July 12, 2005

映画短評<2005.6>

おちょんちゃんの愛と冒険と革命
西尾監督の“世界”は、いったいどこまで拡がっていくのだろうか、と思わずにはいられないような映画である。確かにその片鱗はすでに『ナショナルアンセム』にもあった。まず、ある“出来事”があり、どこかでまた別の“出来事”がある。その一つ一つの過去や存在理由は、問題ではない。私はただ、翻弄されるばかりだ。映画における種々の“コード”の隙間を縫うような、別次元の“コード”がそこにはある。そのテクストを読み解くことは並大抵ではないが、その挑戦に受けて立つ覚悟がある人間にとって、それは幸福な体験である。
例えば、これは恋愛映画だろうか? SFだろうか? スリラーだろうか? 「わからない」と、私なら答える。いや、「知るか!」と暴力的に言い放つかもしれない。それもまた、問題ではないのである。こんな部分もきっと『ナショナルアンセム』から変わっていない。
もはや、映画にジャンルなど必要とされていないのか、本作はそんな不安をも強いるかもしれない。それよりも根源的な“女と男と暴力”さえあれば映画は成り立つのか? 「うるさい!」と彼は言うだろう。そう、映画は最終的には、観客の反応に委ねられているのだ。何かが反応する、それが全てだ。
一先ず結論しよう。『おちょんちゃんの愛と冒険と革命』は、“面白い”と“面白くない”の垣根を根絶やしにしようとする凄い映画である。そして私は、ベッドに女性二人が横たわる俯瞰の視線、ベランダから階下にある川沿いの道路へと移動する視線、画面奥にある玄関の薄明かりを背景に着替える女性のシルエットとその部屋の闇、この世ならざる世界へと続いて行きそうな歩道橋、間を心得たアラームの音、飛行機の轟音と爆破、そして、太ももから流れ落ちる鮮血に、確かに“反応”した。
やはり、それが全てである。

オープン・ウォーター
本作は、簡潔極まりない。そして、作品の出来は別にしても、それは一つの美点だと思う。低予算は時に、新たな表現を生み出す。本作における新しさは、この手のパニック映画において、敵が主人公を襲うシーンを一切見せなかったことだ。『ジョーズ』にも『ディープブルー』にも描かれていた、鮫が人間を食らうシーン。それを本作では、直接的には見せない。スリルを誘うBGMは確かにある。いっそそれすら無かったらとも思わないでもないが、かなり控え目ではあった。“サメ映画”というジャンルを更新したという功績は、それが怖かったかどうかは別として評価出来るのではないか。ただし、スタッフロールにおけるドキュメンタリー然とした場面は、端的に言って蛇足だったと思う。

ダニー・ザ・ドッグ
またぞろリュック・ベッソンが若手に作らせたと聞いても、もはや興奮とは程遠いニュースであはあるが、ジェット・リーのアクションが観られるのであれば、多少の期待はせざるを得ない。モーガン・フリーマンはもはや、そこにいるだけである種の避けがたい存在感を画面に定着させてしまうので、その演出については特に言うところもない。当たり障りのない、と言うことも出来るが、彼は彼でしかなかったという点は確認できた。
ユエン・ウーピンが振付けたアクションは今回、“暴力”という面をことさら際だ立たせていたように思う。ジェット・リーのアクションは、“効率=理性”から遠く離れ、瞬発的な凶暴性を主張していた。それは良いと思う。だけれども言うまでも無く、重力を感じさせないワイヤーアクションに“痛み”はなく、そればかりか、ワイヤーとは無関係の、決闘場で最初に戦うシーンですら、『マッハ!!!!!!!!』のほうが数倍上手かったと言える。どうしようもなく図式的なラストの敵に関しては、もう何も言うことはない。
キャストに救われる映画は、最終的には不幸なのではないか。そんな気がした。

