2005年04月18日

私信〜ナショナルアンセム』によせて〜

※下記の文章は、私の友人である映画監督に寄せられた私信です。その監督のデビュー作である『ナショナルアンセム』を観ていない方には、全く理解不能なテクストだと思われますが、あるいは逆説的に、『ナショナルアンセム』を観たいという欲求を喚起させることが出来れば、この場に掲載した意味もあるというものです。


西尾孔志(イカ監督)様

拝啓

あらためまして、「第一回 フィルムエキシビジョン in OSAKA(CO2)」グランプリ獲得、おめでとうございます。初めてお話させていただいただいて以降、貴兄の“二面性”にはただならぬものを感じていましたが、私の予感はどうやら間違ってはいなかったようです。思えば、私がmixiを始めたばかりの頃、最初にマイミクシィに登録させていただいたのが縁で、今回はこうして貴兄のデビュー作『ナショナルアンセム』のヴィデオまでお贈りいただきまして、感謝とともに深く感動しております。以下に記されることになる、若干長い文章をそのままお礼に代えさせていただければと思います。

さて、とは言って見たものの、『ナショナルアンセム』は私の想像をはるかに超えた、何とも形容しがたい作品だったと言わねばなりません。インディーズ作品と聞いた瞬間、まずはピンク、次にドキュメンタリーというジャンルを直ちに思い描いてしまう私のような通俗的な人間にしてみれば、この“不条理な恐怖に彩られた人間ドラマ”をどのように咀嚼すべきか、本来であればわざわざヴィデオまでお贈りいただいたのですから、同年代の一観客として貴兄に親しみをこめた賛辞の一つでも申し上げたいところですが、貴兄には数倍劣る一介の映画好きとしては歯痒い思いを禁じ得ません。

そのような状況でしたので、当初この文章は、監督への質問を事前にさせていただいた上で、インタビュー形式にしようかとも思っていたほどです。それが本作を理解する上で、最も有効な手段であり、貴兄への感謝足りえると思えたのですが、全く私の怠惰ゆえにそれが実現できそうにないと思い、このような形で作品を論じることになりました。その点、ご了承いただければと思います。

ところで、黒沢清氏は『ナショナルアンセム』にこのような賛辞を送っています。

いたるところに才気がみなぎっている。それでよくぞ100分を持たせた。いいと思う。

彼らしい簡潔で力強い賛辞だと思いますが、実は、私の率直な感想も、ほとんどこれを超えるものではありません。恥も外聞も捨て「全くその通りだ!」とだけ叫べば、あるいは貴兄にも伝わるのかもしれませんね。しかし、それではこれまで何のためにこのブログを続けてきたのか分からないというものです。ここはやはり、無理矢理にでも貴兄に私の思うところを伝えねばならないだろう、今はそのような心境です。

そもそも『ナショナルアンセム』という題名は何を意味するのでしょうか。それを文字通り“国歌”と受け取って良いものか、監督はいかなるメタファーとしてこの言葉を選んだのか、そんなことを考えつつ観始めると、冒頭のテロップに次いで、ある口笛が聞こえてきます。それは不気味と言うほか無いなんとも陰惨な音色で、もちろん、これまでに聞いたことのない曲です。それは同時に、物語に大きく関わってくる重要な音だとも気づかせるのですが、だからといって、その口笛がそのまま“ナショナルアンセム”だったのかどうかは、今もって結論できずにいますが、一つだけ言えるのは、ラスト近くに登場する、あのぶっきらぼうに書かれたマニフェスト“宣言 我々は一人ずつが世界と戦う国家である”と深く関係しているということでしょうか。物語の最終局面で始めて登場する“国家”という言葉。国家と国歌。深読みしようと思えばいくらでも出来ますが、ここでは結論を出さず、先に進めます。

