August 11, 2005

映画短評<2005.7>

世界
映画は世界を見せてくれる。と、私は常に思っていた。しかし、では世界とはいったい何なんだろうか。それは、“外国”から成る総体なのか。もしくは、“自分以外の全て”なのか。あるいは、ただ“概念のみの虚構”なのか。そんなことを深く考えもせず、私はただ、世界は世界だ、という同語反復から脱することが出来ずにいたのかもしれない。いや、このそれは『世界』という映画を観た後でも何ら変わらない可能性もある。私は、現在進行形で“世界”なるものを掴みきれないでいるだろうか。

ここに描かれる“世界”は、ごく限られたものである。さらに言えば、それ自体虚構に他ならない、ような気もする。「世界公園」という実在する公園が、本作の舞台ではある。しかしその公園は、単なる出来損ないのミニチュアール(縮図されデフォルメされたもの)でしかない。エッフェル塔のすぐそばにロンドンブリッジがあったり、そこからちょっと歩けばピラミッドが顔を出すような、偽の世界なのだ。

だけれども、ジャ・ジャンクーは果たして“世界”をそのように捉えていただろうか。と、ここまで考えたとき、思い出されるのはジャン=リュック・ゴダールの、「映画は現実の反映ではない。反映の現実である」という言葉である。世界もまた、現実の反映ではない。それは我々が極日常的に使用する“世界観”という言葉に端的に表れている。“世界”とは、変容する現実なのではないか。

世界に外部は無いと、社会学者ならいうかもしれない。しかし、「世界公園」の外部は、あっけなく現実として描かれてしまう。あのいかにも作り物めいたアニメーションですら、そこに含まれてしまうような気がする。

私が見ている世界と、貴方が見ている世界は異なる。それは現実である。つまり、『世界』は現実だ、結局はそういうことである。

毛の生えた拳銃
この魅惑的なタイトルについて考えてみるが、思考はその都度宙吊りにされ中断してしまう。“拳銃=男根”という誰もが思い浮かべるイメージでは、どうにも掴みきれないのだ。麿赤児と大久保鷹の奇妙な言動や妄想、吉沢健という存在の(エロティックな)抽象性は、嬉々として観客を煙に巻いているかのようだ。

鏡とスチールを用いた印象的な冒頭からラストまで、画面は躍動しつづける。ロデオにまたがるのが容易では無いように、躍動し続ける画面を脳に焼き付けるのもまた並大抵ではない。初めて体験した大和屋笠監督作品の印象は、かように抽象極まりないもので、それが歯痒い。ただ、この作品を観て以降、猛烈に大和屋作品を欲している。何故だろう?

一先ず、現在観ることの出来る唯一の作品『荒野のダッチワイフ』を観、「大和屋竺ダイナマイト傑作選 荒野のダッチワイフ」を読むことから始めなければならない。いつだって、このように途方も無い発見には焦燥感と後悔がついてまわるのだ。

一言で言えば、圧倒的な映画体験。今はまだ、これ以上の言葉を紡ぐことは出来ない。

旋風の中に馬を進めろ(V)/銃撃(V)
モンテ・ヘルマンにかかれば、すでに確立されたジャンルとしての西部劇をも解体し再構築される。この視点に立てば、マカロニ(スパゲッティ)・ウエスタンやニューシネマ的ウエスタンの“相対的な新しさ”も色あせて見えるに違いない。

この2作品は、同じスタッフ・キャストで同時に撮影された。製作総指揮であるロジャー・コーマンのいかにもB級的発想ではあるが、驚くべきは、双方に出演したジャック・ニコルソンによる脚本と、停滞と倦怠を画面に定着させたモンテ・ヘルマンの演出の見事なコンビネーションである。にもかかわらず、このあまりにも“早すぎた”2本の西部劇はほとんど黙殺されてしまう。数年後に制作されることになるデニス・ホッパーの『ラスト・ムービー』ですら“早すぎた”のだから、モンテ・ヘルマンの“早さ”は尋常ではなかったのだ。
西部劇的な対決や叙情、活劇性を捨て去った結果、沈黙や停滞が画面に漂う。その反=劇的な“何も無さ”は、不条理ですらある。であるがゆえに、これらの映画は『GERRY』(そういえば本作もベケットを引き合いに出し宣伝されていた)同様、決して面白くはない。もちろん、“面白くはない”という言葉は賛辞に他ならない。

何も観なかったかのような透明性と突出した観念性。この感動を言葉にするのは難しい。だからこそ、この2本の西部劇は観られなければならない。

バス174
本作はバスジャック犯に焦点を当てたメディア批評、ひいては、“サッカーとカーニバルの国・ブラジル”という通り一遍のイメージを粉砕するだけの力を持った国家批評として観る事ができるのではないか。すでに『シティ・オブ・ゴッド』がブラジルの下層社会を暴いて見せたが、あくまでフィクションであるそれに比べ、本作は、当時のテレヴィ映像をそのまま見せることで、観るものの“傍観者性”を殊更際立たせる。

ただし、ドキュメンタリーと言えど本作にも意図されたドラマが構築されていく。バスジャック犯の知人や親類、生き残った人質たちの証言の断片は、次第に一つの主張に収斂されていくかのようだ。

ラストは意図的にぼかされているものの、観るものにはある種の決定的な結論が浮かぶのではないだろうか。そして我々はあらためて思い知るだろう。人間という生き物が、いかに醜く、そして恐ろしい闇を抱えているのかを。

August 11, 2005 12:53 PM | 作品(短)評
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Comments

>こヴィさま

確かに、あれこそ劇場でこっそりと鑑賞したいものです。シネヴィヴァン、本当にいい劇場だったんですけどね…
ただ、この2作品に関しては、その悔しさをグッと堪えてでも観てください。だって、『銃撃』にはウォーレン・オーツも出ているんですから!


Posted by: [M] : August 12, 2005 12:38 PM

モンテ・へルマン、これ、レイトショーとかで観たかったですねー(DVDVがなかったら、昔ならシネヴィヴァン、シネセゾンでやってたはず!)。なので悔しくてまだ手を出してません。


Posted by: こヴィ : August 12, 2005 03:38 AM
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