2005年08月29日
終わりゆく夏に…『こわれゆく女』と『阿佐ヶ谷ベルボーイズ』
暦の上ではもう秋、今週で8月も終わります。嘗てあれだけ嫌っていた夏が去っていくのをこれだけ名残惜しむというのも不思議ですが、日焼けした肉体が次第にその色調を薄くしていくのを日々感じるにつけ、嗚呼…と灼熱の海を思い描かずにはいられません。映画と引き換えとはいえ、今年は実り多い夏だったような気がします。
さて、映画を取り戻すための最初の週末だった先週末、まずは金曜夜のご報告から。
夜、自宅にてワインを飲みながら『ミリオンダラー・ベイビー』の文章を書いていると、唐突に朋友・こヴィ氏から入電。「今日、これから時間ありますか?」という彼の申し入れを快諾し、わが家に招待しました。彼は、私のためにわざわざ購入しておいてくれたイエジー・スコリモフスキーの傑作『出発』のリバイバルパンフを持ってきてくれたのです。さらに、相変わらず読書に余念のない彼は、まだ私が読んだことのない植草甚一氏の著作「映画はどんどん新しくなってゆく 植草甚一スクラップ・ブック (16)」を賞賛とともに紹介、プレゼントまで。甚だ恐縮した私は、「リュミエール」を2冊とイカ監督氏の処女作『ナショナルアンセム』のヴィデオを手渡し、何とかそれに応えようとした次第。
我々の映画話は尽きることなく、終電までの2時間足らずをほぼ喋りっぱなしで過ごし、いくつかの貴重な情報&提案をいただきました。一先ず、トニー・ガトリフの重要性は理解したので、今週あたり確認してみようと思います。こヴィさん、ありがとうございました。
ところで映画のほうはと言えば、土曜日にヴィデオで『こわれゆく女』を再見。前日にこヴィ氏が今月の「esquire」をリコメンドしていたので、早速購入したところ、ジョン・カサヴェテスの小特集があり、それを受けて観直したくなったというわけです。映画を観てあのように異様な居心地の悪さを味わうことはほとんどなく、ただ舌を巻きましたが、それに似たある種の居心地の悪さを最近どこかで味わったなと思って記憶を辿ると、先日ユーロ・スペースで鑑賞した『ある朝スウプは』のしかるべき箇所にそんなシークエンスがあったな、と思い当たり、それならということで、翌日の日曜日にはUPLINK Xで上映が始まったばかりの『阿佐ヶ谷ベルボーイズ』と『春の底』を鑑賞。『阿佐ヶ谷ベルボーイズ』は、『ある朝スウプは』の主演・廣末哲万(群青いろ 黒)が監督/撮影/編集/出演した最新作。今回は、脚本を高橋泉(群青いろ 青)が担当しています。
DVで撮影された45分の中篇である本作でもやはり、廣末哲万による繊細な演出には観るべき部分があり、題名から受ける楽天性とは間逆とも言えるある鬱屈した感情が画面を覆っているかのようでした。交通事故で“生き残ってしまった”上川(廣末哲万)が、死んだ三人の同僚の葬儀に行くかどうかを後輩たちと話しあうシークエンスの、あの陰鬱とした居心地の悪さ。これは前日に観た『こわれゆく女』のジーナ・ローランズが、夫であるピーター・フォークの同僚たちにスパゲッティを振舞うという名高い食事のシークエンス程ではないにせよ、何気なく観る者を撃つシーンであることに違いないでしょう。ラストの切り替えしと廣末哲万のクローズアップには奇妙な安堵感すら覚え、この1時間に満たない作品にこれだけ感情をかきむしられるとは思っていなかった私は、若干うろたえてしまったと言わねばなりません。
『ある朝スウプ』に感銘を受けた方は必見、と付け加えておきます。
さて話は変わりまして、懸案の『輝ける青春』に関して。
恐らく、すでに9/17までの全座席は売り切れてしまっていると思います。私が電話した土曜日の時点で、もう2日分しか空いていませんでしたので。その所為で、また平日に会社を休まねばならなくなってしまいました。まさかこれほど観客が押し寄せることになろうとは…まだご予約していない方は、急いで岩波ホールへ電話を!