まず導入部がいいですね。状況を説明する字幕は、これから死ぬであろう男の死を予め告げてしまっています。よって、その事件自体に特に驚くわけでもなく、事実だけがただそこにある、といった感じがしました。このシーンで、あの男が車道に飛び降りて死ぬ瞬間をあえて見せなかったこと。後述しますが、本作は終始そのような展開で進んでいきます。そこから控えめなタイトルが表れるまでに、口笛に次いでもう一つの重要な音である「とおりゃんせ」が流れてきますが、あらゆる映画の、とりわけ、本作を一応便宜上“ホラー”とするなら、ホラー映画のオープニングがいかに重要かを、貴兄は流石に心得ていらっしゃる。作品全体のトーンは、ファーストシークエンスで宣言されるもので、『ナショナルアンセム』はそれに概ね成功していました。まずはその部分に驚きましたね。それどころか、実は、『ナショナルアンセム』は最後まで“驚くことばかり”でした。それはいかなる部分だったか、いくつかのレヴェルで説明したいと思います。

まず挙げられるのは、カメラの位置(構図)と動きです。
仰角と俯瞰、そして近景と遠景。フィックスとパン。そしてトラヴェリング。『ナショナルアンセム』では、こうしたカメラ技法がふんだんに盛り込まれています。とりわけ、貴兄は俯瞰とロングショットにこだわっていたように思うのですが、いかがでしょうか。
最初の殺人が起こる場面を思い出してみると、あるマンションの一室から、カメラはゆっくりゆっくりと窓に向かって進んでいきます。そして、階下の公園にいる親子を確認できたとき、すでに口笛を聞いて“感染”してしまった男が歩み寄っていく。かなりロングで見下ろされた親子は、やはり死なねばならないだろうなと瞬時に思ったのですが、案の定、男は持っていた傘で母親の頭を殴るのです。それをロングの俯瞰で見せることで齎される、あの“とぼけた”空気感。全くあれには舌を巻きました。
構図へのこだわりは全編を通して一貫していますが、際立っていたのは、独特の遠近法です。画面の奥行きを生かした演出は、特にあの姉妹に絡む場面(室内・川原・土手)で発揮されていたように思いますが、デビュー作といえど、この遠近法が生み出す効果を相当計算されたのではないでしょうか。
もちろん、昨今のジャパニーズホラーの定石ともいえるパンを最大限に生かした演出(特に風呂場で姉と思しき亡霊が妹を覗き込む場面)にも素直に驚いたと言わねばなりません。それがたとえどこかで観たような仕掛けでも、やはり恐ろしいものは恐ろしいのだという自信のようなものが伝わりました。よくぞあのシーンを、ワンシーンで撮り終えましたね。

さて、“どこかで観たような”、という話が出てきたところで、やはり本作がいかに映画史的記憶の宝庫であるかを指摘しなければならないでしょう。この1時間40分の作品内に、いったいどれ程の映画史的記憶が溢れていたことでしょう。誰もが指摘するであろう黒沢清は言うに及ばず、私が気付いた直接的・間接的引用だけでも、北野武、青山真治、中田秀夫、清水崇、鈴木清順、熊切和嘉等の曲者に加え、ジョージ・A・ロメロやトビー・フーパー、ウィリアム・フリードキン、そしてジャン=リュック・ゴダールまでもが総動員されていたように見受けられました。そして驚くべきことに、それらはある一定のトーンで制御されながら画面に顔を出しているのです。これを荒唐無稽と言わずして、なんと言いましょうか! この事実に驚愕せずにいることは、いくら一介の映画好きであるわたしにとっても不可能でした。まさに、映画史的記憶の勝利だと、他人事ながら狂喜乱舞してしまいました。とはいえ、これは私の思い込みに過ぎないかもしれませんし、貴兄としては故意に模倣したのではなく、結果として似てしまっただけだと主張されるかもしれません。しかしそれはこの際どうでもいい話です。画面に表象された映画作家たちの痕跡を観て、観客である私が幸福だったという事実以外に、ここで言うべきことはないのですから。その意味で、本作は確かに観る者を選別する作品であると言ってしまうと乱暴すぎるでしょうか。しかし、過去に誰かがいったように、あらゆる表現はやりつくされているのです。となれば後は、作家にどれだけの映画史が刻まれているか、日々産み落とされる映画作品の差は、その点にしか認められないのかもしれません。歴史を体(目)で吸収すること、常々思うのですが、新しさとは、もはやそのような地点からしか生まれないのだ、と。

