2004年08月22日

『アデュー・フィリピーヌ』に感動しつつ憤らなければならない不幸

アデュー・フィリピーヌ今でこそ滅多に行くこともなくなりましたが、嘗ては毎週のようにclubingしていた時期もあり、土曜の夜は浴びるほど酒を飲んで、表参道辺りを叫びながらダッシュしてみたりだとか、始発に乗った途端に深い眠りへと滑り落ちたかと思えば、何故か千葉にある実家とは間逆に位置する本厚木駅の駅長事務室で毛布をかけられ気を失っていたなんていう稀有な経験をしてみたりだとか、まぁ、言ってみればイカレポンティとしか言いようの無い若造だったのです。その時以来ですから、かれこれ7~8年の付き合いになる“わるい仲間”と3年ぶりに再会したのが昨日、すでにそれぞれが“いい大人”になり、環境が大きく変化した人もいれば、私のように相も変らぬ駄目人間もいて、だけれどもやっぱり飲んでしまえば、我々を隔てていた距離と時間がたちどころに消え去ってしまうのですから、共に馬鹿をした仲間と言う奴は貴重だなぁなどと再認識した次第です。とりあえず今この日記を読んでいる3名の方、約束どおり速やかに足跡を残してください。

というわけで昨日は大いに飲んだくれてしまったので日記も書けず終いでしたが、彼らと会う前には、随分と前からチケットを買っておいた『アデュー・フィリピーヌ』を。上映に先立ち蓮實重彦氏による講演などもあったため、それほど広くない会場は言うまでも無く満員御礼でした。司会者の紹介によって壇上に現れた蓮實氏は、挨拶も無しにいきなり本題に入り始めこちらを若干驚かせもしたのですが、ニーチェ的アフォリズムに始まりヴェネチアでの裏話へと到る様々な話は相変わらず面白く、ところどころで蓮實節を炸裂させたりもしているうちに45分ほどの講演時間はあっという間に過ぎていきました。詳細についてはこのあたりを参考にしていただければ。

蓮實氏曰く、日本語字幕付での上映は、今後、何かの間違いでもなければまずありえないだろうという『アデュー・フィリピーヌ』は、噂どおりの作品で、一言で言ってしまえば傑作に違いありません。これは好みの問題ですが、私は映画における三角関係というやつが好きです。ジャンルで言えば恋愛映画に相当するのもしれませんが、この三角関係という極めて映画的な題材は、それ自体青春映画にもなり得るし、危うい均衡関係に注目すればサスペンスにもなり得る。また、三角関係が下敷きになった愛憎劇ならスリラーにもなり得るというわけで、題材としての表情の豊富さから言っても、三角関係には目が無いのです。
一人の男と2人の女と聞けば、これだけでそれなりの映画が出来上がるだろうと思いもしますが、にもかかわらず『アデュー・フィリピーヌ』は、こちらの予想が全く通用しない映画でもあります。故に、観終えた今も、どのように評していいのかわかりません。事実、息を飲むような独創的な構図があるわけでもないし、ほとんど素人同然の俳優たちの演技は、所謂“上手さ”ともかけ離れているでしょう。しかし映画とは、そういった次元でのみ評価し得るものではありません。実際、あの唐突なイタリア人の登場には、その辺のコメディ以上に笑わずにはいられないし、所謂ミュージカルとは程遠いダンスシーンにも、溢れるみずみずしさを感じてしまうのですから。同じベッドで寝ている女性同士が、早朝、いったいどちらが先に起き上がって「アデュー・フィリピーヌ!」と言うのかをはらはらした思いで見守っていると、あろうことか2人が同時に起き上がり「アデュー・フィリピーヌ!」と叫ぶ。観ていない人には何だかわからないと思いますが、それはつまり、『アデュー・フィリピーヌ』こそ、観ている人間と観ていない人間を厳しく分けてしまうような映画だということなのかもしれません。兎に角、このシーンには心底感動した、という以上の、興奮と喜びと愛らしさが渾然一体となったような複雑な印象を持ち、だからこそ忘れがたいシーンだったのです。これこそヌーヴェル・ヴァーグだと、さしたる理由も無いのに言い張りたくなりました。是非もう一度観たい。何としてでももう一度観たい映画なのです。

さて、そんな大傑作を観たにもかかわらず、私がここに記しておかなければならないことがあります。それは、『「アデュー・フィリピーヌ』の上映中、終始憤っていなければならなかったということです。その時感じた怒りは、それが極稀にしか観る事が出来ない作品であったことと無関係ではなく、つまりやや大仰に言えば、このような貴重な機会に伴う至福の喜びを根底から覆されたことに存しています。
映画などそれぞれが自由に愉しめば良いという意見は最もです。好きなときに泣けばいいし、笑ってもいい。しかるべき金銭と交換に観るのであれば、尚更のことです。がしかし、この“自由”にはまた、“慎み”というものが備わっていなければならず、それは、一つのスクリーンを集団で観るという、映画の本質的な条件を考えれば当然だと言えるでしょう。仮に観客が自分一人であれば話は別です。私も嘗て、出張の際に福島のシネコンにおいて、本当に一人だけで、『マトリックス』を観た経験があり、その時ばかりは前の座席に両足を乗せ、左右の座席に両手を乗せて、まるでどこかの中小企業の社長もかくや、とばかりに図々しく映画を愉しんだクチですから。しかしながら、200数十人が詰め掛け、明らかに満員の劇場で、しかも、かかっている作品が日本未公開にして稀有の傑作である場合であれば、やはりそれぞれの観客は、自由さの中に慎みを持たねばならないわけで、例えば作品中にどうしても笑いを堪えられないシーンがあるなら、声に出して笑うなとは言いませんが、少なくとも、“声高に笑う自分の虚栄心を他の観客に誇示する”などもってのほかだし、恐らくその笑う声には、“この場面で笑わなければ、蓮實先生の言っていたことを忠実に再現できまい”とか、“今この瞬間、このシーンに笑っている自らの感性はシネフィルの名に恥じないであろう”とかいう、こうして書くことすらはばかられる陰惨な自尊心と虚栄心が見え透いていて、隣に座っている私の神経をデッキブラシか何かでゴシゴシと逆撫でさせるに充分であり、もちろん正確には数えていないのですが、上映中少なく見積もっても7回ほどの殺意が私の心中に漲り、上映後にその顔を写真に収め、モザイクなしで公開してやろうかと本気で考えたくらいです。それほどの殺意を抱くのは非常に稀ですが、そういう輩は等しく地球上から消滅してほしいと心から願いましたし、今も願っています。なんとなく顔は覚えているので、次回どこかの劇場で見かけた暁には、こちらから隣に座らないのは当たり前だとしても、もし今回のように、予め確保した席の隣にあちらが座ろうとした際には、考えうる限りの嘘をでっち上げ、両隣を死守しなければならないと決意しているところです。

『アデュー・フィリピーヌ』を想起する際、あの馬鹿のこともセットで思い出さねばならないとは、なんという悲劇。本日は予定があっていかれませんでしたが、それがどんな条件での上映であっても、次回どこかでかかった折には、体と金銭が許す限り、何としても見直さなければならないでしょう。

2004年08月22日 22:45 | 邦題:あ行
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Title: アデュー・フィリピーヌ明日22日まで。
Excerpt: 蓮実先生の講演とともに、本日観てきました。 ヌーベルバーグの神話的映画と言われるだけあって満席でした。 蓮実先生のお話は以下のとおり↓ http://blog.goo.ne.jp/rsk1983/e/38c22e34025a263a7b5c446b25c6ccdf http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20040821#p1 http://d....
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