2004年12月31日

無題

いや〜雪ですねぇ……皆さん、大晦日をいかがお過ごしでしょうか。
こちらはもう連日飲んで飲んで飲まれて飲んで、おかげでお金がものすごい速度で、それこそ華厳の滝みたいに流れ落ちて行きますyo。普段、大して働いていない頭が、ここ数日はほとんど働いていません。ということは、映画評を書くのも困難なわけで……

などと大晦日も言い訳を連ねている私ですが、今年は100数十本の映画を観ました。このサイトを開設したのが5月の終わりで、それまでは手帳に文章を書いていたのですが、もちろん、誰に読ませるわけでもないそんな文章は多分に自己満足的なものです。ではどうしてこのようなサイトを立ち上げることにしたのか。
どうして、と聞かれてしまうと、やや答えに詰まります。何故なら、このcinemabourg*を開設することに、理由など無かったからです。“今年は何か新しいことを始めよう”2004年1月1日にそう思い立ったこと、その結果がこのサイトだった、というだけなのです。何とも盛り上がりに欠ける話です。

blog化以降、コメントやTBもだんだん増えてきまして、それは本当に嬉しい限りです。一本の映画に関する私の文章は、恐らく手帳に書いていたときと大して変っておらず、偏向的・自己満足的であることも承知しているつもりですが、blogにおいて重要なポイントは、一個人の(時には過剰に偏ることもある)意見を互いに表明しあえることにあるのでは、と思うわけです。映画作品を巡っては、さまざまな意見があってしかるべきでしょう。このようなサイトを訪れてくれる方たちは、しかし、どのような意見であろうと、映画に恋し、時に嫉妬し、時に激怒し、そして、やはり映画を愛しているのだろうという、いささかロマンティックな妄想を抱かずにはこのサイトも続けられないと思うのです。今年、cinemabourg*を訪れてくれた方には、その意味で感謝しています。そして、来年以降も変らぬご支援をよろしくお願いしつつ、朝から何気なく観始めた「踊る大捜査線」の特番を、結局最後まで見続けて時間さえも無駄にしてしまった駄目、駄目すぎる私の、今年最後の日記とさせていただきます。

『オールド・ボーイ』の作品評を待っていてくれるごく一部の方たち、今年中に更新できずすみません。明日以降、気合を入れて何本か書き挙げますので、しばしお待ちください。

さて、今日はこれから、今年を締めくくる最後の酒宴が始まります。いつもながら、“どうなることやら……”という気分で臨むとします。
それでは皆さん、よいお年を。

2004年12月28日

午前中から映画に打ちのめされるのも良いものです

今年も後4日ほどで終了します。
今日は仕事をする予定でしたが、昨日の段階で大分片付いたので休みました。朝一でジムに行き、11時からの『犬猫』を鑑賞。2回目でしたが、やっぱり「これは!」と思った映画は繰り返し観ないといけないな、と思いました。新たな発見どころか、強い確信に繋がることがあるからです。『犬猫』は本当に素晴らしい。地味ながら凄い映画です。私にとって、ほとんど完璧な映画かもしれません。作品評にも力が入る、かも。

折角平日なのに映画は一本にとどめ、その後は自宅の大掃除を。
軽く模様替えをしつつ、細かく掃除しました。生来何事も億劫がる性格にもかかわらず(基本的に家事が嫌いです)、“掃除嫌い”よりも“模様替え好き”という性格が勝ったようで、数時間かけて掃除&模様替えしました。そんな折に友人から電話が。「暇なんですけど…」と一言呟く友人を前に、「じゃぁ来れば」と返しました。
というわけで、後数分後に友人が飲みに来ます。先日日記にも書いた事故の、限りなく被害者に近い加害者です。すでにワイン1本空けていますが、再度2人で忘年会、といったところです。

明日は3回目の『オールド・ボーイ』です。
もうストーリーは頭に入っているので、ショットと編集に注目して観ます。

2004年12月27日

『エイリアンvs.プレデター』、映像的想像力と義務的約束事の間で

avp1[1].jpgこれまで、監督のポール・W・S・アンダーソンに、実はあまりいい印象を持っていませんでした。遠い記憶を辿ってみても、『イベント・ホライズン』に熱狂することもなかったし、『バイオ・ハザード』にいたってはほとんど絶句するほかありませんでしたので、流石に『バイオ・ハザードII アポカリプス』には付き合いきれず、本作もどうしようか最後まで迷っておりました。が、プレデターはともかくとして、番外編とはいえ『エイリアン』の新作とあればやはり観にいかない手は無いだろうという結論に至った次第です。
さて、そのような若干“引き気味”の姿勢で鑑賞した私ですが、果たして、最終的な印象は予想通り今ひとつ。SFとしても、ドラマとしても、百歩譲ってコメディとしても、残念ながら中途半端な出来だと言わざるを得ません。それは何故か。

映画において、私にはどうしても許容できないものがあります。すでにこれまでの作品評で何回か触れていますが再度繰り返せば、いかにも“映像派的(!)”なスローモーションです。アクションをただ引き伸ばすためだけの、そこにいかなるエモーションも伴わない美学的スローモーション…すでに『バイオ・ハザード』で辟易していたあの醜い画面を、『エイリアンvs.プレデター』でも見せ付けられることになるのですが、その最たるシーンは、フェイス・ハガーに関連した2つの画場面、すなわち、最初に飛び掛る瞬間と中盤でプレデターのブーメランにより真っ二つに引き裂かれる瞬間です。何故あのシーンで、フェイス・ハガーのすばやいアクションを“殺す”必要があったのか、理解に苦しみました。ゆっくりと卵が開き、その中で飛び出す瞬間をうかがっているフェイス・ハガーというおなじみのシーンは旧作を踏襲しているものの、次の瞬間、その速度は死に、アクションは引き伸ばされてしまいます。こういった場面に出くわすと「ああ、やっぱり…」と妙に白けた気持ちになってしまうのです。
ところでお決まりのシーンといえば、チェスト・バスターも忘れてはなりませんが、本作には3シーン程胸を突き破ってチェスト・バスターが飛び出してくるシーンがあったかと思います。私が注目したのは一番最初の被害者です。フェイス・ハガーに顔面を支配され気を失った彼女は、目覚めた後、未だ自分の体内に何かがいることを知りません。ましてや、それが胸を突き破って出てくるなんて。しかし、彼女は胸に激しい痛みを感じると、おもむろにきていたジャンパーのジップを下げ、あたかもチェスト・バスターが出て来やすいようにしてやるのです。赤いニット一枚となった彼女の服をいとも簡単に破って出られるなら、何故あそこでジャンパーのジップを下げさせたのか。それは不自然な印象を残しました。

