2007年08月17日

飛光

この時期になると、時たま玄関のドアの向こう側から聞こえてくる、何とも不快な音に悩まされる。
ズバババババ、ポトン…ズバババババババ…コトン。ズバババババババズバババババババ……

どうやらまた、夏の風物詩たる蝉が、その最期を我が玄関先で迎えようとしているらしい。
何故、あの音だけで、それが蝉の最期だとわかるのかと言えば、ほとんどの場合、翌朝ドアを開けると、その亡骸(当たり前だけれど、まったく力なく裏返っている姿)が発見されるからで。しかし、それが本当に亡骸かどうかは、実は、足先でちょこんと蹴ってみなければわかりません。力なく裏返って、あ、こいつもう死んでるな、と油断させておきながらも、突如としてズビビビビビビビビィィィイとあの透明で幾何学的な模様が刻まれた羽をばたつかせることもしばしばだから。その時の私のビビり様と言ったら、そりゃあもう…。

しかしそれにつけても疑問なのは、あと一寸、最期の力を振り絞って飛べばほかにも鉄製のドアが3つはあるというのに、何でウチを選ぶのか…。インド風なお香に吸い寄せられてきたとでも? チョリソーのペペロンチーノ(にんにく多目)のいかにも食欲をそそる香りが、蝉の最期に相応しかったとか?

だいたい、私は蟲の類が大嫌いなのです。
別に理由なんて無いけれど、いや、無いことも無いけれど、つまりあれは美しくない。美しい蟲だっているじゃないか、ほら南米のナントカとかマダガスカルのカントカとか、と言われれば、美しい蟲だって俺にとっちゃ1mmも美しくはないんだよ、とでも答えるほかない。じゃあその美しさ、とやらは、例えば、アンドレイ・ズビャギンツェフが撮った海は美しいだとか、ジャック・ドゥミの草原は美しいだとか、そういうことに置き換えられるようなことか、と自問するわけですが、いや、それはどうだろう、だってアレハンドロ・ホドロフスキーがキメキメで撮っちゃいましたみたいな砂漠だってやっぱり美しかったんだろうし、ジャン=リュック・ゴダールが仰角で撮った高層マンションだってやっぱり美しかったんだから。つまり、それはどうも、ステキとかキレイとか、そういう類のモノとは違うのかもしれません。蟲の美しくなさは、じゃあ何?って。

まぁそんな話はまったくどうでも良くて、昨日の夜中の話。
ズババババ…コトン、という音が迷惑千万に鳴りつづけた昨夜、蟲に比されると途端にその人間としての強さをどこかに忘れ去ってしまう私は、極度の憂鬱と、極度の苛立ちになかなか寝付けず、というのは嘘で、案外すぅすぅと寝息をたてた次第ですが、やはり今朝になって、いざ早朝のスポーツジムに行かんとドアを開けるその瞬間はやっぱり緊張して、開けた瞬間、ズバッと最期の最期の生命の光を放ちつつ、私のプライヴェートな領域に闖入してくるんじゃないのか?という疑念が晴れず、思わずドアのこちら側から、外にいるであろう蟲=蝉の存在を確かめるべく、ガンとドアを蹴っ飛ばしてみたり。しかし、期待されたズバッという音は聞こえず仕舞。

蝉は、ただ本当に力尽きた様子で、ピョコっと裏返っていました。
しかしまだ俺は安心出来んよ、なぁ蝉よ、と、いつもどおり足先で小突いて確認。蝉は2cmほど蹴飛ばされたが動かず。もう一度足先でチョン。すると蝉は、ガスのメーターが設置された鉄製の細長いボックスの下にシュッとその姿を消した。
あ! これじゃあ、蝉の亡骸はこの先もずうっとこの場所に裏返っているということになる! しかしもう足先は狭くて入れられないし、いわんや、手をそこに入れるなんていう芸当は到底無理。

しかし、私ポジティフで投げやりな性質の私は、目につかないものは無かったことにする。その蝉が、生命の光を放つことはもう無いけれど、裏返った亡骸はおそらく、向こう数年間に渡ってその場に居つづける。あるいは、やさしい大家さんが超越的な力でその存在を見つけ、箒でもってであっさりと掃き捨ててしまう、か。

2007年08月17日 12:59 | 悲喜劇的日常
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