2004年07月01日

18歳から遠くはなれて

このサイトをオープンしてから、早くも一ヶ月が経ちました。まだまだコンテンツと呼べるものはないに等しいのですが、オープンから何度と無く足を運んでくれている方がいるというだけでも素直に喜ぶべきことで、密かに励みにしつつ更新しています。このサイトにはアクセスカウンターを設置していませんが、それはまだまだ訪れる人が少なくてかっこ悪いとか、何かというとそういった“数字”に還元されてしまうことへの抵抗とかそういったことではなくて、ただ単に“かっこ悪いから”にほかなりません。このサイトをご覧になっている方には、是非とも数字のことはいったん忘れていただき、映画に関するテクストの更新を気長にお待ちいただければ幸いです。

さて、ここで唐突に成人指定映画に話題を移します。といっても最近は全くといっていいほど所謂ポルノグラフィーなど観ていませんが、言うまでも無く、成人指定映画が全てポルノではありませんし、その逆もまたしかりです。では、“ポルノグラフィーとは何か?”ということになりますが、ここではそういう話をしたいわけではないので先に進めます。何故急にそんな話題を持ち出すのかというと、今朝ほど何気なく見ていた「やじうまプラス」の芸能コーナーで、ある映画の舞台挨拶の模様が映し出されていて、それは根岸吉太郎監督の『透光の樹』という映画のそれ、中年に差し掛かった男女の官能的な性愛を描いた“成人指定”作品なのですが、その中で秋吉久美子が体当たりのセックスシーンを演じているらしい、などという話を聞いたからです。つまりそれは、“私が成人指定映画好きだから”などと、聞く人が聞けばやや距離を保ちたくなるようなことを表しているのでは決して無く、そういう映画も“普通の”映画と同じように観ているつもりの私が、ここで成人指定なるものの馬鹿馬鹿しさについて、ちょっと書いてみたくなった、ということなのです。

「R-18」というくらいですから、18歳という年齢に重要な意味を持たせているのがわかりますが、そもそも18歳とは何なのでしょうか。そこに込められた“飽くまで抽象的な”意味が、自由な映画の鑑賞を抑圧しているのです。映倫規定なるものによれば、「R-18」指定とは、“18歳未満の未成年者の鑑賞には不適切な表現が含まれる作品への入場を禁止する”というものらしく、さらに98年の5月に改定された後には、“著しく反社会的な行動や行為・麻薬・覚醒剤の使用を賛美するような表現に関する規制”が強化されたようです。ここで現代の18歳とはいかなる人々かということを考え、いかに彼らが大人びているのかについて何らかの根拠を示し、だからこんな規定は無意味だ、といいたいわけではありません。そもそもこんな規定を律儀に守ろうとする18歳未満の映画好きなど皆無じゃないかとすら、私は思うのです。さらに言えば、いまや映画における「R-18」指定など、宣伝効果以外の意味を持たないということです。『バトルロワイヤル』(こちらは「R-15」指定でしたが)におけるあの政治家をも巻き込んだ醜い喧騒。いかに戦略的に映倫規定が“利用”されたか、知らない人はいないでしょう。まぁあれは極端な例ですが、「R-18」指定にも、やはり、たいした意味など無いのです。
確かにこんなこと考えたところで、すでに18歳を遠く離れてしまった私にはいかなる利益もありません。いまさらそんなこと言うなんて、ずいぶんとロマンティックだなぁ…と言われてしまうでしょう。しかし、宣伝としての「R-18」ということだけで済めば、事態はいささかも深刻ではありませんが、その“成人指定”が作品に植えつける何らかの如何わしいイメージによって、例えば、女性がその作品から遠ざかってしまうという事態や、逆に、如何わしさそのものを映画に求めてしまうという事態も、身近で起こっていました。これは映画にとってよくないことなのではないか、などと何の義務もないのに言いたくなります。

話がどんどんまとまらなくなって来ましたので、このあたりでもうやめておきます。その代わりに今週末は、あの忘れがたい日活映画『恋人たちは濡れた』とか『濡れた欲情 特出し21人』、もしくは、まずありえないとは思いますがリバイバルされたらR指定は絶対に免れ得ないであろうマカヴェイエフの『スイートムーヴィー』あたりを“反動的に”観ることによって溜飲を下げようと思います。


2004年07月01日 11:14 | 映画雑記
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