やや話がずれてきたところでさらに脱線します。
そもそも効果的なスローモーションとそうでないスローモーションは、実は紙一重なのかもしれません。例えば私が敬愛するサム・ペキンパー。彼のスペクタクルとしてのスローモーションは、全てとは言えないにせよ、シーンに相応しいカットバックに加え、追うことと追われること、撃つことと撃たれることの間に、ある、確かな情動が感じられ、スローモーションはそれを引き立てる手段としてあったのではないかと思うのです。『エイリアンvs.プレデター』の全編を通して感じたものはそれとは対極にあり、とりあえずスローにしてみました的な小手先の(つまり映像的な)処理としてのスローモーションなのです。

閑話休題。スローモーションの話はこのくらいにして、もう少し内容を検証してみようかと思いますが、その内容とやらをほとんど持たないかのような空虚な本作には、ある“流れ”があります。それは“情”のような感情の流れです。そのせいか、“残酷さ”は微塵も感じられないのです。
まず最初に人間を(結果的に)救ったのはエイリアンのほうです。プレデターを目の前に身動きを取れない主人公=サナ・レイサンと、最後の止めを刺そうと腕に仕込まれた長いナイフを出すプレデター。そこへ、エイリアンがプレデターの背後から忍び寄り、これまたナイフのように鋭利な尻尾でグサっとプレデターを一突きし、脳をかじる。ああ、もはやエイリアンですら人間の敵ではなくなってしまったのか・・・まぁ流石にその思いは杞憂に終わるのですが、プレデターの方は後半、間違いなく人間を仲間だと認識します。そもそも、2chのスレッドに見られるがごとく、“プレデターは悪くない”のかもしれません。なかなか興味深いスレだったので引用すれば、純粋に狩を楽しんでいるだけで、非武装の人間や女・子供は襲わずに、負けを覚悟したら潔く自爆するのだと。これまでプレデターはそのように描かれてきたわけで、確かにそれは作品を観てきた人であれば誰もが思い当たる事実でしょう。だとするなら本作において、プレデターが病人を見逃したり、同じくエイリアンを敵として認識している人間と手を組んだりしても不思議はないのかもしれません。よって、“敵の敵は仲間”だとする共通認識の下に、その敵としてのエイリアンが一手に悪役を引き受けるという図式自体に関しては納得することにしました。
しかし、その図式が確立されてからラストまでの数十分にわたり、私はほとんど苦笑することしか出来ませんでした。「いや、これはそういう映画なんだよ!」と言われればそれまでで、であるなら、苦笑しつつ最後まで見続けることが正しい鑑賞態度なのかもしれませんが、最後に、ではどのような場面に苦笑を禁じえなかったのかについて記し、この文章を終えます。

例えば爆発炎上する地下基地を背に、プレデターと主人公=サナ・レイサンが画面手前に走り来るスローモーション。あるいは、プレデター的儀式(倒したエイリアンの酸性血液で皮膚に刻印すること)に耐えるサナ・レイサンとその儀式を施すマスクを取ったプレデターの表情。そして、力尽きたプレデターが仲間によって担架で運ばれていく場面。これらのシーンには、コメディとしての爆笑はもとより、ドラマとしての悲壮感の欠片も無く、やはり苦笑するしかないのです。しかしながら今にして思えば、ラストまで約束事に縛られながら、確かにポール・W・S・アンダーソンは良くやったと言えるでしょう。少なくとも、このような映画は今後も増えてきそうな予感もするので、「こんなジャンルは一切認めないゾ!」と声を荒げることは、やっぱり反動的なのかもしれません。

2004年12月26日

事故やら映画やら

やや更新が遅れてしまいましたが、連日飲み続けて三千里、といった感じで。
今週は、映画好き的な見地にたてばなかなか充実していました。観た映画は3本で、『エイリアンvs.プレデター』、『マイ・ボディガード』そして『スーパーサイズミー』です。が、映画以外で思わぬ事態が。実は私が同乗していた車がある中年女性を轢いてしまいまして。。。昨日の出来事ですが、現場検証やら警察での聴取やら、いろいろ面倒なことが多く、疲れ果てました。

そんなこんなで、伊豆に行くはずの予定もキャンセルし、そのおかげでドラクエをやっとクリア出来たのですから結果オーライといったところでしょうか。

『AVP』に関しては明日、他2本についても今年中には書きあげる予定です。なかでも『マイ・ボディガード』は予想以上の出来でした。今、何を観ようかなぁ・・・と考え中の方は是非。

ともあれ、年末年始、皆さんも交通事故にはくれぐれもお気をつけください。

2004年12月22日

『ふたりにクギづけ』、シニカルでなくラディカルなコメディ

ふたりにクギづけまずは『ふたりにクギづけ』が正式に公開されたことを素直に喜びつつ、配給したArt Portとシブヤ・シネマソサエティの勇気と情熱に乾杯したいと思います。“Salute!!”

