2005年02月27日

思うに任せられないのが人生=映画なのです

いやぁ……なかなか上手くいきませんよ、人生は。いったい何を信じればよいのやら…
何より残念なのは、私の救い難い“頑なさ”にあると言えましょうか。本日は、そのチラシを手にしてから随分と長い間待っていた金綺泳(キム・ギヨン)の『下女』を映画美学校にて鑑賞する予定でした。滅多に観られない作品ですから、今日という日を、それは楽しみにしていたわけです。今日だけはあらゆる予定をキャンセルするくらいの意気込みで…

13:45の回を観ると決めていました。日曜日の午後、降りたことの無い京橋を彷徨うには、この時間帯をおいて考えられませんでした。これは専ら私の個人的な嗜好性、というよりもいささか不器用というか非=柔軟な思考に拠るのですが、誰かに理解されることは難しいと思うので、詳述はさけます。とにかく、『下女』を観るには、この回以外は考えられなかったのです。

さて、今朝は昨日からの充分な睡眠により快適に目覚め、朝食も過剰なまでに摂取し、万全のコンディションで渋谷から京橋に向かいました。果たして、12時を少し回る時間には目的に映画美学校に到着したのです。「完璧だ…」私はいつものように、心中で勝利(とは、だが、何に対する?)を確信し、初めての劇場に入る時そうなように、多少緊張した面持ちでドアを開けました。

すると、ドアの向こうには予想だにしなかった人ごみが! 瞬時に危機を察知した私は、足早に即席の受付カウンターに駆けつけ「『下女』当日券、13:45の回を」と、やや強張った口調で受付嬢と思しき女性に詰め寄りました。彼女がこちらの切羽詰った表情にやや気後れしつつも落ち着いた口調で「すみません、すでに13:45の回は売切れてしまいまして……18:20の回であれば…」と言いかけたところで、「じゃあいいです…」とほとんど絶望に暮れた私は答えるほかなく、ここで普通であればそれほど観たい映画であれば18:20のチケットを迷わず購入すべきだろうという意見もあるのでしょうが、何故か自分でもコントロールが出来ないほど理不尽に頑固な自分を発見してしまう時がたまにあって、今日がまさにその日であったということなのです。一時間半も前に到着してチケットが取れない映画のために、あと5時間以上時間をつぶすことなど私には出来なかったのです……

足早に映画美学校を去り、意味も無く銀座方面に向かう私は、無論、後悔の念に苛まれました。あまりにも早計だったのではないか、そう簡単に観られない映画なのに…と。しかし、映画との出会いは縁に近い部分もあって、こちらが強く望んでも傑作が向こうから近づいてこないように、途轍もない傑作がすぐそこにあっても、何らかの理由で、その短い距離が埋まらないという事態もあるのです。

だから映画はやめられない。
本日言いたかったことは、結局はこういうことなのです。

:::追記:::
というわけで“失意のダウンタウン”にある今現在、『ソン・フレール』に関するテクストもなかなか進んでいません。いつもながら大した文章ではないのですが、一応現在進行中ですので、もう少しだけお待ちください。

2005年02月25日

これは“終わりなき日常”なのか?

devil may cry3大分落ち着いたと思っていたコメントスパム攻撃。
調べうる限りの有効策を講じた結果、確かに日に数十通という攻撃からは免れたものの、敵も天晴れというべきでしょうか、その対策を潜り抜ける術を日々考えている様子。最近はまたポツポツとコメントが来るようになってしまいました。ここまでくると、怒りを通り越して笑うしかないのですが、そんな時、新たなる刺客が。
コメントが駄目ならトラックバックだ! と言わんばかりのトラックバックスパム攻撃。おいおい、こればかりはどうしようも無いんじゃないのかい? と諦めかけもしたのですが、困った時のGoogle頼み。やはり同じように困っている人間はいるのですね。早速簡単な対策を講じて以降、今のところ攻撃の手は緩んでいるようですが、またすぐに私を悩ませる手段に訴えてくるのでしょう。

そんな詮無い日常を送っているワタクシ、肝心の映画のほうはというと、昨日渋谷TSUTAYAの会員向けメールマガジンが届きまして、今日から日曜日までレンタル半額とか。このところ全くといっていいほどヴィデオ・dvdの類を観る事がなくなってしまって、週末は劇場通い、それ以外はレビュー書き(そんなに捗っているようには思えないというご意見には耳をふさぎたいと思います)に追われる日々なのですが、明日は大嫌いな恵比寿ガーデンシネマに『ビフォア・サンセット』を観にいく予定ですし、いい機会ですから会社帰りにでも『恋人たちの距離』を借りて明日に備えようか、と。
未だ『パッチギ』さえ観られていないのですが、明日は恐らく一本のみの鑑賞、日曜日は死んでも外せないキム・ギヨンの特集上映がありますから、来週以降に回ってもらうしかありません。

