2004年07月20日
必見!〜イオセリアーニ『四月』と『月曜日に乾杯!』を観て
昨日の祝日は遅ればせながらマノエル・ド・オリヴェイラ『永遠の語らい』をシブヤ・シネマソサエティにて。モーニングショーで観たのですが、予想よりも客席は埋まっていたような気がします。ざっと見て10人強といったところでしょうか。兎に角美しい映画だ、という前情報しか持たずにいた私は、観終えた時、あまりに感動してしばらく途方に暮れました。
その後、イオセリアーニの2作品を鑑賞。その2作品は、たまたま彼の長編デビュー作と、最新作にあたりますが、その間には実に39年という年月が流れています。だけれども、イオセリアーニの映画には、デビューから最新作までを垂直に貫く特徴がありまして、彼の映画を観たことがある人ならすぐにわかるであろうその特徴とは、“音”です。それを“音楽”と言ってもいいかもしれませんが、イオセリアーニと“音楽”とは切り離せないほど密接な関係があります(イオセリアーニはソ連映画学院に入学する前、トビリシ音楽院でピアノ・作曲・指揮を学んでいます)。例えば『四月』はまさに“音”の映画だと言えないこともありません。ほとんどサイレント映画と言えるこの作品、その“早回し”ぶりがいかにもと言った感じですが、全編を彩る“効果音”がユーモアと悲しさと美しさを同時に生んでいるのです。“音”だけでなく、48分という短い時間の中にも息をのむようなショットがありました。丘の上で主人公の2人が抱擁するショットです。一本の木と、数頭の牛と、大空。ここに抱き合う2人を捉えたショットが、確か2度ほど出てきたと思いますが、これには舌を巻きました。どちらかと言うと室内(もしくは路地など)という狭い空間で展開していた話が、この場面により、まるで西部劇のような空間を作り出し、物語に拡がりと奥行きを与えていました。話自体は至極単純で、“政治的な”側面など見当たらないにもかかわらず、上映禁止になってしまう、そんな国にイオセリアーニは生まれたのです。ですから、『四月』の単純さを前に、やれ政治だの抽象主義だの体制批判などを深読みするのは止めましょう。それこそ、この映画を永遠に封印しようとした当時の政治家や検閲者たちと同様の“犯罪”に加担することになります。ただこのかわいい人間たちとそのコミカルな動きを前に、軽くほほを緩めればそれでいいのだと思うのです。
『月曜日に乾杯!』もユーモアと音楽が溢れています。さらに加えれば、大らかな出鱈目さでしょうか。これまた贅沢な映画です。登場人物に共通しているのは、皆孤独だということ。たとえ家族が一緒に暮らしていたとしても孤独は一向に解消されません。主人公は孤独に囚われた日常を一歩踏み外してみるのですが、最終的には元の生活に戻っていきます。よって、この物語は決して現実逃避のファンタジーではありません。ひと時の休息…しかしそれもまた夢の世界ではないからです。そこがイオセリアーニの“巧さ”ではないかと思います。あくまで現実は現前にある、それがこの映画の主題ではないかと思いましたが、ただし、そこに悲観など微塵も無いところが、この物語にある種のおかしみや、さらにいえば“現実的な”未来(=希望)を与えているのかと思いました。
思えば登場人物それぞれが、的をはずした、ちぐはぐな行動をとっていました。誰もが真っ当さから少しずれているのです。取り付かれたように煙草をすっていたり、いきなり銃をぶっ放してみたり、レストランで食事もせずひたずら歌いまくってみたり、どう考えても女性には見えない中年男性が女になりすましてみたり…けれどもそれはノンシャランと自由を行使しているのではなく、日常の中の必然によってそうしているのです。そうせざるを得ないといってもいいかもしれません。自由という幻想、それをひたすら滑稽に、そして美しく描いている点が、何より『月曜日に乾杯!』が傑作である理由です。
いろいろ書きましたが、イオセリアーニの作品もまた観なければ決してわからない作品なので、観ることが出来なかった人には、何を言っても無駄だ、などといったら実も蓋もありませんね…
2004年07月20日 11:24 | 邦題:か行, 邦題:さ行