2006年10月30日

無題

先週末は夏以来久々に海に行ってきました。
夏の、人で埋め尽くされた海岸もいいですが、肌寒くなった季節に見る荒涼とした海というのもまた悪くありません。海岸沿いのコンクリートに腰掛けて、少し高い位置から海を眺めながら飲む酒というのが何とも美味で、別に普段ストレスフルな生活をしているわけでもないのに、何となく心のもやもやが晴れていくような気分に。ワンシーズンに一度くらいは、気に入りのイタリアン⇒海というコースで散歩がてら出かけていこうと決意。海を見て、もう来年の夏が待ち遠しくなってしまいました。この冬は、どこか外国の海に出かけてみるのもいいな、なんて。

さて、映画のほうは結果的に1本のみ。
来週には終ってしまう『パビリオン山椒魚』を遅まきながらシネセゾン渋谷にて。隣の渋谷ピカデリーではイーストウッドの新作がかかっていましたが、どうもそれほど入っているようには見えませんでした。公開2日目だというのに…。
『パビリオン山椒魚』のほうは、流石に初日の混雑振りなど無かったかのように閑散としていました。率直な感想として思い浮かんだのは、これは失敗作ではなかろうか、というもの。ここで言う失敗作とは、嘗て蓮實重彦氏が定義したそれと同義のものだと考えていただければいいのですが、面白い/つまらないとか、わかる/わからないだとかいう二元論を超えて、さらに監督である冨永昌敬の思惑すら超えて、なんでこんな映画が出来てしまったのか誰にもわからないのではないか、という意味で。ところどころに思わず噴出してしまう箇所があって、そういう部分はこれまで彼の旧作を観てきた者としては嬉しい限りでしたが、とりわけ、プロの俳優がどうしても彼の演出に合わないような気が鑑賞中ずっと頭から離れませんでした。
ただし、もう一度観たら考えが180度変わるかもしれません。この一作で冨永監督の今後を深く憂う、などということは絶対にしたくはないし、むしろ、次回作が楽しみになったという意味では、観てよかったと思える一本です。まぁやってくれたな、という感じですね。

本来であればその後、ユーロスペースで『サラバンド』をハシゴしようかと思っていたのですが、どうもそんな気分にもなれなかったのでおずおずと帰宅。

ところで今週から「FILMEX」のチケットが発売されます。
最近、映画好きの友人に会うと、口々に「FILMEXどうする?」という言葉を、まるで合言葉であるかのように交わしあうことが多いのですが、結局予告どおり「TIFF」をあっさりと無視することになった私も(もちろん、参加した友人の話を聞いて何度も悔しい思いをしたわけですが)、「FILMEX」だけは可能な限り参加したいと思っています。

2006年10月27日

映画短評 2006年9月編 part2

■『太陽
SOLNTSE/2005年/ロシア・イタリア・フランス・スイス/115分/アレクサンドル・ソクーロフ
(本作に関しては、もう一度観直さない限り何も言えません)

■『40歳の童貞男
THE 40 YEAR OLD VIRGIN/2005年/アメリカ/116分/ジャド・アパトー
誠実な映画だと思いました。この表現は、数分おきに頻発される下品なギャグと矛盾しそうに見えるかもしれませんが、所謂アメリカ製ラブコメディのセオリーに則り、最終的に主要人物が皆幸せになるというご都合主義が、私の目には誠実に映ったということです。

そもそもタイトルからして掴みはOKという気がしないでもない本作において、とにかく主人公とその友人達から発せられる言葉という言葉、アクションというアクションが下品でバカであるという徹底振りは感動すら覚えますし、観客を笑わせようという、ほとんどその一点にのみ費やされたであろう労力は、決して徒労に終ってはいません。

下品ですが、主題は結構真面目。つまり、童貞が当然抱えているであろうコンプレックスは、きっと乗り越えられる、ということでしょうか。まぁ私が誠実だと思ったのはこの主題自体に対してではないのですが。