『ふたりにクギづけ』は、現在ではシャム双生児ではなく結合双生児と呼ばれる双子の物語ですが、彼らはある一つの肉体でありつつ、別々の二つの肉体でもあるのです。決して不謹慎な意味ではなく、極めて映画的な題材ではないでしょうか。それを悲劇として、あるいは、サスペンスとして描くことができるなら、コメディにもなるはずじゃん! と、ファレリー兄弟が思ったかどうかは知りませんが、完成までの道のりは、やはり険しいものだったに違いありません。
ところで、そもそもが荒唐無稽な映画にしてみれば、例えば彼ら二人が全くもって似ていなくても、明らかに2対1の不条理なボクシングシーンを見ても、そこでは何食わぬ顔で肯き微笑むだけの寛容さは必要で、それはまた、セックスシーンにおいてあの体性(つまり女性上位ですが)から体位を変えたらマット・デイモンはわざわざベッドの反対側に移るのだろうか、それとも頭の位置を反対に変えるだけだろうかなどと勘ぐることも、はしたない行為として自重しなければなりません。このハートウォーミングなコメディを観て観客が取るべき態度は、ひたすら笑い、そして時に涙することだけなのです。

『ふたりにクギづけ』がシネマスコープで撮られていることは非常に重要だと思います。腰の部分で繋がった彼らは、全編の多くを横に並んだ状態で登場することになるのです。とりわけバストショット(オープニングのトレーニング場面やハンバーガーを作る場面等)ともなれば、やはり、シネマスコープ以外には考えられない気がします。マット・デイモンのメル友である中国人ウェン・ヤン・シーを乗せて3人でオープンカーに乗る場面でも、やはり、シネマスコープが生かされたカメラだったと言えるでしょう。さらに言えば、ラストのミュージカル場面も。

さて、そんなことを考えながらこの文章を書いている今、『ふたりにクギづけ』のいくつかの場面を思い出してみると、観ていた時には全くと言っていい程感じることが無かったものの、途方も無い真面目さと激烈なユーモアに支配された、かなり狂った映画だったということに気づかされます。しかしながら、コメディとして撮られた映画は、背景にどのような経緯や意味付けや社会性があろうと、笑えなければならないのです。私がこの映画を評価するのは、決して狂ったユーモアに感動したからではなく、上映中にただひたすら笑い、図らずも少しだけホロリとしてしまった結果、黒いユーモアだとか、官僚的差別意識の現前化と逆転現象だとか、そういった社会的な、ということはつまりシニカルな感情をいささかも抱かず、その“笑わせる”という至上命題を臆することなく追求し、結果的に、あまりにもラディカル過ぎる地点にまで達してしまっていたことに改めて感動したからなのです。ファレリー兄弟に常に付いて回る“タブー”という言葉、この言葉に纏わり付く諸々のイメージを全部取り払ったとしても『ふたりにクギづけ』は面白いし、またこの映画はそのように観るべきではないか、とすら思いました。

それにしても弟役のマット・デイモン。特に好きな顔ではないにもかかわらず、彼の出演作を決める選択眼は素直に賞賛したいと思います。『ドグマ』でケヴィン・スミスとバカをやっていたと思えば正統派(!)ハリウッド映画『ボーン・アイデンティティ』でアクションなど演じてみたり、スティーヴン・ソダーバーグとの仲間受けでお茶を濁したかと思えば、傑作と言うしかない『GERRY』を孤独に演じたりと。今後彼から目が離せないなどと言うつもりはありませんが、親友であり大根でもあるベン・アフレックとの差は開いていくばかりだなぁ、といわれの無い妙な寂しさを感じたりしてしまいます。

最後に、ファレリー兄弟の映画を特に贔屓目に観ていたつもりも無い私にとっても、『ふたりにクギづけ』はやはり傑作と言ってしまっても良いのではなかろうかと、若干心もとないながらも、そう思わせてくれる映画でした。

2004年12月20日

ある日の会話〜『ターミナル』を観て

:::caution:::結末に触れていますので、未見の方は読まないで下さい:::caution:::

ターミナル

---最近どうよ? 何かいい感じの映画あった?

とりあえず『ターミナル』初日行ってきたけど。当たり前だけどまぁ9割がた埋まってたよ。上映1時間以上前に劇場に入ったんだけど、高校生の集団がマック食べ初めて、参った・・・スピルバーグは未だ人を呼べる作家だってことでしょ。ああいうごく普通の高校生をね。

---で? やっぱりスピルバーグって感じの映画だったと? 

どうだろう・・・それはつまり、キャサリン・ゼダ=ジョーンズが魅力的だったかどうか、ということだと思うんだけど。後はキスシーンが良かったかどうか、か・・・

---スピルバーグは女優を上手く描けないってやつ? そもそも多くの人は彼の作品にそんなこと期待してみるかね? もっと単純な感動を求めてるんじゃないの?

単純な感動ね・・・まぁそう言われちゃ実も蓋もないけど、その“単純な感動”っていうヤツが一番厄介な代物だよ。それは凄く月並みな言葉で言い換えれば、“何も残らない”っていうことにならないかね。まぁそれはさておき、だ。トム・ハンクスとキャサリン・ゼダ=ジョーンズのロマンスには正直乗れなかったなぁ・・・キスシーンにおける逆光も含めてね。彼女はほとんど色情狂的な自分を受け入れているんだけど、その理由が“CAであること”っていうだけなんだよ。いつも飛行機に乗っているから、ホルモンのバランスが崩れて・・・的な説明だけしかなくてさ。脚本の脆弱さは否めない気がしたなぁ。それと、トム・ハンクスとのキスシーンの前に、彼女は別の恋人と数回キスする場面が出てきちゃうんだよね。もちろん、それらのシーンはサラっと描かれるだけなんだけど、やっぱりトム・ハンクスとのキスシーンが一つの見せ場なわけでしょ。ちょっと残念だったな。

---ということは、やっぱりスピルバーグは女性を描けないっていう結論か・・・

いや、でもね、やっと空港を出られたトム・ハンクスと一瞬すれ違う時、二人が会話を交わさなかったのは良かった。キャサリン・ゼダ=ジョーンズが軽く微笑みかけるだけでね。でもその後に続くラストがおざなりで、やっぱり脚本が弱いなぁと。

---ふ〜ん。そうそう、あの空港は全部セットなんだって? JFKを基本に、世界各国の空港のいいとこ取りで作ったらしいじゃん。プロダクションデザイン自体はどうだった?

