2004年06月19日

泣かない感動

アンナ・カリーナ(「女と男のいる舗道」より)このサイトを見ているような映画好きな方でしたら、これまでに映画を見ながら泣いた経験があるのではないでしょうか。かく言う私にも、2回ほどそんな経験が。この2回という数字、多いか少ないかと問われれば、恐らく少ないほうに属すると思います。ただしこれは飽くまで、生きてきた年数と見た映画の本数を鑑み、“相対的に”少ないという意味ですが。無論、何事かに“感動”した結果涙を流したのですから、少ないとはいえ、人並に“感動”できる人間だといえると思いますが、ある時ある人から「え〜!? あの映画で泣けなかったんだ〜?」などといわれてしまうと、まるで私が頭でっかちで冷酷で、どんな映画にも感動しない奴だと言われているようで、「ちょっと待ってくださいyo」といささか反論したい気分になります。

さて、人は“感動”を求めて映画をみると言って言えない事はありません。言うまでもなくこの“感動”というやつは、“泣くこと”にイコールではなく、“強くこころが動かされる”という程度の意味で捉えていただきたいのですが。別段泣ける映画でなくとも、人はその映画に“感動”できるわけで、さらに言えば、トータルとしてあまりに冗長で稚拙で美的感覚が欠如しているような映画にも、どこかに“感動的な”細部を発見することも出来るわけです。ここで私の問題に立ち返ると、これまで幾度と無く“感動”してきたにもかかわらずほとんど泣くことが無かったという事実、全く大きなお世話なのですが、これをいかにも不自然だと感じる人がいるのです。

今更何故こんなわかりきったことを書いているかというと、実はただ書くことが無いからなのですが、そう言い切ってしまうと身も蓋もないので話を戻すと、“感動”=“涙”という図式が世間に罷り通っているような気がしてならないからです。いや、それ自体はなんら問題は無いですし、同調できる部分もあるのですが、例えば映画の宣伝文句に顕著な“感動作”とかいう言葉に、どうしても違和感を感じてしまうのです。「まぁいいから泣けよ」と言われているみたいで。全体としての物語に感動するのは、言ってみれば珍しくもなんとも無く、そんなことはすでに小説で証明されています。問題は、映画でなければ描き得ない部分に“感動”した場合、その感情がなかなか共有され難いということです。例えば、『ショーシャンクの空に』を観て、が涙を流す人もいれば、あの如何わしい『カノン』に感動を禁じえない人もいるのです。後者においては、所謂“感動作”とは無縁の、奇特な映画に属すると思いますが、ある細部に目を向けたとき、説明しがたい動揺が無いとも言えないわけです。つまり言いたかったことは、あらゆる映画に“感動”出来る細部を見つけられれば、映画体験がより充実するのではないか、ということです。

つい最近ある作品を観て不覚にも涙してしまった経験からこんな文章を書いてしまいました。恐らく7〜8年ぶりだったので、涙を流す自分に少なからず驚いてしまい、“じゃあどんな部分に感動したんだろう?”という感情が沸いてきて、遂には、“感動”するということについて改めて考えるにいたったと。何のオチも無い話ですが、こんなこともあります。

2004年06月19日 11:09 | 映画雑記
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