June 08, 2005

映画短評<2005.5>

ウイスキー
映画には、その表情、いや、顔だけで画面を漲らせることが出来る俳優がいる。恐らく、曖昧にしか気付いていなかったこの事実を、この『ウイスキー』の3人の主役がはっきりと証明した。繰り返すことから生まれる笑い、観客との一定の距離、「ウイスキー」というの言葉……それがいくら“映画の辺境の地”から漏れ聞こえたかすかな声でも、聞き漏らしてはならない。ジャームッシュやカウリスマキの系譜だろうがそうでなかろうが、2人の監督は最低限の演技とアクションが作品をいかに輝かせるかを知っている。モンテビデオのシネマテークがそれを教えたということが、彼ら二人の正当性を控えめながら雄弁に物語っている。
本作のラストシーンの物悲しさを観て、そのあまりの“ラストシーンぶり”に溜息が漏れた。

ハイド・アンド・シーク -暗闇のかくれんぼ-
どこが“感動系”なのか? などと大人気ない言いがかりは自粛する。もちろん、そのような宣伝の煽りに私が“釣られた”わけではないが、このコピーの弱さは、“感動”という言葉を、“涙=叙情性”という一義にしか捉えていない部分であって、映画における“感動”とは、決してそれに留まるものではないにもかかわらず、未だ人間の“弱さ=涙”に訴えようとしているさもしさにあるのではないかと。
実際、私はダコタ・ファニングが常軌を逸しつつ「チャーリー! チャーリー!!」と叫ぶ場面に“感動”したが、それは文字通り“心が揺さぶられた”という意味において“感動”したのであり、それ以外で、本作のいかなる部分にも涙を流すことなど無く、いや、その予兆すら感じられなかったという事実。これは単に、私が鈍感なだけだろうか?

隣人13号
冒頭の小栗旬による“あえぎ声”には確かに虚をつかれ、その先を期待させたが、蓋を開けてみれば鑑賞後私の脳裏に浮かんだのは、先の期待とは何の関係もない次元で、「新井浩文は素晴らしい」ということだけだった。この映画は、それでよかったのかもしれないが、好意的にみても、それが刺激的な映画体験だったとは言い難い。

ピンクリボン
中学生だったか高校生の頃、ある映画狂の友人がいた。その友人は、既にかなりの本数のアダルトヴィデオは観ているけれど未だピンク映画など観たこともない私に、やれ若松孝二がどうだとか、曾根中生は必見だとか熱く語ってくれた。彼はピンク四天王を知らなければ今後映画を好きなんて言わせないぞ、とでも言いたげに「ピンクヌーヴェルヴァーグ」(ワイズ出版)という書籍を貸してくれた。正直言って目から鱗だった。私の中で、ピンク映画と大文字の「映画」とが完全一致した。しかしその当時、ピンク映画はそう簡単には観られなかった。そして数年後、遂に神代辰巳を“発見”した。若松孝二も黒沢清も、その延長上にあったように思う。そこには笑ってしまうくらいの“自由”があって、それは初めてゴダールを体験した時の感覚に近かったかもしれない。
そんな強烈な体験をしたものの、しかし、今それなりに映画を観ているにもかかわらず、ピンク映画を観る機会がほとんど無い。いつだって後追いで“発見”しているという歯痒さはなかなか消えない。そして私と似たような体験をしている人は、結構いるのではないか、と思う。
『ピンクリボン』は、そんな人達に深く刺さるだろう。映画とは、図々しいくらい強靭な人間でなければ創れない代物なのだ。そしてピンク映画とは、その“強靭さ”とほとんど同義なのだから。

美しい夜、残酷な朝
フルーツ・チャン、三池崇史、パク・チャヌク。映画好きであれば、誰もがこの3人のコラボレーションに絶大な期待を寄せずにはいられないだろう。3人の監督から成るホラーオムニバスと言えば、今から38年も昔に制作された『世にも怪奇な物語』というフランス/イタリア映画があった。60年代当時のロジェ・ヴァディム、ルイ・マル、そしてフェデリコ・フェリーニと前述の3人の映画史的位置付けを、ここでは問わない。方やエドガー・アラン・ポーの原作を描き、方やラフカディオ・ハーンの原作に想を得たオムニバスであるこれら2本のオムニバスだが、より“怖かった”のは遠い記憶にある『世にも怪奇な物語』だった。ただし、『美しい夜、残酷な朝』はどうもホラーという範疇に収めづらい作品なので、たまたま似た構造を持っているからと言って、比較すべきではないのかもしれない。
3作品はどれも面白かった。やや理解を超える演出が印象的だったチャン、いつに無く静謐さを押し出した三池、相変わらず復讐の二文字が作中に漂うチャヌク。1本を選べと言われればやはりチャヌクだが、それも好みの問題だろう。それぞれが堂に入った、危なげない中篇だったと思う。

PTU
ジョニー・トー初体験である。そのフィルモグラフィーを見ると、頼まれればどんな作品でも作ってみせるのではないかという意味で、リチャード・フライシャー的な面白さを期待したが、果たして、この『PTU』はなかなかいい感じで、冒頭の食堂における視線のサスペンスはこれぞ香港映画という醍醐味を味あわせてくれたり、そうかと思うと、まさか冗談だろうと思うような漫画的描写で呆気にとられたり、北野武ばりの平手打ちに不意打ちを喰らったかと思えば、ラストの銃撃戦がこれが物語のクライマックスかと疑問に思う程に出鱈目な仰々しさで満ちていたりと、短い上映時間内を何だかんだいいながら楽しんでしまったのであり、結局はジョニー・トーという監督への興味が十二分に高まるに到った、と。
今年はカンヌに出品していたらしいが、今後はちょっと目が離せない存在である。あの意図的であろう“ズレ”がどのような効果を生んでいたのか、あるいはいないのか、とりあえず『ザ・ミッション/非情の掟』をはじめとした旧作を観てから判断したいと思う。

June 8, 2005 12:05 AM | 作品(短)評
TrackBack URL for this entry:
http://www.cinemabourg.com/mt/mt-tb.cgi/413
Trackback
Comments
Post a comment









Remember personal info?