ところで、来週の月曜日に生まれて始めて手術をすることになりました。
失笑を回避する意味でも詳述は止めておこうと思いますが、病院というものが大嫌いな上に、先日鑑賞した『ソン・フレール〜兄との約束〜』が今の自分にとって殊のほか応えたということもありまして、現在、情けなくも暗澹たる思いに囚われております。各種検査、及びオペの結果に何の問題もなければ、この暗い話題を笑い話として記することもあるかと思います。

『ソン・フレール』に関する文章は、日曜日までには何とか。

:::追記:::
映画の敵と知りながらも、またぞろ性懲りもなくゲームを購入してしまいました。
『ドラクエ8』以降、もう当分ゲームはやらないぞと誓ったあの日。あれはいったい何だったのでしょうか…但し、今回はロールプレイングゲームではなく、単純明快なアクションゲームですから、日々長時間テレヴィの前に縛り付けられるといった事態だけは避けられています。現在の暗鬱たる気分の解消に一役買ってくれているというだけで、ゲーム内のクレイジーな主人公に擬似的にでも自己同化させる意味はあると思っております。
っていうのはウソですけど。

2005年02月22日

『マシニスト』への高い期待は…

マシニスト映画好きであれば、『レイジング・ブル』や『アンタッチャブル』におけるロバート・デニーロの変貌振りは未だ記憶に新しいと言えるでしょうが、役柄のために体重を増減させるという行為は、今となってはそれほど驚くに値しない現象なのかもしれません。もちろん、その行為自体の“異常さ”は年月と共に薄れることはないにしても、問題はその頻度にあるかと。ついでに言えば、増減させる数値自体もインフレ傾向にあるのでしょうか、『キャスト・アウェイ』のトム・ハンクスが25kg減量したかと思えば、今度は30kgですか…。もともと太ってはいなかったクリスチャン・ベールの不気味な“鶏がら”ぶりは、確かに『マシニスト』の宣伝効果に一役買っているようです。しかし、果たしてそれはこの映画にどれほど貢献しているのか?

『モンスター』におけるシャリーズ・セロンの醜悪な肉体(13kgの増量)の美点は、彼女の肉体(というより肉塊といったほうが相応しいのかもしれません)がいやおうなく物語を凌駕していくというパラドックスにこそ認められたと思うのですが、『マシニスト』におけるクリスチャン・ベールは、ほとんど人体にとって危険な領域ともいえそうな重量、すなわち30kgも体重を落としながらも、それは物語に多少貢献しているに過ぎず、肉体が圧倒的強度をもって物語事態を凌駕していくほどではありません。結果として、そのビジュアルは強烈でも、予告編以上のショックを受けることはありませんでした。そもそも監督であるブラッド・アンダーソンはその激痩せをCGとか着ぐるみで表現するつもりだったとか。つまり、“肉体”そのものに対する執着はそれほどでもなかったのだろうと思います。

実際、『マシニスト』は“不可解な謎”に重きを置かれた映画であり、後半に進んでいくにつれて、これまで幾度かにわたり描かれてきた“記憶とその不確かさがもたらす数々の疑念が生むサスペンス”という図式に、回収されていってしまうかのようです。
確かに、チラシや予告編を見た上で私の期待が“利己的に”高まっていき、それがある意味裏切られたという極私的な事実だけで、本作を駄作だと決め付けてしまうのもいささか躊躇われぬでもありません。そうなってくると、どうしてもメディアでの扱い方(つまり宣伝ということになるのでしょうが)に相も変らぬ違和感を感じざるを得ないのですが、このことは当ブログで数回言及していることなので、繰り返しません。

まぁ、個人的にはあまり乗れなかった『マシニスト』ではありますが、それでもあの青黒い色調で統一された画面や、匿名性に徹した都市を切り取るシネマスコープの構図や、ジェニファー・ジェイソン・リーの、母性を漂わせた娼婦ぶりは結構私好みで、これであの『セッション9』の時のような“釈然としない恐ろしさ”を感じさせてくれたなら、私の評価も変わってきたのでしょう。惜しかったです。

さて、激痩せ映画で始まった週末はさらなる激痩せ映画に連なることに。
『ソン・フレール〜兄との約束〜』ですが、本作については別の機会に譲るとします。

2005年02月20日

『復讐者に憐れみを』には、中心を欠いた邪悪さが漲る

:::caution:::結末に触れていますので、未見の方は読まないで下さい:::caution:::

