2004年05月31日

『ウェイキング・ライフ』に始まりイーストウッドで締める週末

カリフォルニア・ドールス『エレファ ン ト』を観て以来、映画館からやや遠ざかりつつあるのですが、ただなんとなく暑くて渋谷の雑踏から出来るだけ遠ざかりたいというだけの理由しかなく、仮にも自身を“映画好き”とは言いがたい現状にいたたまれない感じがしないでもないのですが、それでもTSUTAYAにだけは足を運んで、ヴィデオを5本ほど借りてきまし た。

『テープ』におけるミニマムな手法には舌を巻くほかなかったリチャー ド・リンクレイターの前作『ウェイキング・ライフ』、これは、私の数少ない友人の中でも、とりわけ映画好きな部類に入る若手建築家T氏による、熱いリコメンド によってようやく手にとったわけですが、こちらの期待を裏切らない作品でした。 その理由は、『ウェイキング・ライフ』がアニメーションに対する一つの批評でもあるのではないか、と言う点に存しています。その前に、“アニメーションは映画 なのか”という問いがなされなければならないと思いますが、厳密に言えば“映画” ではないアニメーションが堂々とアカデミー賞を取ってしまうくらいですから、現在の一般的な認識は誤っているというか、そもそもそんなことは考える必要すらなくな っ てきているのかもしれません。まぁ、ここではその話は置いておいて話を戻すと 、アニメーションは、ある“物語”にしかるべき“絵”を付与した結果生み出されるもので、であるからこそ、そこには(映画で言う)即興的なものははじめから排除さ れ、偶然の入り込む余地などないはずです。その意味で“物語”とは不可分なアニメーションであるはずの『ウェイキング・ライフ』には、しか し、“物語”など無いに等しく、あるのは人間と動作と言葉だけなのですが、それは言うまでも無く、まず“映画”として撮られたものにMACによるデジタルペインティン グが施されたからで、ここにおいて、『ウェイキング・ライフ』は“アニメーシ ョンであり、映画だ”という、やや矛盾を孕んだ結論が下されると思います。劇中でも、映画とは決して“先ずストーリーありき"ではなく、“先ず人間ありき、大事なのは聖なる瞬間を撮ることだ”と語られていたように記憶していますし、中盤に出てくるあの、ストーリーの無い小説を書く男との対話も、その事実を示唆しているかと。本当に興味深い映画でした。

その後、『ラブ・ストリームス』『カリフォルニア・ドールス』、そして 『恐怖のメロディ』といずれも傑作のアメリカ映画により、こちらの感性を心地よく刺激されたのですが、その後に観る予定だった『ブラックサンデー』にはオープニングからどうにも乗れず、結局は20分くらい見て深い眠りにつきました。上記のうち未見だった『ラブ・ストリームス』よりも、2度目に観た『カリフォルニア・ドールス』が相変わらず面白く、あきらかに「ここは笑うシーンだ」と記憶していたにもかかわらず、そのシーンになるとただ只管笑い転げたという事実により思い起こされるのは、「そういえば、『少林サッカー』以来久しく劇場で笑っていないな…」という事実で、最近では『KILLBILL Vol.2』における、中国での修行シーンに乾いた笑いを誘われたものの、それでも笑い転げるとまではいかなかったので、もっともっとアメリカ映画に笑わせてほしいと強く思った次第です。

2004年05月31日 11:00 | 邦題:あ行
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