2004年07月25日
演出を超えた何か〜『マッハ!!!!!!!!』を観て
昨日は渋谷東急にて『マッハ!!!!!!!!』初日を。期待が高じて初回から並んでしまいました。今、こうして題名を書いていますが、どうやら“マッハ”の後につくエクスクラメーションは、1つにされている場合が多いようで、私は最初に公式サイトを見た上で8つつけているのですが、テレヴィやチラシの類(劇場に置いてあったサンスポ特別版の新聞記事等)を見ると、律儀に8つもついていませんでした。全く取るに足らない問題だと思われるかも知れませんが、日本国内で何らかの映画を観る場合、どうしても“邦題”というのはついて回るわけで、原題(Ong-Bak)を重視してそれを意識的に無視するのであれば問題は無いのですが、今回のケースのように、まずこの邦題に見られるエクスクラメーションの数に注目した場合、その数を中途半端に有耶無耶にされては困ってしまうわけで、本当を言えばぜんぜん困ってはいませんが、この辺りに漂う曖昧さに目を瞑ってはならない、などともっともらしいことを思ってしまうのです。
さて、『マッハ!!!!!!!!』の売りは、昨今のアクション映画に対するアンチテーゼとしての5つの“公約”にあるのは言うまでもありません。嘗てのブルース・リーやジャッキ・チェンがそうであったように、生身の肉体によるアクションだけで勝負しようとしているのです。実は私もそういうアクション映画で育ったくちですから、ある種の郷愁めいたものはあるにはあるのですが、だからといってそのような方法論で撮られた映画はそれだけで面白いのかというと、そんなことはありません。ですから、CGアクションvs.NO-CGアクションということではなく、あくまで映画としてその作品を楽しめるか、ということが重要だと思います。そのような視点にたって、『マッハ!!!!!!!!』を考えてみたいと思います。
これは制作側も言っていることですから、何ら個人的感情も含まれてはいませんが、『マッハ!!!!!!!!』において物語は大きな意味を持ちません。トニー・ジャーによるアクション“だけ”が重要なのであり、それだけで人は感動できるはずだという自信が見て取れます。そして、それは概ね成功していると言えるでしょう。ただし、この映画の面白さはそれだけに終始せず、言ってみればアクションの映画史的記憶に満ち溢れている点にあると思います。例えば拳や蹴りが空を切る音、しかるべき部分で見せるスローモーション、1つのアクションを別角度から見せる手法、現実にはありえない装置がアクションに貢献する部分、等を見るにつけ、これはあくまで映画なのだということを要所要所で思い知らされ、とりわけ嘗てジャッキー・チェンに慣れ親しんだ観客は、どうしてもノスタルジ−的思いに囚われてしまうのではないでしょうか。
もう一つ、絶対に見落としてはならない点があります。それは、トニー・ジャーの現実世界での強さを感じざるを得ないということです。とりわけ格闘シーンに顕著ですが、ほとんど反射的にとられる構え(必殺の肘撃ちや、トリッキーな蹴りの跡に見られます)は、決して演出ではないだろうと。ジャッキー・チェンの格闘は、どちらかというとコミカルさが強調される演出により(『龍拳』などは例外的に最後までシリアスでしたが)、彼の本来の強さ(があったとすれば、それを)を隠し、只管キャラクター性を際立たせたことが勝因だったかと思いますが、トニー・ジャーは、それに比べるとアクション性のほうに重点が置かれていて、だからこそ彼本来が持つ、強さがが露呈したのだと思います。さらに言えば、ラストの格闘シーンにおいて見られる、演出を超えた殴り合いが感動的で、主人公の怒りが、そのままトニー・ジャーの怒りと重なった瞬間の蹴りの応酬など、なかなか鬼気迫るものがありました。これは全般に言えることですが、アクション映画において、如何に“痛み”を伝えるかという点に、監督は自覚的だったと思います。恐らく、北野武作品以来、久々に痛みを感じさせる映画だったという点も、大いに評価できるかと思います。
最後に、冒頭のあの競技は、やっぱり『ドラゴンロード』ですかね…
2004年07月25日 11:25 | 邦題:ま行