2005年08月24日
イタリア映画によせて
別に『ニューシネマ・パラダイス』を再見したからというわけではありませんが、今、あらためてイタリア映画の魅力というか素晴らしさについて、考えたりしています。限定的ながら『輝ける青春』が劇場公開されていることや、たまたま上司から頂戴した「リュミエール」(1987-冬)が“映画大国イタリア”という特集だったことがその要因になっているような。
ここでふと思うのは、私の中のイタリア映画体験のほとんどはヴィデオによるものだったということ。同時代的に観ることの出来た監督など、本当に数える程しかいないのです。主要なところで先にあげたジュゼッペ・トルナトーレやベルナルド・ベルトルッチ、ナンニ・モレッティあたりでしょうか。つまり、90年以降にデビューした監督の作品を同時代的に発見することがほとんど無かったのではないか、と。
学生時代、私は多くのイタリア映画にそれこそ心を奪われました。といってもそれらは40年代後半以降の作品に限られ、初期のスペクタクル史劇もディーバ(女優)中心のスターシステムも全く知りませんでした。かろうじて“ネオレアリズモ”という言葉だけを頼りに、ヴィットリオ・デ・シーカやピエトロ・ジェルミ、そしてロベルト・ロッセリーニに辿りついたという感じです。その時すでに一連のヌーベル・ヴァーグ作品の何本かは鑑賞していたと思いますが、なるほど、後にヌーベル・ヴァーグに影響を与えることになるネオレアリズモと呼ばれた作品群は、それまで観ていたものとはどこか異質の生々しさがあったように思います。第二次大戦を教科書の上でしか知らない私にとって、それらはいささかも“リアル”ではなかったものの、その時初めて映画における“生”というか“のっぴきならない現実”を観たかのような錯覚に囚われたのです。アメリカ映画や香港映画には感じられなかった、映画の中の生。これが私のイタリア映画の強烈な印象としてその後も残り続けるのですが、まぁ言ってみれば若かったということです。
その後、ミケランジェロ・アントニオーニとフェデリコ・フェリーニ、ルキノ・ヴィスコンティそしてピエル・パオロ・パゾリーニへといたる過程は、当時心酔していた澁澤龍彦氏の影響をもろに被った形になり、今にして思えば、本来観るべき部分とは別の何かを見出そうと必至に足掻いていたようにも思え、まさしく若気の至り以外の何者でもありませんが、彼等の作品は良くも悪くも未だに私のイタリア映画観を決定付けているのだと言わねばならないでしょう。『赤い砂漠』の殺伐とした工場、『道』の海と叫び、『若者のすべて』の家族、『テオレマ』の聖性…これこそがイタリア映画だ、などとは声高には言えないものの、私がイタリア映画について思考する時には絶対に避けて通れない作品なのです。
先日、相棒のng氏に聞いてみました。我々はどうしてイタリア映画に惹かれるのか、と。彼は一言「人間そのものを描いているからじゃないかなぁ…」と。もちろん、その簡潔な言葉だけをこの文章の結論にしたいわけではなく、私とて未だにその疑問は解消されていないのですが、少なくとも、ある一つの指針にはなるかと思います。
今そのフィルモグラフィーの全てを制覇したい監督がいるのですが、そこに共通しているのが「マルコ」という名前。私の中では“3人のマルコ”として記憶されています。すなわち、マルコ・ベロッキオ、マルコ・フェッレーリ、そしてマルコ・トゥーリオ・ジョルダーナです。彼らの作品のほとんどが特殊な機会にしか上映されないのが現状ですが、その機会を逃さないことが当面の義務になるでしょう。
折角なので、10年以上ぶりに再見した『ニューシネマ・パラダイス』をもう一回だけ観直してみようと思います。実は当時見落としていた箇所というか、カット割りやらカメラの動きなどでいくつかの発見がありまして、今も驚きの只中にいるのです。私はこの映画を世紀の傑作だとか触れてまわる意志も義務もないのですが、それでもここにある叙情性は、それが映画に纏わるものであるだけに、決して貶める気になどなれないのです。若かりし頃、あるいは最近観てこの映画に心動かされた方のコメントなどいただければ幸いです。
