2004年10月13日

『イズ・エー』、映画とモラル

イズ・エー時計の針が時を刻むシーンがクローズアップで撮られる場合、それが“残された時間”を強調することになるのは映画史的に見てもほぼ明らかです。本作における文字盤のクローズアップも、“時限爆弾が爆発するまでの残り時間”をこそ強調するため、であればこそ、これも常套ですが、「カチッカチッ…」という音がそのシーンに律儀に被さることになるのです。あるいはその“残り時間”とは、犯人の少年に訪れるであろう“しかるべき”結末に至るまでのそれだったのかも知れません。

『イズ・エー』において、爆発する瞬間はその“音”だけで表現されていました。2回目の爆発ではビルの一部が吹っ飛ぶシーンも観られましたが、それは第二波としての爆発であって、最初の爆発はやはり、“音”によって示されているのです。
何を“省略”して、何を“見せる”のか。本作が長編第一作目となる藤原健一監督は、その問題に意識的だったのではないかと思います。何かを省略することも何かを見せることも、この劇映画においては等しく積極的な役割を果たしていたのではないでしょうか。

『イズ・エー』というタイトルにはどんな意味が込められているのでしょう。主語に相当する何かを欠いたこのタイトルに惹かれて映画を観た私にとって、この問題は非常に興味深い。作品のテーマから類推すれば、Aとは犯人の少年を指すことは間違いないでしょうが、匿名の少年犯罪者と解することも出来ます。だとするなら、“○○ is A”の○○に当たる部分に相当するのは、what、who、whyなど、A(少年犯罪者)に対する数々の疑問詞ということになるのではないか、これはあくまで私の考えです。一体どうしてそのような犯罪を犯すことになったのか、何故他の少年ではなくAなのか、そもそもAとは何なのか? 現在、少年犯罪が起こるたびに持ち上がるこれらの疑問。しかしながら、そんなことは問題ではないとでも言うように、このタイトルは曖昧なままです。恐らくこの映画における問題は、残された人物(被害者の父であり加害者の父でもある)に視線を向けることによって見えてくるものに存しているのです。

ラストシーンは様々な意味で、象徴的でした。
結局、Aである少年も、その父親も、どうしたらいいのかわからないのです(事実、2人にはそういった台詞がありました)。そんなどうしようもない状態を、津田寛治演じる被害者の父が、“怒り”(『seven』のブラッド・ピットが犯人を前に囚われていた感情と同じものです)によって裁いてしまう。明らかにモラルに反する行為だとわかってはいても、ここでの結論はそういうことです。モラルより感情を優先させたこのラストシーンは、内藤剛志による、まさしく迫真の演技とあいまって、ある程度の説得力を持ち得ていたと思います。さらに言えば、少年が仲間を拳銃で殺すシーンはやはり見せず、彼が撃たれるラストは正面から見据えていたという事実。見せるべきは、あのAの死だった、ということでしょうか。

この結論に異を唱える人間ももちろんいるでしょう。しかし、言うまでもなく『イズ・エー』は映画なのです。映画がモラルを遵守しなければいけない理由など、ありはしないのですから。唯一確かに言えるのは、時計の針はやはり正確に時を刻んでいた、と言うことだけなのかもしれません。

2004年10月13日 12:50 | 邦題:あ行
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