言葉の壁と人間の冷たさという二重の壁にぶちあたったトム・ハンクスの孤立を描く時、お決まりだけどカメラはグーっと引いていくわけ。右往左往した挙げ句、呆然と立ち尽くす彼を捉えたままね。その超ズームダウンする画面を見て、あ、このセットは作り上げる前にカメラの位置とか動きを決めたんだな、と思ったわけ。始めに空港セットありき、というより、カメラや照明の要請でセットを建てたんじゃないかってね。ヤヌス・カミンスキーの仕事がとりわけ際立ってたっていう印象はないけど、確か冒頭近くでトム・ハンクスを仰角気味で撮っててさ。その時、あの強大なセットの天井が見えるんだけど、空港だからどちらかというと俯瞰気味のショットが多いんじゃないかって思ってたから、やや以外だったけどスケール感は大いに伝わったかな。リアルな店舗が35も入ってるのは圧巻だったしね。それぞれの店とトム・ハンクスのかかわりが小さなエピソードを紡いでいくあたりは悪くなかった。あの空港特有のボードあるでしょ? 出発と到着を知らせるあのボード。CGであれを再現した簡潔なタイトルバックも嫌いじゃなかったよ。

---う〜ん、あのセットはちょっと見てみたいなぁ・・・結局あれかね、泣けるのかね?

いやぁどうだろうねぇ・・・それぞれのエピソードは悪くないんだよ。嘗て蓮實重彦が盛んに訴えていたスピルバーグのホークス狂いだけど、例えばホークス的パートナーシップっていうのかな、脇役陣がなかなか良くてね、トム・ハンクスと彼らが段々打ち解けていくあたりは悪くないし、その最たるシーンが、キャサリン・ゼダ=ジョーンズとの即席ディナーに集約されててね。何よりギャグの基本的な反復が律儀に押さえられているのも好感は持てるんだけどさ。

---何だかノってきたな。だけど?

うん。小さなエピソードが束ねられた結果があのオチじゃ、やっぱり泣けないよ。少なくとも俺はね。って言ってもわかんないか・・・重要な小道具があってね、それは古いピーナッツ缶で、見た目的にいかにも説話的意味が込められてるっていう感じの缶なんだけど、その中身と各々のエピソードをもう少し絡めて欲しかったと。中身が明かされる場面とラストの描き方、それは台詞も編集も全部含めてなんだけど、その二者があまり有機的な関係ではなかったような気がするんだよね。ご都合主義は大いに結構だと思うし、アメリカ映画からそれを取ったら何が残るのかとさえ思うけど、『ターミナル』を非=現実的ファンタジーとして見た場合でも、やっぱりエモーションは炸裂せずに中途半端なままに尻すぼむと思う。決してつまらない映画じゃないんだけど。

---なるほどね。まぁスピルバーグだから全くつまらないことはないよね、多分。セットも見たいし、お前の言う小さなエピソードと反復されるギャグにもやや惹かれるから、来週にでも行ってみるかなぁ・・・

俺は観てないけど、『パリ空港の人々』と比べても面白いかもね。『ターミナル』より約30分程短いし。そう、『ターミナル』は若干長さを感じてしまったんだな・・・色々言ったけど、まぁ安心して観られる映画だとは思うから。あ、『トゥルーマン・ショー』あたりも観ておくといいかも。アンドリュー・ニコル繋がりでね。

2004年12月19日

情けなくも“DQ8>映画”な日曜日

昨日は『ターミナル』初日と『ふたりにクギづけ』2週目を鑑賞。本当はもう一本観る予定でしたが、朝まで飲んでいたため予定時間に起きられず、夜の予定もあったので、結局2本に甘んじることに。

今日は今日で、『エイリアンvs.プレデター』か『バッドサンタ』あたりを観るつもりでしたが、ちょっとだけやるつもりの「DQ8」がなかなかやめられず、おかげでLVが上がったり、モンスターロードSランクをクリアしたり出来たものの、やはり18:00から予定があるため映画を観る時間はとれそうにもなく、こうして日記を書いて誤魔化しております。

さて、本日は目黒にある昨年リノベーションされたホテル「CLASKA」にてクリスマスパーティー(めいた)集いがあります。私など呼ばれたクチなのですが、どうやら友人の友人がスウィートルームをリザーヴしたらしく、昨年泊まった時には流石にスウィートには泊まれなかったので、ちょっと楽しみだったりします。日曜日なのにガブ飲みの予感。やはり、昨日観た作品のレビューも明日になりそうです。