ちなみに、嘗てシチリア島を旅した際、この映画のロケ地に赴こうと四苦八苦しましたが、結局は行かれずじまいでした。
2005年08月22日
映画は待ってくれない
とんとご無沙汰でした。1週間ぶりの更新になります。
すでに何度か触れている通り、ここ1ヶ月以上映画から遠ざかった生活をしていました。自分としてはそれほど深く思考することもなく、「夏だし…」という至極真っ当なようで実は曖昧な思いだけで劇場から遠く離れていましたが、事態はどうやら、私が思っていた以上により深刻な相貌を呈していたようです。
というのもこのところ、全くといっていいほどレビューが書けないのです。これは今までとはちょっと違う感覚といいますか、あまりにスクリーンから遠ざかっていた所為で、体から映画的な記憶や触覚の一切が流れ出てしまったかのよう。文字にしてみると、あまり深刻には聞こえないでしょうが、遅まきながらそれに気づいた時にはもう、今何をすべきなのかがわからなくなり、どんどん映画から取り残されていくようなオブセッションに悩まされる始末。そんなこんなで、当サイトを更新できるような状態ではありませんでした。
しかしながら、そんな状態だからこそ、映画を観続けるしかないのだという、当たり前の結論にいたりました。映画は決して待ってはくれませんが、こちらが猛ダッシュすればいくいらかその差を縮めることが出来るのですから。
というわけで、原点に立ち返るべく、この週末は久方ぶりの『ニューシネマ・パラダイス』に涙し、4度目の『サイドウェイ』に腹を抱え、『皇帝ペンギン』は駄目だと確信しながら、映画との距離を少しでも縮めていこうともがいてみました。夏の終わりと共に、自分の中に再び映画を取り戻すこと。そのように決意しつつ、今日のところはこの辺で。
最後に繰り返しますが、『皇帝ペンギン』はそれを一本の映画として観た場合、図々しく鼻持ちならない映画だと思いました。誰にも薦めることはないでしょう。
2005年08月15日
『バス174』は人間の闇を知らしめる
原題:ONIBUS 174
上映時間:119分
監督:ジョゼ・パジーリャ
本作はバスジャック犯に焦点を当てたメディア批評、ひいては、“サッカーとカーニバルの国・ブラジル”という通り一遍のイメージを粉砕するだけの力を持った国家批評として観る事ができると思います。
すでに『シティ・オブ・ゴッド』がブラジルの下層社会を暴いて見せましたが、あくまでフィクションであるそれに比べ、本作は、当時のテレヴィ映像をそのまま見せることで、観る者の“傍観者性”を殊更際立たせることになります。
ただし、ドキュメンタリーと言えど本作にも意図されたドラマが構築されていきます。バスジャック犯の知人や親類、生き残った人質たちの証言の断片は、次第に一つの主張に収斂されていくかのようです。
ラストは意図的にぼかされているものの、観客にはある種の決定的な結論が浮かぶのではないでしょうか。そして我々はあらためて思い知るのです。人間という生き物が、いかに醜く、そして恐ろしい闇を抱えているのかを。
詮無い思考、あれこれ
先週末は結局一度も劇場に足を運べずじまいでしたが、もしかするとこの夏最後(!?)になるかもしれない湘南に行くことが出来たので、致し方なしといったところ。どうしてこの夏はこれほど海に惹かれるのかということを考えても、大した結論は出ず、むしろ、何故これまでほとんど海に行かなかったのかという疑問に突き当たる始末。湘南から帰る車中で、ふとそのように思うのでした。
それにしても、海から帰る途中に必ずファミレスに行きたくなるのもまた疑問といえば疑問。普段行くことなどまず無いのに、どうしてか海帰りには立ち寄りたくなる場所。それが現在の私にとってのファミレスというものです。海で散々疲れた体が、様々な意味で味気なく無愛想な空間を欲するということなのでしょうか。
先週金曜日から昨日まで平均1リットル以上のワインを飲み続けている私の体は、今朝になってやっと悲鳴を上げはじめた模様。そんな中でも無理やりジムに行こうとする私の“脅迫観念”にも嫌気がさしますが、まぁこればかりはどうしようもないです。現在、軽いやけど状態の体と緩やかに液体化しつつある胃から腸にかけての鈍い痛みと二人三脚でこの日記を書いております。
