2008年06月04日
『軍鶏 -Shamo-』の嘘っぽさは悪くないが…
Shamo/2007年/日本・香港/105分/ソイ・チェン
後で知りましたが、ソイ・チェンは、『ドッグ・バイト・ドッグ』の監督だったらしいです。私は未見ですが、当時予告編を思い出す限りでは、『軍鶏 -Shamo-』と非常に似た画面だったような。主人公を、“戦闘的な”犬や鶏に喩えているあたりも。
軍鶏といえば闘鶏。闘鶏と聞いてすぐさま思い出されるのが傑作『コックファイター』ですが、本作では、あくまで比喩として軍鶏という言葉が使われただけで、実際の闘鶏場面は出てこず、戦うことにとり憑かれたような人間同士がひたすら殴りあうばかりです。まぁ、現代においてモンテ・ヘルマンを模倣するというのは反時代的とも考えられますし、常識的に考えれば、実際の軍鶏を画面に登場させたところで、映画としての体をなすかどうかは甚だ疑問ですが。
ところで、幸か不幸か、ソイ・チェンは“香港の三池崇史”などと言われているようですが、単に題材や描写の類似性からそう呼ばれているのだとすれば、いささか安易だと言わざるを得ません。ジャンルなどほとんど意に介していないかのごとく、年3本くらい涼しい顔で撮りあげてやるぞ、というプロフェッショナルな姿勢こそ、三池崇史の作家性だと思われるからです。
まぁそんなことはさておき、この『軍鶏 -Shamo-』という映画、日本の漫画が原作だそうで、舞台は一応日本ということになっています。が、主人公はショーン・ユーという香港の俳優。『インファナル・アフェア』シリーズや、『頭文字D』『かちこみ! ドラゴン・タイガー・ゲート』に出演していた、アクションもこなす優男風な俳優です。一方、彼の敵役となるのは日本人で、K-1ファイターの魔裟斗。彼は嘗て、三池崇史の『IZO』に出演したことがあるようですが、なるほど、ソイ・チェンが三池に比較されるのは、このあたりの大胆なキャスティングにも拠るのでしょう。
恐らく、物語はある程度まで原作に忠実だろうと思わせるのですが、そう思うのは、本作のほとんどのシーンがアクションシーンであり、だからでしょうか、物語にまるで奥行きが感じられなかったからなのです。つまり、大事なのはアクションであり、物語にオリジナルな変更要素を加えるなどということは二の次だったのではないか、と思われ。
優等生的な高校生が、突如殺人犯となり、少年院では他の囚人に虐められ、おまけに親殺しということで院長(これは石橋凌が演じています)にも目をつけられるという日々を送っているが、そこに、嘗ては首相暗殺を企てたテロリストで空手の達人でもある男が現れ、彼が師匠となって主人公に空手を一から叩き込む。刑期を終えた主人公は、唯一の肉親である妹を探すうちに、世界格闘技トーナメント「リーサルファイト」の主催者と知り合い、空手の腕を買われてそのトーナメントに出場するが、チャンピオンである魔裟斗に何故か敵対心を燃やし、彼を倒すことだけに執着していく、という物語そのものが、いかにも漫画のいいとこ取りで底の浅さが露呈していました。ただし、そもそも香港映画に物語的な奥行きを求めてはいけないという持論がある私にとって、それは別段驚くに値しないことです。
アクションシーンですが、香港映画としては水準でしょう。後は、あの取ってつけたように出鱈目なそれぞれの舞台背景(セットやロケ地)を許容出来るのかというあたりが重要になってきますが、まず原作の重要な場面ありきというこの映画では、とても日本が舞台とは思えないような夜の街や雑居ビル、森などが登場し、それがさも当たり前のように画面を流れていきます。香港映画ばかりでなく、外国映画ではお決まりといっていい、いかにも嘘っぽいというか、本当らしくない日本の描き方は、映画として見た場合決して悪くなく、これが映画だということを要所要所で感じさせてくれます(外国から見た日本のイメージなどほとんど出鱈目だが、映画においてはそれで良いのだ、ということを、小学生の時に封切りで観た『大福星』が教えてくれました)。
また、空手の師匠であるフランシス・ンが、ほとんど場違いなまでにいい味を出していて、映画全体のクオリティを担保しているにもかかわらず、これも原作からなのか、ほとんど現実離れした、抽象空間としての森で自決するあたりの演出がどうにも残念なことに加え、ラストのショーン・ユー対魔裟斗の対決の決着のつけ方として、安易なCGに頼ってしまったあたりもまた残念と言えば残念だったと言わねばなりません。
まぁ個人的にこの手の映画は嫌いじゃないという前提があるのですが、“拾い物”というほどのレヴェルまでは達していませんでした。
2008年06月04日 18:00 | 邦題:さ行