2004年10月12日

ヴィスコンティ映画祭〜『熊座の淡き星影』『ある三面記事についてのメモ』

「熊座の淡き星影」と「軽蔑」ヴィスコンティの死後になって初めて日本公開された本作は、周知の通り、ヴィスコンティ監督作品内唯一のミステリーだと言われています。ヴェネチア映画祭で金熊賞に輝いたにもかかわらず、モノクロの現代ミステリーという、当時日本人が抱いていた“絢爛豪華にして貴族的”ヴィスコンティのイメージとのズレが、日本公開をそれほどまでに遅らせたのでしょうか。何故だかはわかりませんが、私は長い間、どうしてもこの作品を観たいと思っていたのです。ギリシア悲劇「エレクトラ」を現代に移植した物語に反応したのか、モノクロのミステリーという部分に反応したのか、圧倒的な美を誇るクラウディア・カルディナーレそのものに拠るのか、今となっては忘れてしまいましたが、ともあれ、スクリーンで観ることが出来たという喜びは大きなものです。
と、ここまで書いていて思い出したことが。右の写真をご覧下さい。上はリバイバル時の『熊座の淡き星影』チラシ、下はやはりリバイバル時の『軽蔑』のチラシになります。ベッドに横たわる美女と同じような構図。この類似性にこそ反応したのかもしれません。BBとCC。ああ、なんという近親性!

ヴィスコンティ作品のタイトルはどれも魅力的かつ印象的なものが多いと思います。中でも『熊座の淡き星影』というタイトルは、それ自体が詩のようで美しい。イタリアの大詩人、ジャコモ・レオパルディの詩の一節からとられているらしいこのタイトルは、その詩を読んだこともない私のような人間にとっても、この上なく印象的でした。

印象的といえば、本作においてはやはり“風”について触れなければならないでしょう。クラウディア・カルディナーレ演じるサンドラとジャン・ソレル演じるジャンニが数年ぶりに再会する場面の、あの強風。夜の庭園に吹きつける風が、容赦なく二人を襲う。“禁断の関係”にあるこの二人の関係性はラストまで明かされはしないものの、このシーンを観ただけでそう確信するにいたったのは、まさにあの風の存在に拠るのです。ラストシーンも、同じ場所を舞台としていますが、亡き父の銅像の除幕式に相応しく燦々と輝く太陽の下で、やはり不吉な風が吹いていました。新たな旅立ちを決意したサンドラと死を選んだジャンニの切り替えし…このシーンの忘れがたい美しさも、その風の存在を無くしてありえないものだったと思います。まさに“風の残酷さ”が見事に表現されていました。

ミステリーというよりも、サスペンスやホラーに近いカメラワーク(ズームの効果的な使用など)だったようにも思える本作ですが、それは、主題となるであろう姉弟の心理的葛藤のエロティシズムと、疎外感を募らせる夫との危うい関係性を捉えるカメラの視線が、なんだか第三者的人間性を獲得していたようにも思えたからです。水道塔で密会するサンドラとジャンニの、あからさまな近親相姦的描写に加え、サンドラが去った後、一人残されたジャンニが映る水面をあえてクローズアップで捉えるシーンの得も言われぬエロティックさ。冷徹な第三者が覗いているようなカメラの視線が、とりわけ印象的でした。

同時に公開された『ある三面記事についてのメモ』は、冒頭にヴィスコンティ自身によると思われる文面が提示されます。それは確か、「この作品は新たな映画の始まりとなるであろう」といった内容だったと思います。ある少女の殺人事件に関するたった5分のドキュメンタリーですが、ナレーションと画面の意図的なズレがあったように思いました。事件の残酷さを強調するようなシーンではなく、ベッドタウン特有の倦怠感が覆う日常だけをただ切り取っていたという点で。緩やかなパンとロングショット。ヴィスコンティのネオ・レアリズモ的方法論は、たった5分の中にも表れていたということなのでしょうか。この辺りは、もっと調べてみないとわかりませんが。
しかし、あのマルコ・フェレーリがこのニュースドキュメンタリーの制作に携わっていたとは…後に大傑作『最後の晩餐』を生み出すことになるこの監督の“育ちのよさ”ということになるのでしょう。

2004年10月12日 12:50 | 邦題:あ行, 邦題:か行
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