さて、劇場には行かれませんでしたが、ただ一本、自宅にて十数回目となる『ジャッキー・ブラウン』を鑑賞しました。何故今『ジャッキー・ブラウン』なのか、と思われる方もいらっしゃるでしょうが、ニヤリとされる方も、あるいは。まぁもともと大好きな映画ですし、ちょくちょく観直したくなるので理由など無いといえば無いに等しいのですが、今回ばかりは、先日観た『運命じゃない人』を受けての鑑賞でした。といっても、別に両者を比較した上で何らかの論考をまとめようという気はなく、公開当時多くのタランティーノファンを黙らせた『ジャッキー・ブラウン』を褒める人間が周りにほとんど見当たらなかったのに、『運命じゃない人』の激賞ぶりは日を追うごとに加速しているという現状について、若干の疑問を感じたため。もちろん、時間軸の解体そのものを主題にした感のある『運命じゃない人』と、その方法論はデビューからほとんど変わっていないタランティーノが、あくまでブラックスプロイテーションムービーの女王パム・グリアーの強烈なあこがれのみで完成させた『ジャッキー・ブラウン』はある意味全く違う映画です。私は別にここで何らかの結論を出したいわけではなく、『運命じゃない人』を好む人には、あらためて『ジャッキー・ブラウン』を推薦したいという、ただそれだけなのです。まぁ、単なるこじ付けと言わればそれまでなんですが。
今週は何とか『皇帝ペンギン』を観たいな、と。どうやらこちらも目にする記事は絶賛に次ぐ絶賛なようで。皇帝ペンギンへの感情移入だけは何としても避け、あくまで一本の動物ドキュメンタリーとしての出来を観てきたいと思っています。
2005年08月13日
『旋風の中に馬を進めろ』(V)と『銃撃』(V)は、観ることでその凄さを実感してもらうしかない
原題:RIDE IN THE WHIRLWIND/THE SHOOTING
上映時間:ともに82分
監督:モンテ・ヘルマン
モンテ・ヘルマンにかかれば、すでに確立されたジャンルとしての西部劇をも解体し再構築されます。この視点に立てば、マカロニ(スパゲッティ)・ウエスタンやニューシネマ的ウエスタンの“相対的な新しさ”も色あせて見えることでしょう。
この2作品は、同じスタッフ・キャストで同時に撮影されました。製作総指揮であるロジャー・コーマンのいかにもB級的発想ですが、驚くべきは、双方に出演したジャック・ニコルソンによる脚本と、停滞と倦怠を画面に定着させたモンテ・ヘルマンの演出の見事なコンビネーションです。にもかかわらず、このあまりにも“早すぎた”2本の西部劇はほとんど黙殺されてしまいます。数年後に制作されることになるデニス・ホッパーの『ラスト・ムービー』ですら“早すぎた”のですから、モンテ・ヘルマンの“早さ”は尋常ではなかったのです。
西部劇的な対決や叙情、そして活劇性までも捨て去った結果、沈黙や停滞が画面に漂う。その反=劇的な“何も無さ”は、不条理ですらあります。であるがゆえに、これらの映画は『GERRY』(そういえば本作もベケットを引き合いに出し宣伝されていた)同様、決して面白くはありません。もちろん、“面白くはない”という言葉は賛辞に他なりません。
何も観なかったかのような透明性と突出した観念性。この感動を言葉にするのは難しい。だからこそ、この2本の西部劇は観られなければならないのです。
2005年08月11日
『毛の生えた拳銃』(V)を観るという圧倒的な体験
原題:毛の生えた拳銃
上映時間:70分
監督:大和屋竺
この魅惑的なタイトルについて考えてみても、思考はその都度宙吊りにされ中断してしまいます。“拳銃=男根”という誰もが思い浮かべるイメージでは、どうにも掴みきれないのです。麿赤児と大久保鷹の奇妙な言動や妄想、吉沢健という存在の(エロティックな)抽象性は、嬉々として観客を煙に巻いているかのようです。
鏡とスチールを用いた印象的な冒頭からラストまで、画面は躍動し続けます。ロデオにまたがるのが容易では無いように、躍動し続ける画面を脳に焼き付けるのもまた並大抵ではありません。初めて体験した大和屋笠監督作品の印象は、かように抽象極まりないもので、それが歯痒い。ただ、この作品を観て以降、猛烈に大和屋作品を欲しています。何故でしょう?