閑話休題。しかしながら、私が手放しで『ナショナルアンセム』を絶賛しているかといえば、その問いかけにはいささか表情を強張らせねばなりません。本作においては、“音”に対する繊細な感性が幾分か欠けていたのではないかと思うのです。それは、画面のそれに反して、人物の会話における遠近感の欠如として端的に表れていました。そこには録音における技術的な困難さがあったのだと推測出来はするものの、やはり残念というほかありません。人物の声に関してさらに言えば、これは専ら演出に関わる事だと思いますが、およそ抑揚を欠いた発声に違和感を感じざるを得なかったのもまた事実です。仮にその演出が、ブレッソン的な禁欲主義から考案された厳しさだったとしても、私にはそこまでの強度が感じられませんでした。無論、プロの役者などほとんどいなかったのかもしれませんし、例えば、『神田川淫乱戦争』に登場していた人物だって似たようなものだったと指摘することも不可能ではありませんが、本作のようにある重要な役割を与えられた登場人物が比較的多い場合、どうしても台詞とそれを発する人物の演出に、たとえインディーズだからといって目を瞑るわけにはいきませんでした。それでも、刑事役の男性と、俳優として出演していた貴兄の演技は、決して悪くなかった思います。

さて、まさかここまで長文になろうとは思っていませんでしたが、生意気ついでにあと少しだけお付き合いください。これから述べることが、恐らく最も強く主張しておきたいことなのですから。
先にホラー映画という位置づけをさせていただいた『ナショナルアンセム』ですが、正直に言えば、この映画は全体を通した印象として、およそジャンルというものを悉く崩壊させていく画面の連鎖から成っているのではないかと思うのです。ジャンルとは、映画を観るにあたり、観客が安心するための目に見えない装置です。安心と言って悪ければ、共通認識のための装置とでも言いましょうか。それが『ナショナルアンセム』には、無い。
何かが起こり、そこにしかるべき原因が認められるとき、人はそれまでの経験と記憶を頼りに多少なりとも事件を理解した気になるのですが、目の前で起こった出来事が、ほとんど不条理な、こちらの了解をことごとく溶かしてしまうようなことである場合、人はうろたえるでしょう。
これを映画に転化させて考えれば、これは人を怖がらせる映画だろうとか、人を笑わせる映画だろうとか、あるいは、人に緊張感を強いる映画だろうとかいう、ジャンルに基づいた思考回路は、そのどれでもない作品を観たとき、うろたえるしかないのです。少なくとも、私はうろたえました。たとえそこに多くの映画作品を読み取ったところで、こちらの思いはいちいちずらされていく。それは一歩間違えば、観客によって“失敗作”という烙印を押されかねず、“下手糞!”という野次と共に記憶から消えていく運命にもなりかねない、危険な賭けです。しかし、『ナショナルアンセム』はどのようにしてか、それを免れていると思いました。では、いかにしてそのような事態を免れているのか。

『ナショナルアンセム』に認められる最も顕著な特徴、それは“決定的瞬間の廃棄”と“超現実主義的描写”の微妙なバランス感覚です。尋常ならざる事態が着実に世界を蝕んでいくという切羽詰った状況にもかかわらず、確実なことが何一つ描かれない。だからと言って、確実なことなど何も無いのだ、という強い意思すらも感じられません。ただ“ある”かただ“無い”のどちらかなのです。それぞれの描写はある行為が完結する前に唐突に断ち切られ、観客が理解しようとするギリギリのところで流産する。そこにあるべきショットが無く、変わりにありえないショットが挿入されたりもする。しかし、ショット同士の繋ぎは高度で、説話自体が破綻しているわけでは決してない。まったく、こう書いていても、自分で何を書いているのか分からなくなってくる程です。
観客が、これまでの経験と記憶から、そうあってほしいと願い予想しうるショットなど一切無いと言えます。しかし、それを観ている以上、何かを想像せずに観る事など出来ない。この堂々巡りの内に、しかし、物語は唐突に終焉へと向かうのです。ラスト20分のあんな展開など、一体誰が予想しえたでしょうか。もはや、死んだはずの人間が生きていたところで驚きはしない地点に、観客はワープさせられるのです。看護婦がバイオリンにあわせ、カメラの前で一心不乱に踊り狂う様を見たところで、それを出鱈目だと断罪出来る健全な思考など、もう残ってはいないのです。暴力は暴力にあらず。死もまた死にあらず。愛もまた愛にあらず。何かがあるが、何もない。これ以上荒唐無稽な映画に、私は果たして、出会ったことがあったでしょうか。