復讐者に憐れみを周知の通り、『復讐者に憐れみを』はパク・チャヌク監督による“復讐三部作”の第一作目という位置づけにあります。第二作『オールド・ボーイ』を見る限り、この三部作は“復讐”という主題における共通項は認められるものの、恐らく、説話上の関連性は無いと言えるでしょう。
ところで、以前『マイ・ボディガード』に関する文章でも触れましたが、私が映画における復讐で重要視するのは、

復讐に費やす時間の長さ/準備の周到さ/手口の残酷さ

であり、これらの描写に惹き込まれるかどうかでその評価が決まると一先ずは言えます。ただし、いくら復讐劇と言っても、それに関わるシークエンス以外を全く無視するわけにはいきませんが、少なくとも、何故ある人間が復讐するに至ったのかという、説話的視座に立って論を進める気はないということです。

さて、『復讐者に憐れみを』には成就するものもしないものもあわせると、私が気づいただけでも、計6つの復讐が描かれています。誰もが加害者であり被害者でもあり、あらゆる人間たちが復讐を接点に絡み合っているこの複雑極まりない構造には、パク・チャヌク監督が現実世界をどのように捉えているのかが表れているような気がしてなりません。本作について度々使用されている“リアリスティック”という言葉も、監督の現実認識の厳しさ(ニヒリズム?)によりある程度説明がつくのではないでしょうか。

6つある復讐を図式化してみると、最も多くの復讐に絡んでいるのがソン・ガンホであることがわかります。つまり、中心に据えるべきは彼ということになるでしょう。ソン・ガンホは、復讐される側でもあり、復讐する側でもある。本作が残酷なのだとすれば、それはもちろん目を覆わしむる描写においてではなく、結局はあらゆる“救済”を拒絶するかのような説話展開に拠るのですが、それは置いて話を進めると、ある中小企業の社長であるソン・ガンホは、不況のため止む無く解雇したある工員により、最初に復讐の対象となります。そこで展開される、ショッキングというよりは美的というべき血の描写が印象的なカッターによる自傷シーンも、次の瞬間には乾いた笑いを誘うでしょう。それは、一連の光景を冷酷に見据える、離れた位置からのショットに拠るのです。もちろん、というべきか、ここでも台詞は極力排されています。そもそも本作は、全編を通して非常に台詞が少ない。口の利けないシン・ハギュンの存在もその一端を担うのでしょうが、やはり、あえて言葉に頼らず、画面の連鎖だけでこの陰惨な物語を語りきることに、パク・チャヌクが意識的だったということだと思います。そして、その試みはかなり成功しているのです。いずれも緊張感漂う俳優陣の演出や、空間把握が特徴的なカメラ位置を通じて。
実際、『復讐者に憐れみを』における重要なシーン、それはつまり、復讐そのもののシーンということになるのでしょうが、そういったシーンには特に静けさが漂っているかのようです。言葉で“怒り”を表現させない(本作には怒鳴ったり叫んだりするシーンがほとんどありません)かわりに、行為にそれを託す。だから、ここに展開されるあらゆる復讐シーンが“痛い”のです。しかもそれは“直接的な痛み”となって観客を襲うでしょう。バッドでの殴打、電気ショックを用いた拷問、動脈から噴出す血、切られたアキレス腱等々が、感情のレベルではなく、“痛み”のレベルで我々に訴えかけていたのは重要でしょう。さらに言えば、死体の描写もその変奏であったといえるでしょう。ムカデが這い、ところどころ朽ち果てた自殺したシン・ハギュンの姉の顔、溺れ死んだソン・ガンホの娘の目と火葬され灰と化した腕、椅子に縛られたまま硬直したペ・ドゥナの体、そして、バラバラにされゴミ袋につめられたシン・ハギュンの肢体・・・そこまで見せる必然性などないかのようなこれらのショッキングなイメージは、しかし、この救いのない物語においては等しく不可欠なシーンなのです。

ここで唐突に本作の原題を振り返ってみます。“Sympathy for Mr. Vengeance”という原題にある“Mr. Vengeance”とはいったい誰なのか。これは、“復讐する(ある匿名の)人間”を指しています。だとすれば、これはソン・ガンホのみを指しているわけではありません。シン・ハギュンもまた、憐れむべき人間だからです。彼もまた、復讐の対象であり、復讐者なのですから。ここに『オールド・ボーイ』との接点を見出すことが出来ますが、それもここでは置いておきます。指摘しておきたいのは、本作はやはり、据えるべき“中心”を予め欠いた物語であるということです。あえて前言を覆せば、その中心は人物にではなく、復讐という概念にこそ置かれているということなのかもしれません。