一先ず、現在観ることの出来る唯一の作品『荒野のダッチワイフ』を観、「大和屋竺ダイナマイト傑作選 荒野のダッチワイフ」を読むことから始めなければなりません。いつだって、このように途方も無い発見には焦燥感と後悔がついてまわるのです。
一言で言えば、圧倒的な映画体験。今はまだ、これ以上の言葉を紡ぐことは出来ません。
2005年08月09日
遠まわしな地元礼賛、ほか
昨日、仕事帰りにシネ・アミューズの前を通りかかったら、ただの舞台挨拶やトークショーでは考えられないほどのテレヴィカメラマンたちが、ビル1階を占拠していました。一瞬しか見えなかった彼らの表情には、うだるような暑さの所為でしょうか、一様に疲れの色が。はて、一体何の騒ぎだろうと2秒ほど考えましたが、すぐにどうでも良くなり、自分にとっては今晩何を食べるのかという間近に迫った問題のほうがよほど重要であったため、特に立ち止まることもなく、家路についたのでした。
結局、思考停止状態のままローソン購入した「からあげクン(レッド)」やら「ジャイアントフランク」やら、貧しさを極めた(いや、別にお金が無いわけでは…)夕食と赤ワインを舐めつつ、所謂「月9」を観るとも無く観ていると、さっき通ってきたばかりの、私の家から歩いて2分とかからない、とあるbarが出てきました。早稲田大学を中退した某女優がその見慣れたbarの扉を開けるという、ごく短い1シーンの後、そのbar店内が映しだされるのですが、もちろん、店内の様子はスタジオ内に設けられたセットです。というのも、その建物はえらく薄っぺらく、あのような奥行きのある店内にはなりようがないからです。その後、彼女がbarから出て、私の通勤路でもある旧山手通りをとぼとぼと歩くというシーンもありました。
へぇー、などと今更ながら驚くというのも可笑しな話で、すでに6年近くこの場所に住んでいれば、これまで幾度と無くドラマのロケ現場に遭遇したのですが、ただそれをあらためてテレヴィの画面で観るという経験が無かったというだけの話。そもそもドラマの類はほとんど観ませんし、いや、テレヴィ自体も、定期的に観ているのは朝の「やじうまワイド」くらいしかないのですから。
そして今朝、その「やじうまワイド」芸能コーナーを観ていて、昨日のシネ・アミューズ前における喧騒の理由がやっと了解されました。どうやら昨日は、同じビル内のシネ・ラ・セットにて、『リアリズムの宿』主演の若手劇作家によるトークショーがあり、その彼が、ちょうど数日前に報道された某「ロト6」CMの女優、というより、あるドラマを封印してしまったことで記憶さるべき女優といったほうがわかりやすいのかもしれませんが、彼女との熱愛発覚のニュースの当事者であったこと。それが昨日の、あの疲れたカメラマンたちの存在理由だったのです。確かに他人の色恋沙汰のために、ちゃんと撮れるのかも定かではない絵を求めて、暑い中劇場まで駆けつけなければならない彼らにしてみれば、あの表情も肯けるというもの。芸能リポーター曰く、彼は(案の定)報道陣の質問に一切答えず、すぐに裏口から帰ってしまったとのこと。どちらにも思い入れの無い私にしてみれば、これほどどうでも良い話もまた無いわけですが、つまり言いたかったことは、それでもこの目黒区だか渋谷区だか世田谷区だかわからないような町は、刺激的な様で実はそれほど刺激的でもなく、これはこれで好きなだなぁ、とまぁそんなことなのです。
そういえばかれこれ5年ほど前に、『冷たい血』(青山真治監督)という映画のヴィデオを観ていたら、やはり自宅から1分くらいの歩道が登場して、それには驚き、何故か妙に嬉しかったのを思い出します。いや、別にテレヴィを映画より下に位置しているわけでは決して無いのですが。そもそもが別モノですからね。
あ、観たことをすっかり忘れており触れずにいましたが、『ある朝スウプは』は鑑賞済みです。いくつか問題もありますが私は嫌いではなく、カメラ位置などかなり工夫&苦労したなと思わせるショットが多く、自主映画であれだけの作品が出来れば賞賛に値するのではないか、とすら思いました。
