2004年11月24日

『変身』は“変”であることを最後まで止めない

変身恐らく誰もが一度は目にしたことがあると思われる、フランツ・カフカによるあの有名な一節で始まる「変身」。何故という言葉が通用しないのが不条理の世界であるなら、全く不条理と言うほか無い物語だと一先ずは言えるでしょう。理由もなく巨大な虫に変身してしまうグレーゴル・ザムザは、しかし、人間性を失っているわけではないので、その点がより一層、この物語を荒唐無稽にしているのです。いや、荒唐無稽というよりはもっとシンプルに“変”な映画、ワレーリイ・フォーキン監督の長編処女作である『変身』を観た後、この“変”という言葉が真っ先に浮かびました。こんな経験は、これまで何回あったのか自分でも思い出せません。
この印象はもちろん、映像のみに終始しません。その音もまた“変”です。いささか気味が悪い効果音と弦楽器による神経に障るBGM。わかりにくい描写はそれほど無いし、どちらかというと大げさな演技をする舞台俳優のリアクションも極めてわかりやすいと言えるのですが、それでもやっぱり最後には“変”だという思いからは逃れられないのです。

『変身』という映画は、全体を2つに分けて考えることが出来ると思います。一つは、グレーゴル・ザムザのいる現実世界、そしてもう一つは、彼が見る夢(幻)的世界です。それら2つの世界はそれぞれ、“雨(水)”と“陽光”のイメージを結んでいたような気が。実際、『変身』には雨が降るシーンが多いのです。
どしゃ降りのプラハ駅に、黒く巨大な機関車が画面手前に向かってゆっくりと到着するというファーストシーンは、左から右に、やはりゆっくりとパンするカメラがその列車の到着と同時にその動きを止めます。列車から降りてくる何人かの男たちは、ルネ・マグリット的な山高帽をかぶっていて、その中の一人であるグレーゴル・ザムザもまた時代がかった衣装を身に纏い登場します。唐突にカメラ(観客側)を真正面から見つめるグレーゴルのアップに画面が切り替わったかと思うと、またもや時間をかけて、今度はズームダウンしていく。そしてグレーゴルの全体像を捉えきったあたりで、彼は思い出したように(!)大げさな演技を開始するのです。
冒頭の数シーンをこのように記してみて思うのは、頭の中にあるこれらのイメージの“奇怪さ”など、私自身の貧しいボキャブラリーではとても表現しきれないという確信のみです。“変”です。何かがおかしい。

『変身』において、観客は決して“変身”する場面を目にすることがありません。ということはつまり、我々が勝手に思い描く巨大な虫なるもののイメージとそれに伴う“変身”シーンは、予め排除されているのです。観客が事前に描いてしまうであろう恐ろくグロテスクな虫などそこにはなく、グレーゴルは最後まで所謂“人間”としての姿を保ち続けます。よって、原作に存在した途方も無い虫に関する具体的な特徴、すなわち、“甲羅のように堅い背中・こげ茶色をした丸い腹・かぼそい無数の脚”等の説明(モノローグ)はなされることがありません。見た目は全くもって人間でしかないのですから、それも当然でしょう。エヴゲーニイ・ミローノフの驚くべきパントマイムは、手足の指の動きだけでその“虫”ぶりを表現していて、観客に彼を“虫”だと信じ込ませることに成功していると思うのですが、それでもやはり、彼は最後まで人間としての姿を裏切ることはないのです。
この予想外のアイデアを、私は優れて批評的だと思います。観客の意識に潜む“他者を見る目”を予め暴き立てているという意味で。グレーゴルが“変身”したという“事実”は実際には彼自身にしかわかっていないことで、人間の姿をしながら虫のような動きをしているだけのグレーゴルを、しかし、虫だと断言しようとしてしまう彼の周囲と我々観客は、言ってみれば共犯関係にあるような気がするのです。あの哀れな人間を見て観客がどう感じるのか。監督は、その辺りに鋭い視線を投げかけているように感じました。
にもかかわらず、まるでコントとも言える程に大仰な周囲の人間の反応の滑稽さときたら! グレーゴルを発見した瞬間に彼らは、飛び上がらんばかりに恐れおののくのですが、あの人を食ったような超スローモーションにより、グレーゴル以外の人間はあまりに滑稽に描かれているのです。ほとんど冗談かと思われるようなあの動きもまた、グレーゴルに劣らず非常にグロテスクだったといえるでしょう。

『変身』のラストシークエンスは私にとって非常に難解でした。
唯一グレーゴルのことを虫呼ばわり(ゴキブリなどの固有名詞は彼女以外の人間からは発されることがないのです)した女中が彼の死を発見するのですが、その後に続くラストシーンで、彼はまさに2本足で直立した人間(虫となった彼は常に4足歩行でした)として登場するのです。彼が死んで幸せそうな家族を見守りながら…あのシーンは、先に述べた分類で言えば、夢(幻)的世界だったのでしょうか。そうに違いないと思いたいのですが、この“変”な映画は、そういった指摘をいちいち曖昧にしつつ、私の結論をその都度先送りにし続けるのです。

2004年11月24日 13:04 | 邦題:は行
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Comments

>哲人30号様

こんばんは。確か『コラテラル』評のほうにもコメントいただきましたよね。

おっしゃるとおり、あの虫を想像せずに原作を読んだ人間などいないでしょう。その意味でこの映画は衝撃的だと私も思います。

残念ながら『城』は読んでおりません。が、ミヒャエル・ハネケによって映画化された作品は観てみたい気がします。
舞台で新たな発見があるといいですね。


Posted by: [M] : 2005年01月01日 22:55

はじめまして。随分前に映画は観たのですが、今更ながらコメントさせていただきます。
今回の映画化での最大の収穫は「変身」していないグレーゴルを見た事に尽きます。カフカは好きで何度も読んでいたのですが、外見上の変身をしていない姿を想像して読んだ事は一度もありませんでしたので。
今月はカフカの『城』を芝居にしたものを観に行く予定です。また新たな見方を得られるかと少し期待しています。


Posted by: 哲人30号 : 2005年01月01日 19:25

ワカさん、こんばんは。
迷っていらっしゃるようですが、一見の価値はあるかと思います。ただ、宮本亜門の動きを見ていないので、もしかすると、それとダブってしまうかもしれませんね。
でも、プラハに行かれたなら、やっぱり観てみたいでしょう? 映画と旅、これがシンクロしたときの感動を、私も知ってますから。


Posted by: [M] : 2004年11月24日 23:51

Mさんこんばんは〜
「変身」は興味あるんですが、行く決心がつかなくて
ますます、どうしようかな?
でも、どしゃぶりのプラハ駅のファーストシーンは、そそられます。一度だけ行った事があるプラハがお天気が悪く、カフカ通りっていう雰囲気のある場所が印象的だったので、そこだけでも観たいかも!
以前お芝居でも「変身」を観た事があるのですが、
主演の宮本亜門が何とも言えない体の表現をしてました。


Posted by: ワカ : 2004年11月24日 22:23
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