2004年08月04日
『ジプシーは空にきえる』の簡潔なラストは悪くない
“ジプシー”という言葉を聞いて、人は瞬間的に何を想起するでしょうか。一般的に、などと総括するほど、私は“ジプシー”について誰かと話をしたことが無いのですが、例えば“泥棒”とか、“ジプシー・キングス”だとか、“スペイン”だとか、“汚い服装”だとか、まぁいろいろな答えが出てくるのではないでしょうか。
それが映画好きともなると、トニー・ガトリフやエミール・クストリッツァの名前が挙がるのかもしれませんが、ここで鈴木清順を思い浮かべた人がいても、もちろん不思議ではありません。邦訳にして“ジプシーの歌”という映画を撮ったくらいですから。
さて、そんなことを言っておきながら、私自身は“ジプシー”に関する知識は皆無に等しいわけですが、昨日鑑賞した『ジプシーは空にきえる』は、彼らの歴史と生きる上での心構えみたいなものが“なんとなく”理解できたという意味で、なかなか興味深い作品でした。1976年のモスフィルム作品である本作は、同年のサンセバスチャン映画祭でグランプリに輝いた名作のようですが、恥ずかしながらその名前すら知りませんでした。例によって、無知な私にDVDをお貸しくださるFさんのおかげで知り得たのですが、当然、原作がゴーリキーの処女作だとか、その舞台がモルダヴィア共和国だということすら知らなかったのです。つまり、予備知識ゼロで作品に臨んだ、と。
若干身構えつつ、シネスコで撮られた画面を見ていると、ステップ気候による黄色い大地に数頭の馬が緩やかに歩いています。ジプシーたちの所有するその馬たちは、程なく、軍の将校らしき男たちに囲まれ、右往左往しながら何とか逃げようとする。ここで軍の将校とジプシーによる追跡シーンがあるのですが、注目すべきは、最終的に将校に撃たれるジプシーが馬から落ちる瞬間をスローモーションで捉えていたということです。全体を通せばやや異様にも映るスローモーションが、本作には数回出てくるのです(中盤、ジプシーの女性たちが踊るシーンでも、何故かスローが挟まれます)。撃たれるシーンを叙情的に引き伸ばしたのでしょうが、だとするなら、このソ連映画にもサム・ペキンパーの記憶を持つ監督がいたということでしょうか。
所謂“運命の女”と、彼女に翻弄される男という図式からはみ出ない本作ですが、ミュージカルというにはいささか粗野な、しかし悪くない歌とダンスのシーンが、さらに言えば、色彩溢れる衣装を加えても良いですが、“地味”なこの映画に“華”を添えていたのは間違いないと思います。
そして、ラストシーン。すでに中盤辺りで主人公の運命的な死を予感した私ですが、その死は、予想を超えた唐突さであっけなく画面から消えていきました。“運命の女”ラーダの心臓を、彼女を愛し、自由を愛するゾバールがナイフで突き刺すシーンは本当にあっけなくて、その直後にゾバールがラーダの父親からやはりナイフで報復されるシーンもまたあっけない。そして、それらの光景を下に見ながら、カメラはグっと引いていき映画は終わるのです。この潔いラストシーンは決して悪くなかったと言えます。前述のスローモーションや、やや凝ってはいますがちょっと不自然なカメラも、最終的にまぁいいんじゃないか、と思えたのもこの簡潔なラストシーン故だったのかもしれません。
2004年08月04日 13:10 | 邦題:さ行