2005年07月12日
『おちょんちゃんの愛と冒険と革命』に“反応”出来る貴重な体験
原題:OCHON-CHAN:PUSSY'S ADVENTURES IN LOVE AND REVOLUTION
上映時間:68分
監督:西尾孔志
西尾監督の“世界”は、いったいどこまで拡がっていくのだろうか、と思わずにはいられないような映画。
確かにその片鱗はすでに『ナショナルアンセム』にも見られました。
まず、ある“出来事”があり、どこかでまた別の“出来事”がある。その一つ一つの過去や存在理由は、問題ではありません。そして私は、ただ翻弄されるばかりなのです。
映画における種々の“コード”の隙間を縫うような、別次元の“コード”がそこにはあります。そのテクストを読み解くことは並大抵ではありませんが、その挑戦に受けて立つ覚悟がある人間にとって、それは幸福な体験です。
例えば、これは恋愛映画でしょうか? SFでしょうか? スリラーでしょうか?
「わからない」と、私なら答えます。いや、「知るか!」と暴力的に言い放つかもしれません。それもまた、問題ではないのです。こんな部分もきっと『ナショナルアンセム』から変わっていません。
もはや、映画にジャンルなど必要とされていないのだろうか、本作はそんな不安をも強いるかもしれない。それよりも根源的な“女と男と暴力”さえあれば映画は成り立つのか?とも。
「うるさい!」と彼は言うでしょう。そう、映画は最終的には、観客の反応に委ねられています。何かが反応する、それが全てです。
一先ず結論します。
『おちょんちゃんの愛と冒険と革命』は、“面白い”と“面白くない”の垣根を根絶やしにしようとする凄い映画である、と。そして私は、ベッドに女性二人が横たわる俯瞰の視線、ベランダから階下にある川沿いの道路へと移動する視線、画面奥にある玄関の薄明かりを背景に着替える女性のシルエットとその部屋の闇、この世ならざる世界へと続いて行きそうな歩道橋、間を心得たアラームの音、飛行機の轟音と爆破、そして、太ももから流れ落ちる鮮血に、確かに“反応”しました。
やはり、それが全てなのです。
2005年07月12日 12:59 | 邦題:あ行