イカ監督、大阪で上映されたら是非観てください。とりあえず、貴兄にのみリコメンドしておきます。
2005年08月08日
2本のイタリア映画を2本のワインと共に
先週末は海へは行かず、かといって酒を飲む場が浜辺から渋谷に移っただけのこと、金・土・日と連日飲んだくれておりました。ただし、海に行かなかったのだからせめて映画くらいは、ということでdvdを含め3本鑑賞。
まずは『チーム★アメリカ ワールドポリス』ですが、このような作品に何故あれだけの人間が押しかけることになったのか、シネ・アミューズのあの混雑ぶりは、『誰も知らない』の時以来ではなかったかと。夏休みという時期的な問題なのかとも思いましたが、どうやらそれだけではなさそうな感じも。特に笑いどころでもないような、ただのタイトルバックが画面に出た瞬間に笑い出した数名の若造がいましたが、彼らのように“観ること”よりも“笑うこと”を最大の目的にしているかのような人種がいたのも、人騒がせなトレイ・パーカー&マット・ストーンの作品ならでは、ということなのかどうか。初体験だった私にしてみれば、何となく薄気味悪い光景でした。
まぁそれはともかくとしてこの映画、画面で展開されるギャグもバイオレンスもエロスも、それが人形であるからこそ笑えるのではないか、と。つまり、表情が豊かとは決して言えない、あの目の大きなマリオネットの顔がクローズアップになれば、全てがギャグとして機能してしまうということです。まぁそれでも要所要所で大いに笑ってしまったのもまた事実。特に印象的だったのが数回にわたり挿入されるオリジナル・ソングで、映画における特訓シーンなどでたびたび使用される“フラッシュバック”(8/9訂正:“モンタージュ”でした)という手法そのものを軽々と暴いた歌には笑いました。このたりのセンスには大いに共感します。
一応R-18ということですが、多分に漏れず、今回の成人指定にさしたる意味などないと、最後に加えておきます。
さて、近く鑑賞予定の『輝ける青春』(マルコ・トゥーリオ・ジョルダーナ監督)への準備として彼の旧作を観直そうと思い、TSUTAYAにて『ベッピーノの百歩』を、ついでに未見だった『ぼくの瞳の光』(ジュゼッペ・ピッチョーニ監督)もあわせてレンタルしました。
2作とも、すでに友人の熱いリコメンドを受けての鑑賞となりましたが、私の評価も彼らと同等、あるいはそれ以上かもしれません。『ベッピーノの百歩』は所謂シチリアマフィアが描かれつつも、それは主題ではなく、あくまでマフィアとの戦いに身を投じた実在の青年・ベッピーノの人生に焦点が当てられています。ジョルダーナ監督が描く“家族”と“歴史”がおぼろげながら掴めた様な気がします。後は『輝ける青春』を観るばかりです。
もう一本の『ぼくの瞳の光』も『ベッピーノの百歩』同様、ルイジ・ロ・カーショが主演していますが、この俳優が本当に素晴らしく、言葉少なげに不器用な青年の心情を見事に表現していることに感動。何故だかは説明出来ないのですが、本作にはナンニ・モレッティの映画を観ているような感覚も。どなたかそのように感じられた方はいませんでしょうか?
それにしてもやはりイタリア映画はいいですね。私はイタリアという国に対する思いがあるからなのかもしれませんが、それを差し引いても、イタリア語は聞いているだけで心地よい言語だと思います。毎年開催される「イタリア映画祭」にも、本来であれば積極的に参加しなければならないところですが、私はどうもあの朝日ホールが苦手で、つい遠ざかってしまいがちです。まぁそれも一人で観ようとするから気が進まないのかもしれず、であるなら、次回からはng氏かこヴィ氏を誘って参加出来ればと思います。お二人とも、その時は宜しくお願いします。
2005年08月04日
『輝ける青春』公開中とは!!!