『復讐者に憐れみを』において、復讐するものが善人で、されるものが悪人という簡単な図式は全く通用しません。そもそも復讐という行為自体が“違法(=悪)”なのだという現実論はさておくとして、もはやそんな現実においても救いなど無いのだという冷めた認識が、かなりの説得力をもって突きつけられます。この居心地の悪さは、パク・チャヌクが世界に感じているそれと同じ感覚なのかもしれません。取ってつけたようなラストシーンの不条理さこそ、それを端的に表してはいないでしょうか。

『復讐者に憐れみを』は、この文章の最初に提示した3つの条件を全て満たすというレベルに留まらず、何か途方も無く暗鬱たる思いを抱かせる邪悪な映画です。こんな映画を、いったい誰が望んでいるのかわかりませんが、少なくとも、この映画に比肩しうる映画を挙げろといわれても、口を閉ざしてしまうでしょう。

2005年02月16日

私の1位は6位でした

映画芸術410号遅ればせながら「映画芸術410号」を読み終えました。“2004年日本映画ベストテン&ワーストテン”と題された本書、40人選者たちが昨年公開された日本映画の中から独断と偏見に満ち溢れたベストとワーストを決定するという企画です。
私自身に関して言えば、ベスト10に選ばれた作品からは5本、ワースト10に選ばれた作品からは2本しか鑑賞していません。しかもワーストの2本はベストの5本とダブっています。

さて、ではこの事実が何を意味するのか。確実に言えることは、槍玉に挙げられた112本の作品中9本しか観ていないということ。つまり、年間100本以上の作品を劇場で鑑賞する私とて、その10分の1程度しか日本映画を観ていないという事実です。これを忌々しき事態だと憤るか、そんなものだろうと高を括るかという、自らの日本映画に対する“姿勢”に関わる問題は大いに孕んでいるような気がしました。所詮私事ですが。

それぞれの選者が掲げるベストやワーストに関して言えば、特に感じるところがありません。もちろん、自分の評価に非常に近い人間がいなかったわけではないのですが、全体を通して見ればあまりに作品の振幅が大きく、皆それぞれに忌憚の無い意見のように思われ、正誤の判断など出来ませんし、そんなことは求められてもいないでしょうから。よって、それ以上の意味を見出すのは困難だというのが正直な感想です。

それにしても第1位が『ユダ』、第112位(最下位)が『世界の中心で、愛をさけぶ』ですか。『ユダ』に関しては言葉の真の意味で“見逃した”ので悔しい限りですが、自らの意思として“観なかった”『セカチュー』に関して思うのは、あれだけ熱狂を持って観客たちに迎えられたこの青春(純愛)映画の興行的価値はどう考えれば良いのかということ。統計的結果ですから、それなりの信憑性はあるのでしょうが、やはり、この手の祭り(イベント)は容易に鵜呑み(参考)にすべきではないでしょう、ってそんなことは改めて言うべきことではないですかね。

何をもって作品の価値を判断するのか、これは映画好きにとって大変倫理的な問題です。

2005年02月14日

暴力+暴力+人生+喪失+感動=?

気が付けば約1週間ほど放置していたことになりますが、その間も映画だけは見続けていました。今後、一気にレビューのほうを・・と言いたいところですが、さてどうなることやら。

一先ず9日以降の出来事について簡単に書いておこうと思います。
予告していた通り、9日は『復讐者に憐れみを』2回目を鑑賞。20人弱の客入り。にもかかわらず、やはりもう一度観なければという私の義務感にも似た強い思いは間違ってはいなかったようです。圧倒されました。新たな発見も多し。直近で書き上げられるレビューは本作になるでしょう。

11日は『DV(ドメスティック・バイオレンス)』を鑑賞。客席には私を含め6人程しか。もともと日活からデビューした中原俊ですから、セックスシーンにおけるいい意味での“非日常性”は悪くなかったと思います。期待していた遠藤憲一の狂気性・暴力性に関しては、ほぼ期待通り。さらに全く期待していなかったものの、極道の体現者・小沢和義のイメージを裏切る弁護士ぶりに驚嘆。彼が最後に放つ台詞は、結局のところ本作で最良の瞬間を形作っていました。『DV』は女性が観るとまた違った趣があるのかもしれません。といっても、一人で孤独に観る映画だとは思いますが。
夜は夜で例のOFF会に参加。初OFFということでいささか緊張しておりましたが、皆さんなかなかノリの良い方ばかりで、一安心。私もワインをがぶ飲みしていたおかげで、後半は映画とは全く関係の無い戯言を、あろうことか高校生の男子に向かって繰り返すという体たらく。まぁ少なからずイメージの裏切りに繋がったのでよしとしましょう。湾岸君、ガンバレ。