ちなみに、撮影監督があのジャック・N・グリーン。イーストウッドを離れて、こんな映画を撮っていたとは…。なお、無修正版は133分。さて、どんなシーンが削られたのでしょうか。

■『女獄門帖 引き裂かれた尼僧
1977年/日本/69分/牧口雄二
『徳川女刑罰絵巻 牛裂きの刑』に続いて撮られた、東映エログロ路線。前作に続いてプロデューサーである本田達男がトビー・フーパーに影響を受け(この時点で公開されていたのは『悪魔のいけにえ』と『悪魔の沼』)、悪趣味に徹した作品を撮ろうと企画した作品です。彼は牧口監督に「この映画を観たら当分肉を喰えんような映画を作ろうや」と指示したとか。とはいっても、スプラッター的色合いは『徳川女刑罰絵巻 牛裂きの刑』の方が勝っていますが、論理を超えた事件性という点に関して言うなら、本作のほうが上かもしれません。

東映の勢いを感じさせるいい意味での“悪乗り”は2作とも共通です(双方に出演している汐路章のサディストぶりは相変わらず)。しかし、『女獄門帖 引き裂かれた尼僧』には、どう考えても本気とは思えないというか、一体何を考えているのかわからないようなシーンが存在していて、それがそのまま、先述した論理を超えた事件性として画面に現れるからです。

本作のクライマックスにおける田島はるかと桂秀尼の対決の後、舞台となっている尼寺・愁月院が炎上するのですが、そこで何故か、奉ってあるミイラが急に立ち上がるのです。おいおい、それはありえないだろう、だってこのミイラは一応中盤でその姿を晒すものの、ほとんど物語りには貢献していないし、第一ミイラが動き出すなどという事件は、普通怪奇映画でこそ起こるものじゃないか? ジャンルの横断?
などという疑問を、本田&牧口両氏は笑い飛ばすでしょう。事実、牧口監督は、このアイディアを“生涯最高のアイディア”だと自画自賛していたらしいのです。スルメを火で炙るとその形態が変化するんだから、ミイラを火で炙って同じことが起こってもOKだ、と。しかし、何という強引な論理展開。この論理はまったくもって支離滅裂です。

だけれども、このミイラの唐突な直立こそが、この映画を私に記憶せしめているとも思うのです。つまり、私はまんまと彼らの思惑に加担していることになります。
というわけで、この呪われた映画のほとんど“忌まわしい”記憶は、私の奥底にこびりついていくでしょう。

■『盲獣
1969年/日本/84分/増村保造
たった3人の登場人物が、ほとんど1ヶ所に限定された舞台で愛憎劇を繰り広げます。ある親子と1人の女。そこには、もはや取り返しのつかないほど歪んでしまった愛が渦巻いているようです。そして、主要な舞台であるアトリエの異様な造形が、この映画のサスペンスとロマンスをどれほど加速させることか。
『盲獣』は、84分というそれほど長くはない上映時間を、まるで永遠の窒息状態と錯覚させるような、すこぶる恐ろしい映画です。

端的に言うなら、『盲獣』は触覚の映画だと思います。見ることを禁じられた彫刻家・船越英二が最初に登場するシーンに始まり、緑魔子との凄絶な心中に至るまで、この映画には人間の触覚が齎すあらゆる感情が凝縮されているかのようです。

船越英二と母親である千石規子の関係は、ほとんど近親相姦的です。だからこそ、母親は途中で監禁の手を緩めもするのですが、それが運悪く息子にばれてしまった時の悲劇。母親はここで死ぬことになりますが、それよりも、目の見えない船越英二が空気の揺れと微かな音を頼りに緑魔子を追いつめていく描写の恐ろしさはただごとではありません。