2004年12月17日

驚くべきラインナップ!〜カイエ週間

本格的な対策をとって以来、何事もなかったかのようにspamコメントがなくなり妙に勝ち誇った気分の[M]です。皆様、いかがお過ごしでしょうか。

先日何気なく覗いた東京日仏会館のHPに驚嘆すべき情報が掲載されていたので、今日はまずその話題から。「第10回カイエ・デュ・シネマ週間」と題した恒例の特集上映が来年1月7日より始まります。ゴダール、ストローブ=ユイレ、デプレシャン、アサイヤス、クリス・マルケル、クレール・ドゥニ等、すこぶる魅力的な作家陣に加え、蓮實重彦、樋口泰人、稲川方人、黒沢清、そしてジャン=ミシェル・フロドンらによるトークショーも予定されています。
アテネフランセにおける特集上映と違って、今回は金〜日でラインナップが組まれているというのも嬉しい限り。つい先日も、ストローブ=ユイレ特集上映をことごとく見逃してしまい、落胆していたところだったので。
で、何を観るのかですが、今のところ確実に駆けつけようと決めているのは2本。あの(!)ジャック・ロジエによる『トルチュ島に漂流した人たち』('74)と、先のカンヌでマギー・チャンに主演女優賞をもたらしたオリヴィエ・アサイヤス『CLEAN』です。前者は言うまでも無く、今年初めて観ることができた『アデュー・フィリピーヌ』に触発されて、後者は、日本ではやや呪われつつある(と最近まで思っていた)アサイヤスの新作をいち早く観たいので。トークショーも参加したいのですが、恐らく超がつくほど混雑が予想されるので、人ごみ嫌いなワタクシには無理かもしれません。同じくアサイヤスの『DEMONLOVER』は3月に正式公開されるようですので、そちらには必ず駆けつけます。何のトークショーも催されていないので、デプレシャンも出来れば観にいこうか、と今思いました。
全て日本未公開作品ですので、この貴重な機会を逃す手はありませんネ。

さて、明日からいくつか話題作が公開される模様。
とりあえず明日は、『ターミナル』を押さえ、『エイリアンvs.プレデター』は日曜日に。後はイカレポンティ・ファレリー兄弟の『ふたりにクギづけ』と2回目の『犬猫』を鑑賞予定。そして、ちょっと先になりますが29日に3回目の『オールド・ボーイ』を観て、今年最後のレビューを書き上げることになろうかと。何とか29日までやっていてくれるといいんですが・・・

最後に懸案の「DQ8」ですが、そろそろラストです。現在LV40。でも裏ダンジョンがあるので、来年まで持ち越しそうです。30過ぎて“裏ダンジョン”という言葉を発することになろうとは……私自身のLVは一向に上がる気配がありません。

2004年12月16日

『モーターサイクル・ダイアリーズ』に関する追記

かなり短時間で書き上げたからかどうかわかりませんが、先に書いた『モーターサイクル・ダイアリーズ』の文章には穴が多く、書きたかったことの半分くらいしか書けていなかったようにも。で、じゃぁ何が書きたかったんだ、ということになりますが。簡単に付け加えてみます。

■15ドルが物語を牽引していたこと

ロードムーヴィーであり青春映画であり冒険映画でもあった『モーターサイクル・ダイアリーズ』ですが、この15ドル分の紙幣という小道具(といってもそれは一瞬しか画面に映りませんが)が重要な役割を果たしていたことを指摘したいと思います。
ブルジョア的生活を送るガールフレンドから渡された15ドル。北米で水着を買ってきて欲しいからという彼女の思惑に、エルネストは最初、忠実足らんとします。傍らには、何とかその金を使ってしまおうと画策するアルベルトがいますが、エルネストはその要求をことごとくはねつけます。15ドルなど最初から無いものだと考えてくれ、と。
この15ドルはしかし、ある貧しい政治的逃亡犯の夫婦へと渡されるのです。その前に、エルネストは喘息で死の淵にいる老婆を前に、強い無力感を感じていました。そして、この夫婦に出会う辺りから、エルネストの思想が徐々に芽生えて行きます。その最初の行動が、炭鉱で働こうとする人々を奴隷のように扱う使用人にたいして行った投石として描かれていました。あの投石が、最初の政治的行動だったのです。夫婦に金を渡すシーンは描かれず、その事実は、旅先の船上でエルネストの口から明かされるのみです。始めから無いものとされていた15ドルは、エルネストの未だ漠とした思想の萌芽として、その役割を終えます。その間、アルベルトが幾度と無くその金に注目していたこともまた、重要な説話的行動だったのです。

■エルネストとアルベルトの別れ、そしてラストシーン

『モーターサイクル・ダイアリーズ』で描かれるエルネストは、まだチェ・ゲバラではありません。あくまでアルベルトの朋友・エルネストとして、映画は終わるのです。そして、チェ・ゲバラとしての彼は、もうこの世にいません。この2つの事実が、ラストシーンを殊更際立たせていたのではないかと思います。
大学を卒業するため帰国するエルネストと、研究者として残る決意をしたアルベルトの別れの場面は、飛行場でした。このシーンにおける2人の俳優は特に印象的でしたが(冗談を言ったアルベルトを軽く小突くエルネストというだけのさりげない別れ)、飛び立っていくエルネストを感慨深げに見送るアルベルトの顔が、次のシーンで、その生き様が無数の皺となっているために複雑で豊かな表情を見せるアルベルト・グラナード本人の顔に重なるのです。あまりに唐突なこの仕掛けが、しかし感動的なのは、実際に空を見つめるアルベルト・グラナードの目が、もはやこの世にはいない嘗ての朋友チェ・ゲバラを、間違いなく思い出していたと思わせるからです。彼が何を見ているのかは最後まで画面に現れませんが、その見えない画面に映っているのは、チェ・ゲバラという男だったのではないか、と思いました。『モーターサイクル・ダイアリーズ』にチェ・ゲバラが登場したのだとすれば、この見えない画面上にいたのだろうと。

またDVDで見直すと思います。いい映画でした。

【関連ページ】
『モーターサイクル・ダイアリーズ』、無謀な旅への果てしなき憧憬

2004年12月14日

『モーターサイクル・ダイアリーズ』、無謀な旅への果てしなき憧憬

モーターサイクル・ダイアリーズ「好きな映画はどんな映画?」
こんなことを尋ねられた時、ちょっと真面目に答えれば「世界を感じることができる映画」と答えると思います。それをごく単純に換言すれば、一先ず「ロードムーヴィー」という聞きなれた名称が出てくるのかもしれません。ヴィム・ヴェンダースによって一般化したこの“ロードムーヴィー”という言葉、私がこの言葉に惹かれるのは、まさしくそれが、旅すること自体を題材にした映画だからにほかなりません。旅と映画、この二者は、私にとってほとんどイコールで結ばれ得るものです。“世界を発見すること”、それは旅であり映画なのです。