ジェリー(爆音上映)
まず「爆音」について。「爆音」とは、爆発する大音量であるが、音と言えど、「爆音」は“耳で聞く”というレベルをはるかに超えている。認識を超え、感覚的に“体験する”ものなのだ。文字通り、全身で感じるという体験、それが「爆音」である。
このような実も蓋もないことは書きたくないが、今回は断言したい。『ジェリー』を「爆音」で、しかもフィルムで観られるという体験がどれ程貴重かは、観た者でないと絶対に分からない。よってここでは「爆音」体験自体に対する言及はせず、映画作品としての『ジェリー』にのみ、先に書いたレビューの追記という形で触れたいと思う。
『ジェリー』は、その表現の純粋形態に秘められた途方も無い可能性を感じさせずにはおかない。いや、“表現”は極限までそぎ落とされ、“表面”しかないのだが、だからこそ“見えてしまう”ことがあるのだと思った。重力、速度、風、音、無気力、そして絶望……それら見えるはずの無いものたちが、一斉に表面に立ち上がってくる。つまり、見える。それは例えば、タル・ベーラの『ヴェルクマイスター・ハーモニー』やモンテ・ヘルマンの『断絶』とどこかで通じ合っている気がしないでもない感覚である。今画面上にある以外のことについて、観客は一切を知らされない。それどころか、目にしている事物に纏わりつく“理由”や“経緯”なども、我々にはわからない。そしてそれは多分、そのような奥行き(外部)など予め無いのだ、と宣言する『ジェリー』においては、極当たり前の感想だろう。それを退屈だと感じ、つまらないと断じる自由もある。そう、全ては自由である。この超禁欲的な作品において私が最も反応したのは、二人の俳優の、カメラの、自然の、“自由な動きと音”なのだから。
今はその体験を、一先ず“感動”という言葉に置き換えておくとしよう。

リチャード・ニクソン暗殺を企てた男
もちろん、本作の主演がショーン・ペンであるという事実は、予めある種の先入観を植え付けずには置かない。さらに、消して悪くなかった『21グラム』で組んだ、いまや引っ張りだこのナオミ・ワッツが共演とくれば、一定の水準以上の出来だろうと予想するのも当然なのかもしれない。しかし裏を返せば、この曖昧に設定した水準こそが、“期待”を阻むこともある。だからこそ、予告編の段階で製作総指揮に名を連ねるアレクサンダー・ペインという名前に反応してしまった。
予告編で印象的だった、ショーン・ペンのストップモーション。それは、今まさに飛行機に乗り込もうとしている重要なシーンで、本編でも全くそのまま使われていた。しかし、もう見飽きたといったもいいくらい観ていたシーンにもかかわらず、衝動的に銃を撃っていくショーン・ペンはやはり何かが憑いているかのような迫力があった。そして、そこからラストまで一気に駆け抜けてく堂々たる演出。その無駄の無さに、監督の力量を確信した。

肌の隙間
本作がデビュー作となる新人・小谷健仁扮する秀則が、田んぼで捕まえた魚の頭めがけて石を振り下ろすシーンがある。4発も5発も殴られていくうち、魚の頭は変形し、血と肉のミンチと化していく。このシーンは、その一連の動作がワンショットで撮られていることと、何ら“劇的”な意味を与えられていないかのごとく、“ただそこにある”動作として放り投げられている気がして、戦慄した。魚の使い方はキム・ギドクの『コースト・ガード』に似ているなとも思った。弱者としての魚……
それほど多くのピンク映画を観ているわけでもないので、何の信憑性も無い全く個人的な印象に過ぎないが、ピンク映画におけるセックスシーンは、総じて悲しい。間違っても、昂奮とは結びつかない。“性”というよりむしろ“生”を感じるし、だからこそ、そこには“死”の匂いがこびりついている。
興味深かったのは、セックスシーンにおける、画面手前の草や木々の存在である。嘗て観たロマンポルノ的な、行為を隠す存在としてのオブジェとは何かが違ったのだが、それについては、残念ながら再見しなければわからない。

おわらない物語 アビバの場合
わが国において、トッド・ソロンズはこの先も一部の観客に向けた映画作家なのだろうか。この作品を観て、いや、過去の作品を観た上でも、トッド・ソロンズは決して異端的な作家ではなく、ただ、“普通の人間”が見過ごしている、いや、見ようともしていない世界のある局面を、真摯に描こうとしているだけなのではないかと、私はそう信じるに至った。
作術こそ違えど、『おわらない物語 アビバの場合』は(「回文」という原題も含め)、キム・ギドク『春夏秋冬そして春』のような普遍性を身に纏っている。その構造やスタイルがとかく語られがちな本作ではあるが、その核にあるものは非常にシンプルでわかりやすい。観るものを動揺させるようなショッキングな描写は、しかし、誰もが持つ感情へと緩やかに還元されていくような、そんな気がする。だからと言って安易な結論を出そうとはしないソロンズは、やはり極めて誠実だと思う。
8人のアビバの中で特に良かったのが、40歳を超えているジェニファー・ジェイソン・リーであった。この大胆極まりないキャスティングを含め、本作の出演者は誰もが素晴らしい。