と、あくまで孤独に驚いていますが、現在岩波ホールで『輝ける青春』が公開されているんです。昨日、後輩に「知ってます?」などと聞かれて初めて気づいた次第。もっとアンテナを張らなければならないなぁと反省。すでに公開から1ヶ月近く経とうとしています。
映画の詳細については公式サイトをご覧いただければと思いますが、昨年の「イタリア映画祭」で上映され、カンヌでは「ある視点部門」でグランプリを獲った本作、上映時間が6時間6分という長(超)大作です。
現在、「イタリア映画祭 傑作選」と題されたdvdボックスが発売されており、そこには『風の痛み』『ベッピーノの百歩』『ぼくの瞳の光』の3本が収録されていますが、マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督作はこれまで観る機会を逸し続けていました。今回『輝ける青春』を観る前に、最低でも『ベッピーノの百歩』だけは観ておかねばなりません。今週中に観られればいいのですが・・・とにかく『輝ける青春』は絶っっっっっ対に観ます。
というわけで、「必見備忘録 8月編」もこっそりと更新。
追記:ng殿へ
良かったら一緒に行きませんか? 貴兄なら絶対に後悔しないはずです。
2005年08月03日
「74年の世代」との感動的な出会い
『運命じゃない人』の中で、30歳過ぎたら劇的な出会いなどない、みたいな台詞がありました。これは異性との出会いについて語られた台詞ですが、同じことが同性についても言えるのではないでしょうか。事実私に関して言えば、普段付き合いのある友人は、ほとんど高校時代の同窓生数人に限られてしまっているし、例えば誰かと新たに知り合う機会があったとしても、10数年来の気心しれた連中と同じような関係性を築くことは困難を極めると言わざるを得ません。
普段は一人で居ることが圧倒的に多いのだし、硬直した人間関係にとりわけ不平を感じることも無く日々暮らしてきた私ですが、しかし、サイトを開設したことによって、ある2人の重要な同士というか強敵(ここではあえて「とも」と読みます)に出会ってしまいました。2人とはmixiを始めてすぐに意気投合しました。もちろん、その媒介となったのは映画にほかなりませんが、驚いたことに彼等とは年齢が同じだったという事実もまた、我々を結びつけた大きな要因だったのではないかと思うのです。
その内の1人である通称・イカ監督氏とは、つい1ヶ月程前に顔をあわせました。いや、私が一方的に見た、といった方が正確でしょう。よって一言も言葉を交わすことが出来ず、それについては大いに後悔しましたが、彼とは次回の東京上映の際にでも再会し、是非話をしてみたいと思っています。
さて、ではもう一方であるこヴィ氏ですが、実は昨日会うことが出来たのです。何故急にこのような展開になったのかについては、つい先日書いた記事のコメント欄を見ていただければと思いますが、まぁそんなこんなで連絡を取り合い、渋谷で飲むことになったのです。
指定された南口にあるとあるカフェで彼を待つ間、そういえばこんな風に会ったことも無い同性を待つなどという経験はこれまでなかったなぁなどと考えてしまい、いったいどのように接したら良いものかと若干の不安が無かったわけでもなく、しょうがないので「ユリイカ」の最新号を読みながら早々にビールを流し込んでいました。
がしかし、こヴィ氏がその場に現れ握手を交わした瞬間、それまでの思考の全ては溶解し、誤解を恐れずに言えば、彼との間に同時代的な感性の完全一致を感じ取ってしまったわけで、以降、我々の尽きぬ映画への思いに始まり、知らず知らずの内に、愛やら人生やらの話まで極めて自然にシフトしていき、その内目の前にいる男性が何だか旧知の友人のようにも思えてきた次第。無論、あの限られた3時間強という時間の中で彼を理解しつくせたわけではないし、それは彼とて同じだとも思うのですが、かように錯覚できるということ自体を私は“奇跡”と呼びたいし、その奇跡は、まさに映画という得体の知れぬ存在が呼び込んだに違いなく、同時代的にほとんど同じような映画体験をし、恐らく同じ劇場で時間を共有したことも一度や二度ではないだろう彼との関係性は、まさにその3時間強で決定付けられたような気がします。まぁとどのつまり、非常に幸福な体験だったということです。
ワインのデキャンタを3本空けていい気分になった我々2人は、関西在住のためその場に居合わすことのなかったイカ監督を加えた「1974トリオ」なるものを結成。今後我々がどのような付き合いになるのかは、別れ際に再度交わした固い握手が何より雄弁に物語っていたと思います。
嘗て蓮實重彦氏が唱えた「73年の世代」という言説を始めて目にしたとき、その言説の荒唐無稽ともいえる強引さに舌を巻きながらも半分は引き気味だった私が、今、「74年の世代」という幻想といえば幻想を半ば信じてしまっているのですから、我ながら出鱈目だなぁと思いますが、ある時ある場所で、自分と似た、というよりも、異常なまでのシンクロ率を示すような人間はやはり存在するのだと、ここでは強引に結論しておきます。
2005年08月01日
事件だ!!!