ここで言う世界とは単なる景色だけを示すものではなく、人間や文化をも含んだ何者かです。流れを速める雲、全てを吹き飛ばすかのような強風、何かを守るようでもあり、全てを奪う時もある雨、そして太陽…すなわち“自然”と、それと関わらずには生きられない人間の動きや表情、そしてその人間が生み出した文化を観る事が、私にとって映画を観る事、そしてそのまま旅とも重なるのです。

旅には人間を根底から変えてしまう不思議な魔力が備わっています。私も21歳の時、ほかならぬ旅を通じて、その先の人生観が決定したといっても過言ではありません。そんな経験を持つ人なら、ウォルター・サレス監督の『モーターサイクル・ダイアリーズ』に少なからず共感と郷愁を覚えずにはいられないでしょう。「旅は若さを作る」と言ったのは『気狂いピエロ』のジャン・ポール・ベルモンドでしたが、本作を観て思うこと、それは、「旅は人生を変容させる」ということに他なりません。
そもそも、旅というものは無謀であればあるほど実り多いものです。金もない、荷物も最小限、あるのは漠とした野望だけ。しかし、この事実が真実だと私が確信するのは、やはり無謀な旅をした経験があるからなのです。ということはつまり、旅をしたことがあるかないか、その実体験の有無が、本作の印象を左右することは間違いないと思います。

さて、彼ら2人の旅は、書物の中でしか知らなかった世界を発見することでした。今、目の前に広がっている光景をその目に焼きつけ、文字通り体験することで世界を体に刻みつけたいという野望が彼らを動かしたのです。冒頭のナレーションにもあったように、それは決して偉業の物語ではなく、同じ大志をもった2つの人生が、しばし“併走”した物語です。チェ・ゲバラとして神格化された男を、偉人としてでなく、ある一人の迷える若者として描くこと。その傍らには、やはり同じように無鉄砲で人間味溢れるもう一人の男がいたという事実。この事実に対するウォルター・サレスなりの回答が、この“併走”という言葉に表れているのだと思います。
実際、年長者であるアルベルト無くしてこの旅はありえませんでした。発案者であり、ポデローサ号の持ち主でもあるアルベルトがこの壮大な旅で果たした役割は非常に大きい。アルベルトを演じるために体重を6kg増やして役作りをしたというアルゼンチンの舞台俳優、ロドリゴ・デ・ラ・セルナの素晴らしさは、ほとんどガエル・ガルシア・ベルナルを凌駕する程だったと思います。それが最もよく表れていたシーンは、自らの思想に目覚めたフーセル(アルベルトは親友ゲバラを最後までそう呼んでいました)がサン・パブロのハンセン病施設で催されたささやかな誕生日パーティ上で、演説をするシーンでした。演説をするフーセルを見つめる、あのアルベルトの複雑極まりない表情。尊敬と諦念が入り交ざり、微笑みと悲壮感を同時に漂わせたアルベルトのあの顔こそが、後に神話的存在になるゲバラの人生のターニングポイントを的確に表現していたと思うのです。

本作で描かれた景色の素晴らしさについては観て納得していただくほかありませんが、撮影監督エリック・ゴーティエの仕事ぶりはとても無視できるものではありません。私が最も興奮したのは、ポデローサ号とカウボーイ2人との競争シーンです。バイクと馬がまさに併走する様を、その速度を生かしたまま移動撮影で切り取って見せたあの映像には、西部劇のような躍動感が漲っていました。そのような“動的”場面もさることながら、“静的”なロングショットも本作には多く存在します。やはり、ここしかない!という部分での固定ロングショットの有無で撮影監督の実力がでるものだな、と改めて確信しました。

『モーターサイクル・ダイアリーズ』を真のロードムーヴィーだと言いたくなる最大の理由、それは、この映画が順撮りで撮影されたことです。つまり撮影自体が旅の行程そのものに重なるのです。本物のハンセン病患者の出演や、明らかに素人だと思われる人物の起用以上に私が感心したのは、旅の先々で初めて出会った人物や景色に対する感動が観ている私にダイレクトに伝わってきたからで、それはつまり順撮りが生み出したエモーションだったのだと。即興演出や現場における脚本の変更なども臨機応変に行われたのだと思います。この非=効率的アプローチをあえて選択したウォルター・サレス監督の手腕は、本作で完全に証明されたと思います。

上映後、私はしばし呆然としました。何故か過去に旅した時の光景が頭から離れずに。そして、こうして文章を書いている今は、旅への強い憧憬が頭の中で充満しています。次回作はゴダールやイニャリトゥらが参加するオムニバスだとか。期待が高まります。

【関連ページ】
『モーターサイクル・ダイアリーズ』に関する追記

2004年12月12日

再び映画生活へ

約2週間ぶりの映画館は恵比寿ガーデンシネマでした。が、『モーターサイクル・ダイアリーズ』4時過ぎの回を観ようと一時間前に着くも、すでにその回は完売。仕方なく3時間以上時間をつぶし、7時の回で鑑賞しました。公開からすでに2ヶ月以上経っているにもかかわらず相変わらずの混雑ぶりとは、流石ガーデンシネマのセレクションといったところでしょう。ウォルター・サレス監督には『セントラル・ステーション』に感動して以来ですが、『ビハインド・ザ・サン』を見逃してしまったので、せめてこの作品だけは、と思っていました。果たして、その出来栄えにも満足し、これはなかなか書き甲斐があるな、などと思いつつ食事して帰りました。

