May 08, 2005

映画短評<2005.4>

■香港国際警察
ジャッキー・チェン作品を自らの映画的ルーツに持つ私にしたところで、もはや50歳を超えた彼に『ポリスストーリー』を超えるアクションを求めてしまうことは自粛すべきなのかもしれない。人間は衰える、この当たり前の事実は、世界のアクションスターに対しても容赦なく襲い掛かるのだ。思えば『レッド・ブロンクス』あたりから、それは顕著だったのかもしれない。しかし、だからと言ってジャッキー・チェンを決して見放そうとはしなかったのは、何故だろう。かつて映画に目覚めさせてくれたことに対する、一種の情のようなものであろうか。いや、そうではない。むしろこの問題は、私の人生にも直結した、極めて重要な問いかけである。自分は映画に対し、いったいどの程度の寛容さを持ちえているであろうか?
本作でジェッキー・チェンは、そのアクションよりもドラマに重点を置いている。あれほど悲壮感漂う彼は『ファースト・ミッション』以来だと思う。しかし『ファースト・ミッション』と決定的に異なるのは、もはや体があそこまで動かないという深い諦念ではないか。事実、『香港国際警察』には、ジャッキー・チェンのある決意が感じられた。それは彼の映画への愛に等しい。
『インファナル・アフェア』に似たクライマックスシーンを観て軽いショックを隠せなかったとはいえ、本作を支持したい気持ちに駆られるのは、映画人としてのジャッキーチェンの決意を感じ取ったものの義務だと思う。そして今後も私は、ジャッキー・チェン主演の“香港映画”に対し、ある種の寛容さを抱き続けるつもりだ。

■フライト・オブ・フェニックス
リメイクである『フライト・オブ・フェニックス』とオリジナルの『飛べ! フェニックス』の間には、いくつかの変更点がある。いや、物語の骨子以外はほとんど別物のような気さえする。そこには現代のハリウッドが要請するいくつかの力学が働いているのだろうし、だからこそリメイクはやはり難しいと改めて考えざるを得ないのだが、それでもこの全く話題にもならないハリウッド映画を積極的に貶める気にはなれない。
残念なのはキャストの人選で、アーネスト・ボーグナイン的な人物を登場させず無意味に女性を配置してみたり、ジョヴァンニ・リビシは検討していたと思うが、全体的に年齢を若返えらせたのは失敗だったのではないか。アルドリッチ的な遊戯性は、中年の幼児退行的行動の内にこそ発揮されるような気がするのだ。
上映時間が短縮されたのが唯一の救いだったというのが何とも寂しいが、新ためてアルドリッチの偉大さを確認できたという意味で、やはり観る価値はあると思う。

■コンスタンティン
『コンスタンティン』には何があるか。そこにあるのはまず“無邪気さ”であろう。それはあらゆる新人監督が持っているであろう“野心”とは別種の、“臆面の無さ”である。時にそれは奇跡的にプラスに作用するが、全体を通してみれば、かなり壊滅的な出来ばえとして映る。
ただし、レイチェル・ワイズの体を張った演出は大いに評価したい。彼女は本作で、美貌に加わる“何か”を獲得したように思う。

■愛の神、エロス
ウォン・カーウァイの「若き仕立て屋の恋」は、60年代の香港(←5/9訂正)を舞台としている。『花様年華』以降に漂う“エロティックなムード”は、愛=エロスを主題とした本作でも踏襲している。本作は鏡を、別の世界への入り口として効果的に機能させているが、そこに映る世界は触覚不可能であるという事実を通じて、逆説的に触覚によるエロスを浮き上がらせる。コン・リーによる愛撫は言うまでもないが、肉体を持たない衣服をまさぐり恍惚とするチャン・チェンの表情に、それが端的にあらわれていた。エロスとは観念でなく、常に触覚可能な何物かでなければならないのだ。
ミケランジェロ・アントニオーニの「危険な道筋」においても、それは変わらない。あの2人の肉感的な裸体が何よりの証左である。
尚、スティーブン・ソダーバーグの「ペンローズの悩み」をここで取り上げない理由は、もちろんまともに観る事が出来なかったからなのだが、裏を返せば、エロスを前に、限りない抽象性の彼方へと逃げざるを得なかったソダーバーグと私との、決定的な断絶にこそ認められるだろう。