12日は本来鑑賞予定だった『きみに読む物語』のあまりの混雑振りに辟易し、早々に退散。予定外ではありましたが、時間の関係上もはや『Ray』しか都合がつかず、観た人が一様に褒めていたこともありましたので素直に鑑賞してみました。ジェイミー・フォックスの主演男優賞は確かに当確だろうな、と思わせる堂に入った演技には価値があったと言わざるを得ません。加えて本作がデビュー作となる母親役のシャロン・ウォレンは実に素晴らしかったです。レイ・チャールズその人に関する知識はほとんど皆無でしたが、一人の人間の非凡なる人生を、他でもない、映画を通して知ることが出来るという事実には改めて感動しますね。本作が素晴らしい映画だと言うよりも、レイ・チャールズ自身の人生が素晴らしいのだと。

さらに12日は、相棒とともに数ヶ月ぶりに行きつけのクラブ「mix」へ。何と20日で閉店してしまうとのことで、最近はたまにしか顔を出さなかったくせに、やはり18歳から数々のドラマを生み出してきた場所が無くなってしまうという事実には容易に納得できず、「俺たちはこれからどうすればいいんだ〜!」と相棒と嘆きあった次第。閉店前にもう一度くらい顔を出したいものです。
そんなこんなで帰宅したのが13日早朝だったため、日曜日はまるまる家事に終われることに。劇場には足を運ばなかった代わりに、久々にヴィデオを。マルコ・フェッレーリ監督の大傑作『最後の晩餐』です。すでに6回は観ている本作ですが、(当たり前ですが)相も変らぬいい大人4人の“幼児退行ぶり”に感動。あれほど出鱈目な死であるのに、最後には一篇の詩(ポエジー)なのだと無理やり思わせるような強さ。今現在、渋谷にて同名の映画が公開されておりますが、こちらは“カニバリズム”がその主題のようで。まず観ないとは思いますが・・・

というわけで、本日より溜め込んだレビューの消化活動に入ります。

2005年02月08日

再見の必要性、あるいは、裏切りの可能性

現在、『復讐者に憐れみを』に関するテクストを書いていますが、書く内に、どうやら本作は再見せねばならない気がしてきました。というのも、あれほどまでに『オールド・ボーイ』に熱狂してしまった私は、本作を、『オールド・ボーイ』との比較という極めて偏った見地からしか観れなかったように思うのです。もちろん、“復讐三部作”と監督自身が宣言している通り、その第一作目である本作と、第二作目である『オールド・ボーイ』との間には何より主題の一貫性があるのだし、それらを垂直に貫いている何かや、微細な類似性、あるいは、ドラマとしての可能性の差異等々、比較することで見えてくることがあるのも事実です。ただしそのためにはやはり、『復讐者に憐れみを』をある一つの完結した作品として鑑賞すべきだったと。そのためには、もう一度鑑賞する必要があると感じました。
今週観る作品はすでに3本ほど決めていましたが、そこに割り込む形で観直さねばならないでしょう。ここは一つ、『パッチギ』あたりに譲ってもらうことにします。一番効率的なのは、同じ武蔵野館でモーニング&レイト上映している『もし、あなたなら』の最終回と連続で観ることです。やや過酷な数百分ですが、それだけの価値はあると確信しております。

さて、今週はちょっと面白い集まりがあります。俗に言う“OFF会”というやつです。
私もちょくちょく顔を出させてもらっている(無形の)映画好き集団が一同に会する貴重な機会なのですが、年齢も職業も住まいも様々、もちろん、好きな映画だって違うであろういい大人たちが集まり語らうことなど、これまでの私の人生で一度としてありませんでした。名前も顔も知らなかった人々と映画のみを媒介に語りあうということ。ただし、本来映画にはそのようなことをたやすく成立せしめてしまうような魔力が備わっていますから案ずるには及びません。想像しただけで、いや、ほとんど想像することすら出来ないというのが正直なところですが、今から胸が躍る様なそんな気分です。当日参加される方々を、いい意味で裏切っていければと密かに思っております。
事後報告は、このブログでも何らかの形でなされるでしょう。

あ、最後に左側のメニューを若干マイナーチェンジいたしました。
一先ず観た映画に関しては名前を残していこうかと。リンクが張られていないタイトルについては、“レビュー待ち”ということで。その“待ち”が永遠になる可能性も充分に孕んではいるのですが……