本日は迷った挙句『犬猫』を鑑賞。個人的な期待値と客入りが反比例することもしばしばですが、本作もまたしかり。もっと注目されていいはずの『犬猫』は予想通り素晴らしい映画でした。地味な映画ですが、兎に角上手い。演出も撮影も編集も上手いとしか言い様がありません。昨日の『モーターサイクル〜』とはまた違った満足感を胸に帰宅しました。こちらも近く文章にする予定です。

というわけで、何とか以前の映画生活に復帰できてよかったな、と。
体のほうも元に戻りましたし、「DQ8」もぼちぼち進んでいますし、今週も飲み会続きでお金が無いし、全然掃除できなかったので部屋が汚いし、今日こそは、と思っていた『オールド・ボーイ』の文章も、これからまた出かけるのでかけそうにないし、とだんだん悪いことばかり増えていくのでこの辺で止めておきます……

2004年12月10日

幻覚lovers

最近日記の更新が滞っているというご指摘を受けました。アクセスログというのは本当に正直なもので、更新頻度が下がれば、訪れるユーザーも目に見えて減っていきます。blog運営者として忌々しき事態です。そんな日常にも今日で一応のケリをつけたいと思います。

というわけで、ここ数日更新が出来なかった理由をば。
火曜日は、会社の飲み会に参加。西麻布で午前2~3時頃まで飲み続けました。実はこの時から喉の状態が芳しくなく、普段比較的ハスキーヴォイスな私ですが、一抹の不安がよぎりつつあったのです。扁桃腺がまた腫れるかもという不安が。
翌日からは数年ぶりに友人らと温泉に行ったのですが、そこでも当たり前のようにワインをがぶ飲みしつつ朝方眠るという、およそ“癒し”とは逆方向に突っ走っていく自分がいました。で、昨日の昼ごろ東京に戻ってきた直後から、猛烈な寒気が全身を支配し、しかし、夕方から出かける予定もあったので、以前医者に処方してもらったまま飲まずに取っておいた3種類の扁桃腺炎用飲み薬を流し込んで夕方までの数時間を睡眠にあてようと思いました。
38度を超えた辺りで、幻覚が見え始め、眠ることも出来ないまま朦朧とベッドでのた打ち回り、『ヴァンダの部屋』におけるヴァンダ・デュアルテもかくや、とばかりに激しく咳き込み続け、邪悪な空気が充満しているかのような部屋で一人孤独を極めつつ、何とか夕方まで寝ることが出来たのですが、目覚ましで16時ごろ起きた時に病状は全く快方には向かわず、結局、約束していた人達に連絡をし延期を願い、うどんを作って無理やり食し、再度幻覚と戦いながら寝ること数時間……

ここで私が高熱に犯された時に観る幻覚について簡単に説明すると、この悪癖は実は子供の時からで、初めて観た幻覚について、その時期は思い出せませんが、恐らく小学校低学年時に実家の布団の中で熱にうなされてボーっとした脳裏というかほとんど目前にみえてきた、ありえない光景でした。「飛行機…飛行機が見える!」と唐突に言葉を発した私を見た母親を、間違いなく凍りつかせたであろうことをおぼろげながら記憶しております。その他、新聞紙が襲ってきたこともありましたかね。で、今回見た幻覚というのは、ほとんど冗談のような光景なので言うのも躊躇われますが、なかなか眠ることも出来なかった私は、寝付くまで「DQ8」でもやろうかと思ったのですが、頭が全く働いていないので一行に進まず、ボーっとテレヴィ画面を長めている最中に意識が朦朧としてきて、そこで幻覚の世界へと誘われたというわけです。その世界は、まさに「DQ8」の世界。リアルの世界では一向に進んでいない「DQ8」が、今、脳内で確実に進行していて、あろうことか最後のボスキャラまで倒してしまったあたりから記憶が薄れ始め、そのまま深い眠りについたのです。この不思議と言うほか無い体験、恐らく誰も信じてはくれないのでしょうが、目が覚めた時、つけっぱなしのテレヴィに映っている「DQ8」の画面が眠る前と全く変わっていなかったという事実に気づいて、改めて「ああ、あれは幻覚だったんだなぁ・・」と確信したのです。30歳を超えて最初に見た幻覚が「DQ8」だったという事実……あまりの情けなさに、涙がこぼれそうになりました。

今朝はまだ本調子というわけではないにせよ、とりあえず熱は下がっているようです。相変わらず咳はありますが、ヴァンダほどではありません。今週末は2週間ぶりに映画三昧になろうかと思うので、今日は飲まずに眠るつもりです。日記もきちんと書いていこうと思いますから、今後のcinemabourg*にご期待いただければと思います。

2004年12月07日

地獄の業火で「texas holdem」を焼いてしまいたい

で、その「texas holdem」なる人物は一体誰なのかということですが。
「penis enlargement」と同じような輩といえばお分かりいただけるでしょうか。最近はこの、「texas holdem」氏からの熱烈な、あまりに熱烈なコメントにほとほと悩まされております。もっとも、内容をほとんど確かめることなく削除してしまうので、彼が言わんとするところなど微塵も伝わっていませんが。

初めてこのような外国人からコメントが来た時には、このサイトもそれなりに認知され始めたかと、甚だしくも勘違いしたものですが、流石に毎日10通も20通も40通も60通も来るようになると、もう怒りの感情しかわいてきません。私が使っているMOVABLE TYPEというblogアプリケーションは、コメントの削除がえらく面倒に出来ていまして、一つ一つ丹念に削除するしかないのです。この作業の非=生産性ときたら!! 