■アビエイター
『アビエイター』にはいくつかの美点がある。それはまず、レオナルド・ディカプリオの“演出”やケイト・ブランシェットの“形態模写”など、俳優陣の輝きに見出せるだろう。あるいはかなり苦労したであろう飛行機事故のシーンは、実に映画的な魅力に溢れていたとも言える。飛行機のボディをエロティックな対象として撫でたり、牛乳ビンを介した間接的な接吻にハワード・ヒューズの“接触の魅惑と偏執”を重ね合わせたりする描写も個人的に嫌いではない。
だが、この決して悪くは無い映画を、傑作と断言できないのは何故だろう。その理由を、スコセッシ自身に求めるべきときが、今来ているのかもしれない。
いったい何が何だかと理解に苦しんだ、あの『ギャング・オブ・ニューヨーク』に比べてかなり良い出来であるという理由で、この作品を賞賛することは容易だが、この大のつく程の力作を前に私が感じたのは、しかし、軽いショックだったと言わねばならない。
『アビエイター』は私にとって、良作ではあるが傑作ではない。そんな映画は世界に山ほどあるが、それがスコセッシの作品であるが故に、あるいは今抱いているような複雑な心境になってしまうのだろうか。

■海を飛ぶ夢
ハビエル・バルデムは、ほとんど“変身”とも言うべき凄まじい変貌ぶりを見せてくれた。その主題的に、いくつかのシーンでかなりの叙情性を感じざるを得なかったが、それに勝るとも劣らないほどのテクニック(何を見せないかという問題に対する対処)には感動した。
ところで、ハビエル・バルデムが抱えていた“闇”とはいったい何だったのだろうか。彼は何故、海に飛び込んだのだろう。それは物語後半に発覚する、彼の詩作の才能にも繋がる重要なファクターだったと思うのだが。またはあの服毒シーンを、何故ワンショットで見せなかったのか。あのクローズアップの強度から言って、ハビエル・バルデムはそれに耐え得ることが出来たはずだ。このような疑問が浮かぶにあたり、この適度に残酷な物語が、より徹底して残酷であったならと、思わずにはいられない。しかしながらそれでも、本作は今後もアレハンドロ・アメナーバルを見続けねばならないという、一つの方向性を与えてくれた。

■バッド・エデュケーション
デビュー当時、ペドロ・アルモドバルに“アブノーマルな作家性”を感じ取った人々が、ここ何作でそれが微妙に薄められてしまったという見解を目にするが、それは本当だろうか。いや、私自身、それを否定することは出来ないのだが、彼は本当にそれほど“アブノーマル”だったのだろうか。
かつて、澁澤龍彦がルイス・ブニュエルの『昼顔』に対し「やんぬるかな、ブニュエル神話くずれたり!」というような感想を記していた。澁澤は『昼顔』を観て、彼の“永遠のスキャンダリスト、暴力と反抗の不屈のシネアスト”という作家性が年齢と共に衰えてしまったのではないかと言う。実はこれに対する結論も未だに出せずにいる私だが、特にアブノーマルではない『バッド・エデュケーション』を観て思うのは、澁澤がブニュエルに対して抱いた思いの正当性を、今こそ検証してみなければならないということである。アルモドバルは、本作で自分の歴史を描いてみせた(らしい)。そこには重要なヒントが隠されていると思うのだが、やはり、彼の初期作品を観直した上で、再度考えてみなければならないと思う。
今、本作に関して一つだけ言えるとすれば、アルモドバルの美的センスは好みであるということだけだ。アルモドバルは本当にアブノーマルだったのだろうか?



May 8, 2005 12:55 AM | 作品(短)評
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Comments

>こヴィさま

mixiの評、読ませていただきました。ソダーバーグを“薄っぺらい”と評した貴兄に、心から賛同の意を。

ところで、私は何を勘違いしたのか、カーウァイ作品の舞台を「30年代上海」などと書いてしまいました。これは「60年代香港」の間違いですね。訂正します。

アルモドバルが失ったと思われる“何か”ですが、このくらいメジャーな存在になってしまうと、多かれ少なかれ浮上する問題だと思います。もはやベテランの域に達した段階で自らの出自を振り返るような作品を撮ったこと、前2作品の位置付け等、考えてみたい問題ではありますね。


Posted by: [M] : May 9, 2005 10:29 AM

『エロス』今日観ました。[M]さんにように冷静に書けなくて恥ずかしいです(笑)。『海を飛ぶ夢』は観たいと思ってます。アルモドバルは、前々作と前作で得た“真っ当”な評価の代償として、なにか失ってしまったものがある気がします。今作の自伝的テーマを取りあげられるようになったこと自体に鍵がありそうですが、それが何なのか私も初期のを観直したいと思っているところです。


Posted by: こヴィ : May 9, 2005 03:03 AM
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