船越英二の歪んだ、しかし直線的な愛から遂に逃れられなくなってしまった緑魔子が、次第に自らその深みへと堕ちていく様には説得力があり、その愛の到達点には死しか残されていないというあたりの悲劇性も見事。彼女の身体を切り刻んでいく様と、それとシンクロする形で彼女の彫刻がやはり切り落とされていくというカットバックも、2人が始めて出会うギャラリーにおける、気味の悪いシンクロ描写があったからこそ生きてくるのです。

上映後、悪夢から覚めたような感覚を味わうこと必至の1本。

■『鉄西区
Tie Xi Qu/2003年/中国/545分/王兵
(長くなりそうでしたので、本作に関しては単独で書きます)

2006年10月23日

映画短評 2006年9月編 part1

■『マイアミ・バイス
MIAMI VICE/2006年/アメリカ/132分/マイケル・マン

マイケル・マンを心から素晴らしいと思ったことは一度も無いのに、何故か新作がかかるたびに観なければ思ってしまうのですが、いざ作品を観終えた時、やはり若干の居心地の悪さを感じてしまいます。最近はこの繰り返しと言ってもいい。

彼の作品に美点が存在することは確かです。
とりわけそのガンアクションに関して、マイケル・マンには並ならぬこだわりがあるように思います。“対決の作家”である彼がもっと早く生まれていたなら、絶対に西部劇を撮っていたはずだと思うのですが、西部の保安官やならず者を描けなかった彼が、刑事ドラマを何作も撮ったのは、だから必然ではないでしょうか。

近年特に思うのですが、マイケル・マンの映画に出てくる登場人物が銃を構える時、その姿は非常に堂に入った感じがします。両手で慎重に銃を構える彼らは、無作為にバンバン銃を撃ちまくるというより、一発の銃弾の重さを知っているかのように、正確に標的を狙う。その仕草は、当たり前ですが映画でしか眼にすることがないもののような気がして、だからこそ私は感動してしまいます。

さて『マイアミバイス』ですが、往年のテレビシリーズを私はまったく観ていないので、これをテレビの延長としてではなく、一つの刑事ドラマとして観ました。共に演技派(?)であるコリン・ファレルとジェイミー・フォックス、本作においてはどう見てもマフィアにしか見えず、そんな彼らが麻薬取締りの刑事であるという設定は悪くない。ちょうど『コラテラル』のトム・クルーズがいささかも殺し屋には見えなかったにもかかわらず、決して悪くはなかったように。
加えて、本作のガンアクションは、これまで観た弾丸マイケル・マン作品の中でも最もいい出来栄えに属すると個人的には思いました。銃を撃つ時の、そしてが対象を捉える時の重低音。これが凄まじいほどの迫力を放っています。

非常に地味で、笑いの要素など一切無いシリアスドラマであるがゆえに、刑事ドラマにありがちなハッピーエンドを期待する観客は、果たしてどれほど楽しめるのか疑問ではあります。しかし、徹底的にリアリズムに拘り、そしていつにもましてノワールに拘ったマイケル・マンの硬派に、今回は賞賛を送りたいと思います。

ただし、コン・リーとのラブシーンはあれでよかったのかどうか……女性で言うなら、彼ら2人の同僚の女性、彼女はかなり印象に残りました。なかなかイカした台詞を言いながら男の頭を撃ち抜くシーンなど、特に。

■『亀虫』(「亀虫の兄弟」「亀虫の嫁」「亀虫の妹」「亀虫の性」「台なし物語」)
2003年/日本/61分/冨永昌敬
■『テトラポッド・レポート
2003年/日本/15分/冨永昌敬

冨永昌敬が一部で熱狂的に評価されているのは知っていますが、寡聞にして彼自身を深く論じたモノグラフィーや、それぞれの作品に関する詳細な記述や批評も読んだことがないので、正直、作品を観るまではおぼろげなイメージすら結ぶことがなかったのですが、実際に作品を観てみると、これが確かに面白いのです。

