2004年12月27日

『エイリアンvs.プレデター』、映像的想像力と義務的約束事の間で

avp1[1].jpgこれまで、監督のポール・W・S・アンダーソンに、実はあまりいい印象を持っていませんでした。遠い記憶を辿ってみても、『イベント・ホライズン』に熱狂することもなかったし、『バイオ・ハザード』にいたってはほとんど絶句するほかありませんでしたので、流石に『バイオ・ハザードII アポカリプス』には付き合いきれず、本作もどうしようか最後まで迷っておりました。が、プレデターはともかくとして、番外編とはいえ『エイリアン』の新作とあればやはり観にいかない手は無いだろうという結論に至った次第です。
さて、そのような若干“引き気味”の姿勢で鑑賞した私ですが、果たして、最終的な印象は予想通り今ひとつ。SFとしても、ドラマとしても、百歩譲ってコメディとしても、残念ながら中途半端な出来だと言わざるを得ません。それは何故か。

映画において、私にはどうしても許容できないものがあります。すでにこれまでの作品評で何回か触れていますが再度繰り返せば、いかにも“映像派的(!)”なスローモーションです。アクションをただ引き伸ばすためだけの、そこにいかなるエモーションも伴わない美学的スローモーション…すでに『バイオ・ハザード』で辟易していたあの醜い画面を、『エイリアンvs.プレデター』でも見せ付けられることになるのですが、その最たるシーンは、フェイス・ハガーに関連した2つの画場面、すなわち、最初に飛び掛る瞬間と中盤でプレデターのブーメランにより真っ二つに引き裂かれる瞬間です。何故あのシーンで、フェイス・ハガーのすばやいアクションを“殺す”必要があったのか、理解に苦しみました。ゆっくりと卵が開き、その中で飛び出す瞬間をうかがっているフェイス・ハガーというおなじみのシーンは旧作を踏襲しているものの、次の瞬間、その速度は死に、アクションは引き伸ばされてしまいます。こういった場面に出くわすと「ああ、やっぱり…」と妙に白けた気持ちになってしまうのです。
ところでお決まりのシーンといえば、チェスト・バスターも忘れてはなりませんが、本作には3シーン程胸を突き破ってチェスト・バスターが飛び出してくるシーンがあったかと思います。私が注目したのは一番最初の被害者です。フェイス・ハガーに顔面を支配され気を失った彼女は、目覚めた後、未だ自分の体内に何かがいることを知りません。ましてや、それが胸を突き破って出てくるなんて。しかし、彼女は胸に激しい痛みを感じると、おもむろにきていたジャンパーのジップを下げ、あたかもチェスト・バスターが出て来やすいようにしてやるのです。赤いニット一枚となった彼女の服をいとも簡単に破って出られるなら、何故あそこでジャンパーのジップを下げさせたのか。それは不自然な印象を残しました。

やや話がずれてきたところでさらに脱線します。
そもそも効果的なスローモーションとそうでないスローモーションは、実は紙一重なのかもしれません。例えば私が敬愛するサム・ペキンパー。彼のスペクタクルとしてのスローモーションは、全てとは言えないにせよ、シーンに相応しいカットバックに加え、追うことと追われること、撃つことと撃たれることの間に、ある、確かな情動が感じられ、スローモーションはそれを引き立てる手段としてあったのではないかと思うのです。『エイリアンvs.プレデター』の全編を通して感じたものはそれとは対極にあり、とりあえずスローにしてみました的な小手先の(つまり映像的な)処理としてのスローモーションなのです。

閑話休題。スローモーションの話はこのくらいにして、もう少し内容を検証してみようかと思いますが、その内容とやらをほとんど持たないかのような空虚な本作には、ある“流れ”があります。それは“情”のような感情の流れです。そのせいか、“残酷さ”は微塵も感じられないのです。
まず最初に人間を(結果的に)救ったのはエイリアンのほうです。プレデターを目の前に身動きを取れない主人公=サナ・レイサンと、最後の止めを刺そうと腕に仕込まれた長いナイフを出すプレデター。そこへ、エイリアンがプレデターの背後から忍び寄り、これまたナイフのように鋭利な尻尾でグサっとプレデターを一突きし、脳をかじる。ああ、もはやエイリアンですら人間の敵ではなくなってしまったのか・・・まぁ流石にその思いは杞憂に終わるのですが、プレデターの方は後半、間違いなく人間を仲間だと認識します。そもそも、2chのスレッドに見られるがごとく、“プレデターは悪くない”のかもしれません。なかなか興味深いスレだったので引用すれば、純粋に狩を楽しんでいるだけで、非武装の人間や女・子供は襲わずに、負けを覚悟したら潔く自爆するのだと。これまでプレデターはそのように描かれてきたわけで、確かにそれは作品を観てきた人であれば誰もが思い当たる事実でしょう。だとするなら本作において、プレデターが病人を見逃したり、同じくエイリアンを敵として認識している人間と手を組んだりしても不思議はないのかもしれません。よって、“敵の敵は仲間”だとする共通認識の下に、その敵としてのエイリアンが一手に悪役を引き受けるという図式自体に関しては納得することにしました。
しかし、その図式が確立されてからラストまでの数十分にわたり、私はほとんど苦笑することしか出来ませんでした。「いや、これはそういう映画なんだよ!」と言われればそれまでで、であるなら、苦笑しつつ最後まで見続けることが正しい鑑賞態度なのかもしれませんが、最後に、ではどのような場面に苦笑を禁じえなかったのかについて記し、この文章を終えます。

例えば爆発炎上する地下基地を背に、プレデターと主人公=サナ・レイサンが画面手前に走り来るスローモーション。あるいは、プレデター的儀式(倒したエイリアンの酸性血液で皮膚に刻印すること)に耐えるサナ・レイサンとその儀式を施すマスクを取ったプレデターの表情。そして、力尽きたプレデターが仲間によって担架で運ばれていく場面。これらのシーンには、コメディとしての爆笑はもとより、ドラマとしての悲壮感の欠片も無く、やはり苦笑するしかないのです。しかしながら今にして思えば、ラストまで約束事に縛られながら、確かにポール・W・S・アンダーソンは良くやったと言えるでしょう。少なくとも、このような映画は今後も増えてきそうな予感もするので、「こんなジャンルは一切認めないゾ!」と声を荒げることは、やっぱり反動的なのかもしれません。

2004年12月27日 18:00 | 邦題:あ行
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Comments

>puffさん

おかえりなさい。旅行は楽しまれましたか?
流石に3日くらいじゃ映画の禁断症状もでないでしょう。

「AVP」ですが、流石にもういいという感じがしますね。同じ監督だったら観ないでしょう。
「イベントホライズン」、確かにつまらない映画ではなかったと思いますが、なにぶん大分前なので思い出せません・・・サム・ニールの顔しか。

今日、犬猫2回目を観ました。あまりにも良すぎて、欠点が見つからないんです。こういう作品に出会うと、嬉しいと同時に何となくたじろいでしまう自分がいます。


Posted by: [M] : 2004年12月28日 19:40

ふふふ・・・
遂に観られましたね。
私もMさんと同じ感想です。
あのラストは、何だか「次回作を作ろうと思えば作れるよ」
と言っているような気がしてなりません。笑

「イベント・ホライゾン」
それなりに怖かった覚えがあるのですが
数々の過去の作品を彷彿させる場面があったような気が・・・


Posted by: Puff : 2004年12月28日 18:47
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