さて、どうしたものでしょう? いろいろ対策を調べているのですが、「これは効果あります!」という方法を実践されているブロガーの方、お力を頂戴できれば幸いです。

スパムコメントに地獄の業火を!!!!!!! メラメラ

2004年12月05日

自己嫌悪 vol.3

いよいよ年も押し迫ってきましたが、私の生活は、“年の瀬”とは何の関係もない次元でそれなりに忙しく、週末だというのに、昨日も今日も映画を観ていません。一本も映画を観ない週末なんて結構久々で、では映画に勝るほどの用事があったのかと問われれば、実に恥ずかしながら全くそんなことは無くて、諸事情のためここでは詳述出来ない些事やら、珍しく体の不調だとか、もはや書くことも憚られる「DQ8」だとか、まぁそんなこんなで。よって、先ほど曲がりなりにも“忙しい”などと書いてしまったことが、今になって妙に居心地が悪いです。映画が観られないだけで、ここまでいや〜な思いをするなんて・・・次の週末からは、気を入れ替えて再び映画中心の生活に戻りたいと思います。

というわけで特に書くこともないのですが、兎に角今は「DQ8」を終わらせないことには何も始まらないと言うか何というか。ここで思い出されるのは、嘗て、黒沢清氏が傑作「DQ2」を巡って書かれた、「はっきり言おう。RPGとは、断じてキャラを成長させるゲームではなく、プレイヤー自身が成長していくゲームなのだ。」(「映画はおそろしい」 青土社刊)という一文です。この文章を読んだとき、その絶対的な正しさに快哉を叫んだものですが、翻って今の私を見てみると、プレイヤーである私は、およそ“成長”などという言葉からは程遠く、むしろ率先して幼児退行化しているような気も。まぁ、この“幼児退行化”に関しては、以前に書いた日記でも書いたことですから繰り返しませんが、「DQ8」をプレイしている私は、懸念されたとは言え、やはり日常生活に相当な支障を来たしているわけで、だから、一日でも早くこの生活から解放されたいという、言わずもがなの馬鹿げた結論しか出てこないのです。
ただ、このような私の性格であるがゆえに、映画に対してこれほどの熱を放ち続けることが出来ているのだとも思うのですが。いや、言い訳はやめておきましょう。

さて、今週は『バッドサンタ』と『犬猫』を鑑賞予定。
そろそろいい加減に『オールド・ボーイ』の作品評を書き上げなければ、終わってしまいますね。ああ、もう一回観たひ・・・・・・

2004年12月02日

決してDQNでは無く・・・

特に書くことが無いからでしょ? という指摘をされれば言葉もありませんが、本日は現在私をグっと捉えて放そうとしないゲーム「ドラゴンクエスト8」について、あれこれ書いてみようかと思います。とはいっても、一応映画のblogである当サイト上で、“はぐれメタルの頻出地帯”だとか“ゼシカの萌える瞬間はここだ!”とかいう話題について書いたとしても、それは場違いだという以上に、映画が好きで当サイトに来られた方の失笑を買うことが容易に予想されますし、まぁ、だからといってすでに「ドラゴンクエスト8」を巡る何らか文章を書いた時点でやはり、失笑の対象になるやもしれないのですが、ここではあえて、「ドラゴンクエスト8」の“映画的瞬間”というこじつけを主に、文章を綴ってみたいと思います。

そもそも「ドラゴンクエスト」の魅力とは何なのか、という話です。が、そんなことを改めて考えてみたことがないのでわかりません。ただ、初めて「ドラゴンクエスト」をプレイした時に感じた“決定的な新しさ”は今でも覚えています。あれは確か、小学校高学年だったでしょうか。それまでのゲームという概念を覆された感覚、初めてゲームの主人公に同化したかのような錯覚等々、刺激と魅力に満ちていました。そしてその思いは、現在でも私がシリーズベスト1に選ぶであろう「ドラゴンクエスト2」において確信へと変わり、同時に熱狂へと昇華したのです。まだ子供だった私は、「ドラゴンクエスト2」に“人生の縮図”としての、喜びや哀しみ、正義、狂気、怒り、残酷、美、友情、邪悪、そして優しさを見てしまいました。後はもう、数年おきに発売されるシリーズを、ほとんど自分に課せられた義務であるかのごとく、プレイするに至ったというわけです。

だからといって、同じようにシリーズを重ねる「ファイナル・ファンタジー」を、私は全てプレイしているわけではありません。よく比べられるこの二者の決定的な違いについては枚挙に暇がありませんし、ほとんど好みとしか言いようがないでしょうが、それでもあえて言うなら、「ドラゴンクエスト」が孕み持つ“幼児性”をこそ、私は好んでいるのかもしれず、それは例えば、スピルバーグ作品のそれに通じるのだと密かに思っているのですが、まぁここでは置いておきます。とにかく、その幼児性に気づくこと、ということは、自らの(潜在的・顕在的な)幼児性を自覚した瞬間から「ドラゴンクエスト」の世界が開かれるのだと思うのです。よって、その世界を忠実に再現する鳥山明氏によるキャラクターデザインが重要なのは言うまでもありません。あくまで“ドット感”を残した世界…ひらがなの世界……。

昨日、進行中の「ドラゴンクエスト8」において、巨大化して井戸にハマってしまい出られなくなったスライムに遭遇しました。彼(?)は、本来ならば敵である主人公に向かって「助けてよう」と懇願します。ここですかさず「助けますか?」という問いとともに、「はい」と「いいえ」の選択肢が出る。物語上、あくまで素直に「はい」と答えてみると、巨大化していたスライムが数匹のスライムに分離し、彼ら(?)が嬉々として喜んでいる様子が伺えるのです。「人間にも親切な人がいるんだね。ぷるん。」とか「ありがとう。もう巨大化しないよう。ぷるん。」とか言うスライムたちを観ていると、妙に頬を緩めている自分に気が付いてしまう。そして改めて、ああ、これがドラクエだよな・・・と納得するのです。

最後に無理やり付け加えれば、今の時点で最も映画的だった瞬間、それは、4人目の仲間が出来る直前に起こった酒場での乱闘にあったのですが、かなり短かったにもかかわらずそのシーンは、ほとんどジョン・フォード的だったのではないかと。いや、これは無かったことにしてください。