2005年02月06日

“赤いブーツの男”になれるだろうか…

赤いブーツの女というわけで、もう日曜日の夜です。常に週末を待ち焦がれている小市民としては、間違っても『日曜日が待ち遠しい!』などとは言えません。あと数時間で休みも終わりか…と思うのが日曜夜のリアルな心境ですから。

今週は平日に映画を観たことにもよりますが、計3本観ました。
先にレビューを書いた『フリック』に次いで、土曜日に『復讐者に憐れみを』初日初回を、本日は『レイクサイド マーダーケース』を鑑賞。
『復讐者に憐れみを』には絶大なる期待を寄せておりましたが、それも裏切られなかったと一先ず言えるでしょう。初回から満席という事態もそれを示唆しています。『レイクサイド マーダーケース』はというと、これまた上映期間が短く、余程のことがないと行きたくは無い日比谷にまで駆けつけたのですが、まぁざっと見て60人いるかいないかでした。青山真治監督初挑戦のミステリーという触れ込みでしたが、無理して駆けつけただけのことはありました。薬師丸ひろ子は良かったなぁ・・・役所広司は言わずもがなといった感じ。

先日掲げた12本の必見リストのうち、とりあえず3本消化しました。
今週も3本くらいは何とかしたいですね。やはり平日にレイトを一本入れようかと思います。

ところで、映画とはほとんど関係のない話ですが、現在最も欲しいものの一つに赤いブーツがあります。実は先日、オークションで欲しかった商品を見つけたものの、中古の割に値段が値段でしたので入札を考えていました。昨日の夜が締め切りだったのですが、昼間から上司宅でワインをガブ飲みした挙句、オークションのことなどすっかり忘れてしまっていて、今朝おきて愕然としました。滅多に出品されない(前回出品されていたのは、1年近く前かもしれません)商品なのに、自らの不注意ぶりと、酒さえ入ってしまえば後はもうどうでも良くなってしまうあまりに大らかな心に辟易しつつ、現在、出来る限り安価で購入できるブーツ(と言っても、そのフォルムには厳しい評価基準がありますから、容易には選び出せませんが)をオークションで探し、それを自ら赤に塗るしかないな、と思っています。実は似たようなことを数年前にも実行したのですが、それがあまりにアメリカンなウエスタンブーツだったことと、サイズがあまりに大きすぎたことで、巧く塗れた割にほとんど履かなかった経験があり、今回は同じ過ちは犯すまいと決意し、オークションの状況に逐一目を光らせているといった次第です。

いち早く“赤いブーツの男”になるべく、精進したいと思います。いつの日かそのように呼ばれる日が来ることを願いつつ……

ある日の会話〜『フリック』を観て

フリック---最初『フリック』って聞いた時、俺の好きなアラン・ドロンの『フリック・ストーリー』を思い出したよ。でも特に関係ないんだよな? 

いやね、実は劇中に出て来るんだよ。その『フリック・ストーリー』がさ。台詞の中だけだけど。あの映画のアラン・ドロンに憧れて刑事になったっていう男がいてね。監督の小林政広は、なかなか異色の経歴を持つ人でさ、この映画にも出てくる高田渡に師事してフォーク歌手として活動した後、郵便局で働きながらアテネフランセに通ってフランス語を習う。これだけで既に“変”な感じもするんだけど、さらに彼はフランスに行ってトリュフォーに弟子入りを頼んだっていうからね。多分、フランス映画が好きだったんだろうから、ジャック・ドレーも好みだったのかもしれないな。その流れで『フリック・ストーリー』だよ。

---トリュフォーかよ! すげーなそれ。で、結局弟子なれたの? 

いや、それはどうだろう。調べてみる限りわからなかったけど、多分断られたんじゃないかな。

---それを知ってたからこの映画を観る気になったの?

いやそれが違うんだよ。今言ったのは観た後調べたことでね。チラシにあった空の青さが結構印象的だったからっていう理由で観ようと決めたんだけどさ。これも劇場でわかったことなんだけど、スチールは大塚寧々が担当したんだって。そういえば彼女日芸の写真出身だったからね。チラシの写真は結構好みだったなぁ。

---なるほどね。主演は香川照之か。そういえば、彼はいまや国際的でしょ。東大出たインテリだけに、役の幅は広そうだね。ってそれはあまり関係ないのか・・・

もうこの映画は香川照之に尽きると言ってもいいんじゃないか、とすら思うな。俺の中では『オールド・ボーイ』のチェ・ミンシク以来の衝撃だよ。一人の俳優が映画を引っ張っていくという例はこれまでもあったけど、最近では凄く稀な例だと思う。『フリック』における彼の表情には、ある種の魔力が備わってたね。それは決して顔の美醜や演技の巧拙じゃなくて、観客の目をひきつける“凄み”だよ。