例えば昨年鑑賞した『シャーリー・テンプル・ジャポン・パートII』における超長回しだとか、トリッキーなフランス語字幕等々、そのテクニックが極めて独創的である点は容易に理解できるものの、連作『亀虫』や『テトラポッド・レポート』の面白さをどう評すべきなのか、非常に言葉に詰まってしまいます。

練習のつもりで撮ったという『亀虫』はシナリオも含めほとんど準備がなされず、物語自体もほとんど思いつきみたいなノリで展開していきます。端的に言って、内容は空疎だと言えますが、しかし、それは彼の資質というか褒めるべき点だと、観終えた今なら断言出来ます。無内容の中にも、図らずも(?)映画的なショットが紛れ込んでいたりして驚かされたりもするし、我々の日常生活と何ら変わりないという意味で、凡庸極まりないショット(しかしそれは長回しなのでやはり凡庸でもないのですが)に馬鹿馬鹿しいほどに大袈裟なナレーションが介入してきて思わず笑ってしまうし。

全部が冗談なんだろうと確信することも出来ず、真剣に観ていると肩透かしを食らう。
映画において、ギャグで人を笑わせるのは実は観ているよりも余程困難な試みだと私は常に思っているわけですが、彼の映画には本当に素直に笑ってしまうのです。『亀虫』における目白通り沿いのガストとアコムとレッドロブスターのギャグ。あんな芸当は誰でも出来ることではないと、笑いながらも実は結構戦慄しました。天才? まさか…。

本当に困ってしまう映画作家とは、きっと彼のような人間を指すのでしょう。
ちなみに、やはり内容がまるでわからない、というか無いに等しい『テトラポッド・レポート』に関しては、やはり面白かった印象はあるものの、困ったことにほとんど記憶がありません。ああ、困った困った。

■『X-MEN:ファイナル ディシジョン
X-MEN: THE LAST STAND/2006年/アメリカ/105分/ブレット・ラトナー
シリーズ完結篇ということで、主要な人物が死ぬだろうことは予想していました。前2作とは監督も異なるので、これまで築き上げられたキャラクターを、ではどのように殺してみせるのかが私にとっての最大の見所になると思っていました。

序盤でサイクロプスがあっさりと死ぬ時、その死に様は描かれません。なるほど、これは悪くない。サイクロプスはキャラクター的には若干弱いんじゃないかと感じていましたから、この程度でいいだろうと納得。そのかわり、死んだと思われていたジーンが生き返るのですが、すでに予告編を観てしまっていたので、彼女が最終的な敵であることはわかっていました。

そして中盤のジーンとプロフェッサーXとの対決。
もちろん、ジーンが負けることはないのでその勝敗は観なくても明らかですが、ここでプロフェッサーXが無残に殺されるとは予想しておらず、その死に様も含め、なかなかいいなと思いました。

本作では、ジーンの隠された力がどのくらい強大なものなのかが重要でした。
CGに頼ったアクションシーンにおいて、時に人は、悪い意味で呆気なく死んでいくものですが、ラストの全面戦争でジーンが力を解放し、辺りにいるものをことごとく破壊していく時の描写は全く面白くなく、例えるなら『マトリックス リローデッド』において、増殖したエージェントがポンポン吹っ飛んでいく様と同じように味気ないな、と。その前に、ミュータント過激派のボス・マグニートー一味が、ゴールデンゲートブリッジを破壊しつつ上手く足場にしながら島に潜入するあたりのCGは面白かっただけに、残念。

自分の欲望を“他者(本作ではミュータント)のため”という論理に置き換えて行使しようとする権力者の存在が描かれていましたが、監督はその権力者とミュータントである息子との確執と息子の解放によって、現在のアメリカを象徴するようなこの構図を暗に批判していたのかもしれません。

ちなみに、楽しみにしていたエレン・ペイジの活躍はほとんど記憶にありません。
『ハード・キャンディ』のインパクトが強すぎたか?

