2007年06月25日
『選挙』における痛快でグロテスクな人間には、一見の価値が備わっている
選挙/2005年/日本・アメリカ/120分/想田和弘
“観察映画”と名づけられた本作のスタイルに対し、私は別段驚きはしませんでした。驚いたのはむしろ、自民党がこんなドキュメンタリーを許可したということと、もう一つ、監督と被写体とのcoolな距離感に対してでした。
撮影日数12日間、撮影素材60時間分、スタッフは監督一人で完全な自主制作という『選挙』は、率直に言うなら、痛快な娯楽映画です。政治そのものを扱っている割に本作はいわゆる政治的な映画ではなく、その点がドキュメンタリー作家としての想田監督の立ち位置をあらわしているのではないか、と。
この『選挙』という映画を観てつくづく思ったこと、それは、人間の、さらに言うなら、日本人の可笑しさと、であるが故のグロテスクさは、それだけで爆笑ものの映画になるのだということです。つまり、本作に登場する多くの一般市民たち、あるいは政治家のセンセイ達の日常(ただし、『選挙』で描かれた12日間が選挙期間中だったということを考えれば、それは若干非=日常的だったと言えるのかもしれませんが)は、撮る人が撮ればすこぶる映画的な素材に成り得る。このことはもちろん、想田監督のいい意味で場当たり的な、そして、日本の政治にはまったくの素人という立場でカメラを構えたことも大きかったのでしょう。その意味で、やはりドキュメンタリーは監督の力量に大きく左右されるものだと思いました。
地元の老人会の人々が参加する運動会の開会式で、あくびをかみ殺す山内氏を捉えたショットや、祭りで神輿を担がされる場面など、本作には心から笑ってしまうシーンも少なくないのですが、鑑賞後の私の脳裏に浮かんだのは、あまりにグロテスクな中年や老人たちの言葉や行動だったりしたわけで、いっさいの説明や音楽が排されていた割りには、監督が言うように、“映像の多義性”なるものを感じざるを得ませんでした。
自分が何故選挙に行こうとしなかったのか、そんなことも考えてしまいましたが、同時に、今後も出来るだけ選挙からは遠い場所に居ようと確信してしまったことも付け加えておきます。
2007年06月25日 17:29 | 邦題:さ行