---ふーん、凄かったのか・・・内容的にはどうなの? カメラとかその辺は。

撮影の伊藤潔は一人立ちしてまだそれほど時間が経っていないみたいだね。でも『フリック』におけるロングショットと長回しは、なかなか堂に入ってたと思う。兎に角本作において物語に言及することはほとんど意味を成さないんだよ。観客は、容易に感情移入できないし、物語に入り込むことをカットごとに拒絶されてしまうんだな。もちろん、それは意図されたことでね。そうなってくると、どうしても俳優そのものや、風景、カメラの動きなんかに注目せざるを得なくなってくる。いや、巧く出来てるよ。

---アンゲとロプロスとリンチの名前が挙がってるらしいじゃん。長回しとか不可解さを表しているようだけど、端的に行ってどうなのその宣伝文句は?

お前の言うとおり、あくまで宣伝文句だからね。そんな情報はあってもなくても本作の出来とは何の関係もないよ。邦画においてさえ、過剰な長回しも的確なロングショットもそれほど珍しくないし、世界的な潮流とさえ言えるんじゃないかな。問題はそれらがあまりに審美主義に加担すると、逆にいやらしく思えてしまうことがありえるということでしょ。その意味では、『フリック』のロングショットとミディアムショットの関係性には厳しさがあって俺の好みだったね。いったい誰が演じているのかすらわからないくらい、人物の表情を無視したショットばかりだと思えば、香川照之のカメラ目線に耐えうるだけの強度を持ったアップが延々と続いたりして。そう、物語の後半、妄想に悩まされる香川照之がカメラのほうに鋭い視線向け、だけれどだんだんと表情が変わってきて最後には号泣してしまう場面があるんだけど、あのワンシーンワンショットは出色だったと思う。あの時点で、「おお、チェ・ミンシクだ!」と一人で興奮したよ。

---結構ベタ褒めだな。それにしちゃ上映期間が短いね。もうすぐ終わりでしょ? 人は入ってたの?

それがイマイチ、というか俺が観たのはレディースデイにもかかわらず、閑散としてたよ・・・レイト一回のみっていうのもあるけど、宣伝もあまりされていないしね。凄くもったいないから、今盛んに薦めてるとこだよ。

---それもしょうがないのかね。まぁ観た人はかなり満足できると、そういうことね。観てない人は3月発売のDVDを観ろ、と。

う〜ん、あの画面はやぱり劇場で観ないと。狂ったようなリフレインが数回出てくるんだけど、あのパンも劇場でこそ機能するショットだと思うナァ・・・DVDだとその感動が半分くらいしか伝わらないよ、多分。
無理してでも劇場に行けよ、お前も。マジで。

2005年02月03日

廃墟のような・・・

昨日、一人暮らし開始以来始めての電話機を購入いたしました。これまで、自宅に電話機の必要性など微塵も感じたことのなかった私ですが、その理由は2つありまして、一つは、電話料金に関して全くといっていいほど関心を示さず、例えば「今月は使いすぎちゃったナァ」と思うことはあっても、それは本当に一瞬の思索に過ぎず、悔い改めるということを知らなかったということ。もう一つは、私がモノの形、つまりデザインに異常な拘りを見せるということ。これらにより、確かに携帯電話よりも通話料が安いが、まだまだ日本のプロダクトデザインに対する懐疑心を拭い切れないのだし、つまり必要ナシ! という結論が何年も揺るがなかったわけで。

では、7年もの間貫いてきた思いが何故覆ったのか。その理由もまた2つありまして、一つは、もうこれ以上料金に目を瞑ることが出来なかろうという金銭的な圧迫感と、もう一つは、これならわが家に相応しいと思われるデザインの電話機を発見したことです。ただし、ここで断っておきたいのは、それをデザインしたのも外国人だということ。昨今、我が国でも“デザイナーズ家電”なるものがメディアで取り上げられる機会が増えたように思うのですが、それ自体は一先ず喜ぶべきことであるとはいえ、やはり、それらは私に金銭を支払わせる程のものではないことが多かったのです。
ここで私の“デザイン観”を述べるなら、“ミニマル”という言葉で完結に説明し得ると思います。“引き算のデザイン”と言い換えてもいいのですが、それはつまり、兎に角余計な機能はもちろんのこと、時には必要最低限の機能すら満たしえないほどに引き算された結果、ほとんど“荒涼”だとか“廃墟”だとか、そのように例えることの出来るモノの形に惹かれるのです。現在住んでいるマンションのように打ちっぱなしの部屋を求めるのも、壁紙すらが無駄なものだという考えに基づいてのことです。

