2004年06月07日

『クリムゾンリバー』、安直なクンフーのグローバル化

クリムゾンリバーやっとの思 いで完成させた『ミスティック・リバー』に関するテクストではありますが、読み返してみると、予告していたとおりなんとも纏まりを欠いたものに仕上がっています。もはや言い訳は不可能、誰に頼まれたわけでもないのですから、これはこれで甘受せねばなりません。しかし、今回苦労したのにはもうひとつの理由が。それ は 他でもない私自身の“怠惰”にあるのですが、簡単に“怠惰”と書いてはいても、その途方もない力はとても人間の太刀打ちできる代物ではなくて、“誠実”であるこ とはいささかも抵抗足りえず、“責任感”すら雲散霧消させてしまうほどの、邪悪な力なのであり、これに抗うのは並大抵ではありません。こちらの意思や決意すら、あっさりと踏み潰してヘラヘラ笑っている存在、それこそが“怠惰”の恐ろしさです 。おそらくこれほどの屈辱を味わったのは、大学受験のために勉強していた時以来ではないかと思います。「よし、ちょっと眠いから2時間だけ寝て、また再開しよう」などと前向きに、しかし安易な私の思いをことごとく打ち砕き 、仕舞には「結局眠気をこらえて勉強しても頭に入らないから無駄だ」とまで思わせてしまう。あの時は見て見ぬ振りをしてやり過ごしましたが、未だに彼奴は私のすぐ真後ろでニタニタ笑っていたということになります。何たる恐ろしさ…これは全く言い訳ではなく、紛れもない真実なのです!! と声を荒げておいてこのバカ バカしい話題にけりをつけ、次の話題に移るとします。

昨日テレヴィで放送していた『クリムゾン・リバー』、まぁ、こんなもの観ているからいつまでたってもテクストが書きあがらないんだyo! というセル フ 突っ込みはさておき、確かヴィデオが発売された直後に見ていたのですが、せっかくジャン・レノとブノワ・マジメルがわざわざ日本まで来たのだから、リュック ・ベッソン脚本などという安易なアジテーションみたいな宣伝文句のせいではないとは言え、多分劇場では観ないだろう『クリムゾン・リバー2』の代わりに、もう 一度見直してみたわけです。いつ頃からそうなったのかは覚えていませんが、現在「日曜洋画劇場」では、作品が始まる前に著名人による見所解説みたいなものが あって、どういう経緯で決められるのかはわかりませんが、今回は作家の猪瀬直樹氏がそれを担当していました。彼の発言のなかで「映像がいい」というものと「 黒の存在感がある」みたいなものがありましたが、あまりに具体性を欠いたその発言は、いくらテレヴィとはいえ、容易に納得しがたいところがありました。今は亡 き淀川長治氏が解説を担当していたころと比べるのは酷でしょうが、あのような無意味な解説の意味を問いたい気分です。さて、そんなことはさておき、この 映画にはヴァンサン・カッセルによるクンフーアクションシーンがあります。何よりもこのシーンに対する違和感があったのは、そこに物語的必然性が全く無いか らで、例えばヴァンサン・カッセルの強さを示したかったのだとしても、それがクンフーである理由は無いですし、その後のシーンにおいても、ヴァンサン・カッセ ルは強い存在というより、ジャン・レノに対する“無鉄砲な若手刑事”以上の説話的役割を与えられていなかったとさえ思われ、そうなってくるとあのシーンは一種のサーヴィスなのだと言ってしまえばそれまでですが、それならばもう少し格闘シーンを増やしたほうが良かったのではないかという気がします。つまり、いかにも中途半端だったあのクンフーアクションは、あの程度のアクションで満足する観客のためだけに向けられたのであり、恐ろしく退屈な場面でした。映画における強さとは 、決してそんなものではないはずです。

それはそうと、もうひとつ気になったのは、何故ドミニク・サンダがあのような役を引き受けるに至ったのかということです。猪瀬氏の言う“黒さ”に支配された部屋で顔の半分も見えず、一瞬の光が当たったかと思えば、目を潰したと思 わ れる特殊メイクで画面に映るのみでした。『暗殺の森』の彼女の、目を見張るよ うな美しさばかりを思い出してしまうのはいささかノスタルジックすぎるのかもしれませんが、彼女も苦しい状況にあるのでしょうか。真意はわかりませんが、寂しさが募ります。

2004年06月07日 11:02 | 邦題:か行
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