■『マッチポイント
MATCH POINT/2005年/イギリス・アメリカ・ルクセンブルグ/124分/ウディ・アレン
スカーレット・ヨハンソンが最初に登場するシーン、確か後ろに窓を配しピンポンをするシーンだったと思いますが、あの時の彼女は身震いするほど美しく、そして妖しい雰囲気を身に纏っていました。ほとんどファム・ファタールだと確信させるそのショットを観て、その手の女性に滅法弱い私は快哉を叫び、それだけでこの映画はもういいんだと思ってしまいそうになるほど。

冒頭、ネットすれすれに当たるボールの軌跡がスローモーションで律儀に示され、この映画の主題が説明されます。結局は運が左右するという実も蓋もないような主題を、流石はウッディ・アレン、恋愛だったり犯罪だったり捜査だったりをうまいことちりばめつつ、そつなく纏め上げていたように思います。

舞台がイギリスであることは重要でしょう。この物語は、未だ階級というものが厳然と存在しているイギリスであるからこそ生きてくる。ウッディ・アレンにおけるイギリスは、今後も定着していくのでしょうか。

運命の女=スカーレット・ヨハンソンは、妖しげな女、売れない女優、嫉妬に狂う愛人、運悪く殺される被害者という4つの顔を、見事に演じきっていました。前半と後半の彼女はまるで別人のよう。あの変貌振りだけでも、賞賛に値するかと。ウッディ・アレンの演出の冴えといったところでしょうか。

顔も性格も行いも階級すらも関係なく、結局人は、運の良い人と悪い人という二種類にわけられ、そのどちらに転ぶかは誰にもわからないということ。私の場合はほとんどスカーレット・ヨハンソンに終始してしまいましたが、面白い映画だったとは思います。

■『グエムル -漢江の怪物-
THE HOST/2006年/韓国/120分/ポン・ジュノ

そもそもこういった映画は嫌いではありませんが、本作において、ポン・ジュノという監督は本当によくやってくれたと思います。何より、決してハッピーエンドとは言い難いあの結末がいい。もちろん、そこにはある種の“軽さ”が備わっている。この辺りのバランスがポン・ジュノの持ち味かもしれません。

初めて怪物が川から陸に上がった時のあの拍子抜け感。水の中からザッパーンと出てくると思い込んでいた私は、ああ、そう来たか…という敗北感に思わず笑ってしまいました。その後、怪物が人間を襲う描写にはそれほど新味はないのですが、逃げる人々と追う怪物の切り替えしというセオリーはきちんと踏まえられていたと思います。やっぱりああいうショットがないと盛り上がれません(ソン・ガンホが娘だと思いこんで手を繋いだ子が、実は他人の子だったというショット。ああいうお決まりのショットです)。

アーチェリーの選手であるペ・ドゥナが、怪物に向かって確か3回ほど弓を構えるのですが、そのいずれも失敗するという伏線は、もちろん最後に成功することで生きて来るのだろうと予想させるのですが、そうと解っていても、ラストで彼女が怪物に弓を射る姿は美しく、まるで『宇宙戦争』のクライマックスにおいて、形成が逆転する(初めてあの巨大なトライポッドにバズーカ砲が直撃する)瞬間を想起させました。

いよいよ怪物vs家族の決戦という段階で、家族3人の命を奪うことになるのが、ほかならぬ人間であったという残酷な事実。軍隊が撒いた毒薬は、怪物を弱らせるだけでなく、彼らの命をも奪うことになるのです。しかし、だからこそ、彼らが最後のトドメを刺すというほとんどわかりきった描写に強度が備わるのでしょう。ソン・ガンホが最後に鉄柱を突き刺す瞬間、私はかなり興奮していました。それは多分、これまで観てきた怪物映画では感じたことのない類の興奮だったように思います。