私がどのような電話機を購入したのかは言わずにおきます。しかし、実際にその電話機を使ってみて、「ああ、使いにくいナァ・・・」という実感を持った時点で、自身の選択眼の正しさを再確認したとだけ付け加えておきましょう。所詮限られた時間帯に限られた人間と話すためのもの。機能や使い易さなど、いかなる慰みにもならないのですから。

この文章とは何の関係もありませんが、全く映画に触れずにおくのも何となく気がひけるので最後に加えると、本日『フリック』を鑑賞しました。邦画にしては長尺でしたが、全く時間を感じさせない映画だったと言えるでしょう。ざっと10人強の観客とともに観た本作は、期待以上の出来でした。今日中に何とかレビューを書こうかと思います。渋谷のみの公開で、しかもレイト(といっても20:35~ですが)というあまり一般的でない条件が重なっておりますが、それだけの価値はあったか、と。

【追記】
実はこの文章、もともと昨日の昼に書き上げられたものですが、サーバートラブルのため、全て消えてしまったのです。第一稿では、ミース・ファン・デル・ローエを引き合いに出しつつ、私のデザイン観を長めに書いたのですが、同じような文章を2度書くなどという愚行を避けるがため、第二稿ではより簡潔な文章にしました。といってもそれほど簡潔とは言いがたいのですが。

2005年02月01日

非=生産的備忘録を記す

観なければならない映画が多すぎるというのも、(趣味としての)映画好きにとっては酷なことだと言えはしないでしょうか。“観たい映画がないっ!”などと思えたらどんなにか楽でしょう。向こう50年間、そのような事態には絶対に陥らないと断言することも出来る私は、今、数週間先のスケジューリングに追われています。
そこで、とりあえず会社の備品である大き目のポストイットに必見と思われる映画のタイトル、上映館、上映時間、上映期間等の情報を書き込んでみることにしました。ディスプレイに表示された「MovieWalker」と手元にある黄色いポストイットとに何度も視線を投げかけること数分、決して綺麗とは言い難い赤い文字が黄色い紙を埋め尽くしていきます。果たして、小さな紙切れは私にとって重要な情報源へと変貌し、ディスプレイ下部にその存在感を誇示しています。

しかし、ふと気づいたのです。
こんなことするくらいなら、日々必ず目を通す自身のblogにその情報を書き込んだほうが備忘録としてはより確実だし、第三者との情報の共有という見地に立てば、より生産的だろうと。というわけで、今度はその黄色い紙片を観ながら、ディスプレイに文字列を打ち込むという全くもって非=生産的、非=効率的な作業に貴重な昼休みを割くことになりました。±0という感覚…。「無駄無駄無駄無駄無駄無駄ーーー!!!」と、誰かさんなら言い放つことでしょう。

というわけで、極私的覚書を下記に。

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■『レイクサイド・マーダーケース』[〜2/10]
 (日比谷スカラ座 10:30/13:10/15:50/18:30)

■『もし、あなたなら 6つの視線 』[上映中]
 (新宿武蔵野館 9:50/21:10〜23:05)

■『復讐者に憐れみを』[2/5〜]
 (新宿武蔵野館 11:00/13:30/16:00/18:30/21:00〜23:15)

■『酔画仙』[〜3/4]
 (岩波ホール 11:30/2:30/5:30)

■『フリック』[上映中]
 (シブヤ・シネマ・ソサエティ 20:35〜23:14)

■『DV ドメスティック・バイオレンス』[2/5〜]
 (シアター・イメージフォーラム  11:15/13:15/15:15/17:15/19:15〜21:00)

■『パッチギ!』[上映中]
 (アミューズCQN  10:20/13:20/16:00/19:00〜21:20)

■『マシニスト』[2/12〜]
 (シネクイント  上映時間は未定)

■『きみに読む物語』[2/5〜]
 (渋谷シネパレス  上映時間は要問い合わせ)

■『ビフォア・サンセット』[2/5〜]
 (恵比寿ガーデンシネマ 11:35/13:30/15:25/17:20/19:15〜20:50)

■『サンサーラ』[上映中]
 (恵比寿ガーデンシネマ 11:00/13:30/16:00/18:30〜20:40)

■『下女』 『死んでもいい経験』[2/27]
 (映画美学校 第一試写室  13:45/16:00/18:00)
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ざっとこんなところでしょうか。
『Ray』や『ネバーランド』、『オーシャンズ12』などが含まれておりませんが、私の中の漠然としたプライオリティのみが判断基準ですので、あくまで相対的にそうせざるを得なかったまでです。などと言いつつ、あくまで予定は未定ですが。

ともあれ、何とか全て鑑賞したいものです。