ここで前言を覆さねばなりません。『ナショナルアンセム』は、危険な賭けに負けることを免れているというより、勝敗とは別の場所に位置しながら、観客を挑発しているのです。その挑発に乗ったが最後、貴兄は誰よりも不適な笑みを浮かべながら、口笛を吹くことでしょう。その音色こそが、『ナショナルアンセム』なのです。

以上、果たしてお礼の言葉足りえたかどうかわかりませんが、未熟な文章力ゆえ、大目に見ていただければと思います。『おちょんちゃんの愛と冒険と革命』の東京での上映、楽しみにしております。監督の舞台挨拶はともかくとして、その機会に何とかお会いできれば、それに勝る喜びはありません。

2005.4.18
[M]

2005年04月18日 23:19 | 邦題:な行
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Comments

>監督殿

この長い文章を読んでいただき、ありがとうございました。貴兄への感謝と、遂に海外に進出されたことに対する心からの賛辞があいまって、このような長文にさせたのだと思います。

それにしても、私は完全に誤解していたようですね。
以前mixiで拝見した写真から、あの人物を貴兄だと思い込んでいました。しかし、チョイ役とはいったいどのシーンに出ていたのでしょう?

さぞかし現場は大変だったでしょうね。カメラも音も照明もたった一人でやることの困難さなど、私のような素人には想像すら出来ません。

>決定的瞬間の廃棄、は低予算映画の場合、選ばざるを得な>い選択肢で、そこを褒めて貰えたって事は中々上手く誤魔>化せたなと(笑)

なるほど。しかしこれはかなりいい効果をあげていたように思われます。監督の編集には本当に感心しました。

本作で「シネフィル卒業」とのことでしたが、それを聞くとなおさら『おちょんちゃん』や今後の作品が楽しみです。とにかく6月の上映には駆けつけますので。

長々と失礼しました。


Posted by: [M] : 2005年04月21日 12:18

ふ〜〜〜。
一気に読んじゃいました。
凄いですね!
自分でも「ああ、そういう事だったのか!」と気付かされました。

>。『ナショナルアンセム』は、危険な賭けに負けることを免れているというより、勝敗とは別の場所に位置しながら、観客を挑発しているのです。

素敵な一文ですね。ありがとうございます。


音に関しては、現在、直そうと計画中です。
あと、僕はチョイ役で顔を出してるだけで、
おっしゃてる方は渡辺という役者です。
彼は『おちょんちゃん』にも重要な役で出ています。

カメラはほとんど僕が回してます。つーか、だいたい現場スタッフは僕一人です。だから録音まで手が回らず、おとついもプロデューサーから音やり直したら商品に出来ると言われました。

決定的瞬間の廃棄、は低予算映画の場合、選ばざるを得ない選択肢で、そこを褒めて貰えたって事は中々上手く誤魔化せたなと(笑)

この映画は自分にとって「シネフィル卒業」というテーマがあり、ジャンルのこだわりやオマージュなどはここでやりたいだけやろう、その代わり、結果的にははみ出してやるぞ!と思って作ってます。

その気概を感じて貰えれば嬉しいです。

ありがとうございます。
               西尾


Posted by: イカ監督 : 2005年04月20日 22:38
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