえずの脱皮は完了し本日からまたもとの生活に戻れそうです。
ちなみに、右上に掲げた1枚の写真にさしたる意味はありません。これを観た方は、なんだかホモセクシュアルな如何わしい写真のように思われるかもしれませんが、ストレスから開放されたある男のフィクションとして、軽く流し観していただければと。これもあくまで一つの象徴です。それが誰であるかはさして問題ではないのです。間違っても私ではありませんので、どうかお間違えなきよう。
というわけで、更新が滞っている間にも何件かコメント等いただきありがとうございます。先日観た『毛の生えた拳銃』や『世界』の内容については、別途短評あたりで触れることになるとは思いますが、ひとまず22日を振り返ってみたいと思います。実際、先週末も映画は1本も観ておらず、特に書くこともないのです。まぁ今月、来月はこんなペースになってしまうかもしれませんが、体よくまとめれば“充電期間”ということで、このスローペースをご了承いただければと。
さて、わざわざ会社を休んだ22日は先日も書いたとおり、まずはポレポレ東中野で開催中の「若松孝二レトロスペクティブ」から、あえて若松を避け、大和屋竺の『毛の生えた拳銃』に。平日の15:00過ぎの上映にもかかわらず、劇場は8割がた埋まっていました。同じ時間帯にユーロスペースで上映中の『運命じゃない人』に行ったとしても、恐らくここまでの観客は入らなかったのではないでしょうか。かつてはラピュタ阿佐ヶ谷で、つい最近もシネマアートン下北沢で特集上映されていた『荒野のダッチワイフ』をことごとく見逃し、だからといって何故か大和屋竺だけはdvd等で観る気にもならず、このような機会はもう逃せない、このセレクトはそんな理由に因るのでした。モノクロ・シネマスコープで撮られた本作は、68年の制作。保存状態はあまり良いとは言えず、タイトルバックなどはかなりのノイズと歪みが見られましたが、何とも説明しずらい程に不条理極まりない本編に入ってしまえば、“大和屋ワールド”とも言うべき言葉をはねつけるような画面の連鎖に終始目を奪われっぱなしで、80分はあっという間に終ってしまいました。若かりし麿赤兒と大久保鷹の挑発的な出鱈目さ。我々観客の目は、最後まで欺かれていたような気がします。時間軸はずらされ、交わされる会話も要領を得ず、消し去るべき存在を二人の殺し屋が消せないどころか、エロティックな夢想の対象となったりする。いや、こんな説明は観ていない人にとっては意味不明でしょう。しかし、もう一度観れば比較的長めの文章を書けそうなくらい、濃密な映画体験なのです。タイトルバックにおける写真の使用法に始まり、鏡を用いた象徴的ショットや妙に図式的なショットの数々。それらは一見馬鹿馬鹿しかったりするので笑いを誘いもするのですが、そんな笑いにごまかされてしまうと、最後まで大和屋の実像を掴みきれないでしょう。『処女ゲバゲバ』といい本作といい、日本映画はこの時点でかなりのレヴェルに達していたことがわかります。大和屋、ひいては若松は、今なお恐ろしき存在だと確信させます。
続いてSKIPシティで開催されていた「国際Dシネマ映画祭2005」に参加するため川口へ。17:40開場でしたので、東中野から急いで向かいました。初めて降り立った川口駅でしたのでバス停の場所もわからず、やっと見つけ出したバス停の時刻表を見るも、バスが1時間に2本しか走っておらず、半ば絶望しかけながら何とかタクシーを捕まえ、1600円jかけて会場入りしました(ちなみに、この日の鑑賞代は600円です)。300人強入る会場の7割は埋まっていたと思います。それは恐らく、上映後のジャ・ジャンクー監督によるティーチインがあったからなのかもしれません。
『世界』は、まずDVで撮られた後、35mmにブローアップされての上映でした。ジャ・ジャンクーらしからぬアニメーションの導入に驚いたり、相変わらず繊細な演出に納得したりするうちに、2時間強の上映時間はやはり瞬く間に過ぎ去っていきました。かなり長いシークエンスショットを特徴とするジャ・ジャンクーですが、今回は比較的ショットを割った印象が。それでも、1つのショットは平均して長かったと思います。生まれ故郷から大都会・北京へとその撮影対象を移したジャ・ジャンクーですが、ある大きな“流れ”に流されながらも生きて行こうとする人物を見つめる視線は変わらなかったと思います。本作において印象的だったのは、“世界”という概念の相対性と言うか、何が“世界”か、という問題の描き方だったのではないかと。「世界公園」という実在する公園には、それこそ世界各地の象徴を目にすることが出来ますが、そこにあるエッフェル塔やピラミッド、ロンドンブリッジなどは飽くまで10分の1の大きさのフェイクでしかありません。それら“世界”と、登場人物が生きる“世界”の残酷なまでの差異。そこには曖昧な男女関係はおろか、職業的な問題から死ぬということまで、我々現代人が生きる上で避けては通れない問題が重ねられていくでしょう。
まぁここであまり書いてしまうと、映画短評のほうで書くことがなくなってしまうので、この辺でやめておきますが、今、ジャ・ジャンクーの新作という名目で『世界』を心待ちにしている人々の期待を、決して裏切ることの無い映画だということは確かかと思います。
というわけで、“充電期間中”のこの時期は、普段よりも映画を観る本数が減るとは思いますが、その分、一本一本のセレクトには力が入ります。すでに日仏での特集上映も、若松特集も見逃している現状で、今は週末に何を観るか、そんなことばかり考えています。こんな状況でも、やっぱり私の中では、映画がかなりの位置を占めているということです。
2005年07月27日 22:40 | 映画雑記, 悲喜劇的日常
>こヴィさま
マジですか!? 是非! 是非ください!! 後程mixiの方にメッセージします!
あ、それとコメントがダブってたので、削除しておきました。
Posted by: [M] : 2005年07月28日 09:31
うーむ、やっぱ激しく嫉妬! 若松は明日のラストの回に行く予定(結局これ入れて3本のみしか行けません)。大和屋はシネマアートンの時のトークショーの資料冊子余分にもらってきたので、差し上げましょうか?
Posted by: こヴィ : 2005年07月28日 02:52