土曜日、何気なく入ったユーロスペースで私は、“事件”に遭遇しました。普段は最低でも上映開始の40分前には劇場入りするのですが、その日は時間を間違えてしまい、結果的に15分前の到着に。思えば、会場であるユーロスペース1の座席がほとんど埋め尽くされているのを目の辺りにしたときにその予兆を感じ取るべきだったのかもしれません。しかし、ほんのささやかな“期待”に促されて来ただけの私のような鈍感な人間には、そんな予兆を察知するだけの繊細さなどありはしなかったのです。
後ろの方にポカンと空いている座席を見つけすぐさま滑り込むと、程なく上映が開始されたのですが、以降の98分間、私はスクリーンから片時も目を放す事ができず、しかし上映中、2つ隣の席で手を叩きながら大声で爆笑していた男性が、その恋人と思しき女性に何度と無く小声で囁きかけている声が音響とは関係なく耳に入ってくるのに腹を立て、さらにそんなバカのために一瞬でも気をそらしてしまった自分の集中力の無さにも腹を立て、もうまったく驚きやら歓喜やら怒りやらがない交ぜになったような気持ちのまま上映が終了してしまい、その言いようの無い感動的なパッションを何とか言葉にしようと、同行した相手に対し「これは事件だ!」とか言いながら興奮気味に劇場を後にしたのでした。
先日、当サイトにおいてちょっと引き合いに出してしまったこの映画、その時私は、まさかこれほどまでの映画とは思っていませんでした。確かにジャ・ジャンクーの『世界』とは全く異なるベクトルを指す映画です。しかし今、この映画を観ないという選択ほど愚かなこともないと断言できます。三池崇史氏も控えめながら絶賛していましたが、本当に小さな映画なのです。しかも、事件らしい事件は何も起こらない。にもかかわらず、これだけの映画にしてしまった内田けんじという監督、ほとんどマジシャンだと言えるでしょう。
今、当サイトを見ていただいている皆様、一刻も早くこの『運命じゃない人』という映画を観てください。嘗て私は『犬猫』を大絶賛しましたが、本作はそれにも劣らぬ映画だと思います。
必見備忘録 8月編
今月もまたスローペースにならざるを得ないかと。まだ後数回はシーサイドドリンカーと化すでしょう。
■『輝ける青春』[上映中]
(岩波ホール 11:00〜17:40)
■『アイランド』[上映中]
(渋谷TOEI2 10:30/13:20/16:10/19:00〜21:30)
■『リンダ リンダ リンダ』[上映中]
(シネセゾン渋谷 11:00/13:35/16:10/18:45〜21:00)
■『チーム★アメリカ ワールドポリス』[上映中]
(シネ・アミューズ イースト/ウエスト 10:00/12:00/14:20/16:40/19:00)
■『ターネーション』[8/6〜]
(シネ・アミューズ イースト/ウエスト 10:55/12:45/14:55/17:05/19:15〜20:50)
■『ある朝スウプは』[上映中]
(ユーロスペース 21:10〜22:50)
■『皇帝ペンギン(字幕版)』[上映中]
(恵比寿ガーデンシネマ 11:30/13:30/15:30/17:30/19:30〜21:15)
■『ヴェラ・ドレイク』[上映中]
(銀座テアトルシネマ 10:50/13:30/16:15/19:00〜21:15)
■ソビエト映画回顧展05[8/20〜911]
(三百人劇場 詳細はこちら)
『運命じゃない人』のような映画を観てしまうと、『アイランド』を観る事を躊躇いもしてしまうのですが、ヨハンソンのヨハンソンらしからぬ姿を観るのもまた一興かもしれないという、まぁそんな理由で。
『リンダ リンダ リンダ』ですが、実は山下敦弘監督はすべて未見。その噂は聞いておりますので、本作を観てその恐るべき才能とやらを確かめたいと思います。
『チーム★アメリカ ワールドポリス』に特に興味はないのですが、恐るべき手間をかけてあのように壮大なバカをやってしまうということに対するある種の尊敬の念から。
『ターネーション』は昨年の東京国際映画祭で観ておりますが、最近やたらと予告編を観るので。いや、実は最初に観たときからもう一度観ようと決めておりました。
そして最も期待しているのが『ある朝スウプは』。チラシのみでの判断になりますが、なにやらただならぬ作品の予感が。今月唯一のレイトショーが自宅近くで良かったです。
『皇帝ペンギン(字幕版)』はペンタ君ストラップをどうしても欲しい、からではありませんが、嘗て『ディープ・ブルー』でコウテイペンギンの健気さに打たれたことと、この手の動物ドキュメンタリーの形式=フォルムに変化が見られるのか、あるいは見られないのかを確認するため。
『ヴェラ・ドレイク』は非情に観たいのですが、銀座なのでわかりません。
最後に、今月は「ソビエト映画回顧展05」という大掛かりな特集上映があります。目当てはレフ・クレショフやアレクセイ・ゲルマンあたり。ピンポイントで狙い撃ち出来ればと思います。