溶岩の家
ペドロ・コスタの映画を観て毎度思うのは、彼が創る映画には何故か既視感がないということだ。過去の映画を参照させないように意識しているためか、あるいは結果的に何にも似ていないのか、それは定かではないのだが。
『溶岩の家』は、あえて言うなら『骨』に似ていないことも無い。が、やはり、これはこれでどこか違う次元に存在する映画のような気がしてならない。“違う次元”という言葉は、しかし、理解不能であることを意味しない。
では、『溶岩の家』は面白いのか、というすこぶる曖昧にして、ある種根源的とも言える問いを自らに向けてみよう。その時、私は映画に対し、これまで常に“面白さ”を求めてきただろうか、いや、今現在も果たしてそうだろうかと自問せずにはいられない。ここで確実なのは、少なくとも私は“驚き”を求めて映画を観てきた、あるいは、観ているのだろうということである。
そして、ペドロ・コスタは、確かに私を驚かせてくれる数少ない人物である。
『溶岩の家』には、長い長い横移動のシークエンスショットがある。そこに、何らかの“意味”や“思想”、あるいは“無意識”が込められているかどうかはわからない。しかし私は、間違いなくそのシーンに“驚いた”のだ。それは多分、感動と言っても良い様な気がする。

バタフライ・エフェクト
言われているほど斬新だとは思わなかったが、脚本は悪くない。どこが魅力なのか最後まで理解できなかったが、それでもアシュトン・カッチャーとエイミー・スマートの演技は安心して観られたと言える。多分にもれず、記憶を巡る物語である本作にもフラッシュバックが多用されるが、そろそろ、あの視覚効果的なフラッシュバックの表現から解放されないものだろうか。その存在が、作品にある種の安っぽさ(安易さ)を与えてしまうような気がするのだ。
とはいうものの、エリック・ブレス&J・マッキー・グラバーという二人の監督の名前は、記憶しておこうと思う。

エレニの旅
アンゲロプロスは、実質上初体験である。
冒頭近く、最初にエレニが住む村を映すカメラの流麗な動き、その村へと続く川を小船が滑走してくるまでのショット。息を飲むショットとはこのようなものだと思う。今、アンゲロプロス程に大胆不敵な人間はどれほどいるだろうか。
中盤から物語などどうでもよくなり、“境界線”(川であったり線路であったり土手であったり)が頭の中で抽象的な意味を拡散させていく。しかしそれも、あの大木にぶら下がる何頭もの羊の死体とそこから流れ出る血が川を形作る様を観て、吹っ飛んでしまった。
これがアンゲロプロスか……今はそのようにしか言えない。

デカローグ(3話・4話・7話)
本作については、10話全てを観た上でないと何とも言えないので、不本意ながらここでは割愛する。

受取人不明
前期キム・ギドク作品の、というより、私の中では今のところ一番評価しているかもしれない怪作。日本未公開の本作は、「韓流シネマフェスティヴァル」という、時流に乗っただけの軽い催しに組み込まれながらも、そんな軽さを強く拒絶するような狂暴な光を放っていた。
黒人との混血青年と受取人不明の手紙を出し続ける母、兄の玩具銃により片目を失った少女と彼女を救うどころかさらなる責め苦を与える薬中の米兵、混血青年をこき使う狂暴な犬の屠殺人、そして、少女に思いを寄せる内向的な少年……これらの人物は、言ってみれば韓国という国の底辺に蠢く獣である。彼らの、誠実で真摯な想いすら、不条理な不幸が容赦なくかき消していくだろう。たとえ死から免れたところで、一体何が変わるのか。
『受取人不明』には、キム・ギドクの“怒り”が随所で炸裂しているかのようだ。しかしだからといって、その“怒り”にはまるで温度を感じない。全てがただの出来事として、淡々と描かれていく。そう、この“引いた目線”こそが最も恐ろしいのである。その事実が、これまで同様、絵画的なショットを生み出す理由になると思う。
この救いの無い残酷な映画においても、キム・ギドクの作品はやはり美しいのである。

July 12, 2005 12:59 PM | 作品(短)評
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Comments

>監督

いやいや、あくまで本心を言ったまでです。
『ループゾンビ』、流石に東京では観られないでしょうね……ともあれ、成功を願っております。


Posted by: [M] : July 13, 2005 12:28 PM

>『おちょんちゃんの愛と冒険と革命』は、“面白い”と“面白くない”の垣根を根絶やしにしようとする凄い映画である。

この一文だけでも感涙です!!!
ありがとうございます!!!


Posted by: イカ監督 : July 12, 2005 09:33 PM
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