2006年10月17日

ミンリャンとブレッソン

先週はイメージフォーラムにて『西瓜』を鑑賞しました。
客入りはそれほどでもなかったのですが、最終回はツァイ・ミンリャンの幻の短編『歩道橋』の上映があったらしく、帰る時にはかなりの人が受け付け前に溢れていました。あの場にいた人たちは、かなりのツァイ・ミンリャンファンだったのかもしれません。

『西瓜』の細かい感想は別の機会に譲るとしても印象は確かに『楽日』のそれとは異なり、しかしトリュフォーの映画にジャン・ピエール・レオーが出ていればそれは紛れも無くトリュフォー映画だったように、リー・カンションが出ていれば、やっぱりツァイ・ミンリャン作品だと思えてしまうのも確かで、つまり、彼の独特としか言いようの無い存在感は、もはやジャン・ピエール・レオーの域に達しているのかも、などと思ったり思わなかったり。
実際、彼らは全くもって似ていないんですけど。

最近、復刊された「シネマトグラフ覚書−映画監督のノート−」を読了したんですが、これはかなり面白いというか示唆に富んだ書籍でした。もうわかりやす過ぎるくらい平易な言葉で綴られた文章なんですが、ロベール・ブレッソンという映画作家が映画をどのように捉えていたのかの一端を理解できた気がしますし、何より、最近意識して観ているツァイ・ミンリャン作品との符号性が随所に垣間見られ、その意味でかなりタイムリーだったので。まぁ何の根拠も無いこの考えは、ほとんど妄想の域に達しているかもしれませんが、それを無視しても、この書籍は名著と言えるでしょう。
機会があれば、気になった(いった)箇所をこのブログにも書き写してご紹介したいと思います。

2006年10月13日

知恵と勇気の人〜「黒沢清を作った10の映画」に参加して

すでに一週間近く経過していますが、先週の土曜日、ジュンク堂池袋本店にて黒沢清氏・篠崎誠氏によるトークセッションが催されまして、いそいそと出かけてきました。

「黒沢清を作った10の映画」と題されたこのトークセッション、本来であればboid代表の樋口氏が司会進行を務めるはずだったようですが、急病により欠席。彼は自分の日記上で、完全休養宣言をするくらい限界に来ていたようで、察するにとても人前で話をしたり聞いたりする気にはなれなかったのでしょう。

というわけで急遽篠崎氏の進行によってトークが始まりました。
先ずは「映像のカリスマ 増補改訂版」を手にした篠崎氏より、本書に掲載されている“70年代アメリカ映画ベスト10”に関する質問が。ズバリ、「当時どんな作品を選ばれたか覚えていますか?」との質問に、おぼろげながら何作かはしっかりと覚えていたらしい黒沢氏は、篠崎氏に促されながらも「ああ、そんなの入れてましたか」的な感じでそれでも何作かははっきりと記憶していたようです。

『ダーティハリー』と『ジョーズ』とアルドリッチ前作品を除く、という留保付きのこのベストテンで興味深いのは、『処女の生血』が入っていること。「それは当然入れますよ」と黒沢氏も言っていたので、当時からある程度の確信はあったのでしょう。しかし全体的にひねったベストテンであることにかわりはなく、ピーター・フォンダを入れたいがために『怒りの山河』を入れたり、最も好きな俳優であるジェームズ・コバーンが出ているからか、ペキンパーでも『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』を選んだりしています。
そして9位の『トラックダウン』。これについては黒沢氏も結構語っていまして、いわゆるアメリカン・ニューシネマが廃れ、その後スピルバーグやルーカスが出てきて再びハリウッドが隆盛を極めるまでの、ちょうど端境期にデビューした何人かの監督のうちの一人としてリチャード・T・ヘフロン監督を捉えていました。なるほど、黒沢氏が敬愛していた映画作家にはこの時期にデビューした作家が多いことが分かります。トビー・フーパしかり、ジョン・カーペンターしかり。
『トラックダウン』の何が良かったのかという問いに、2機のエレヴェーターに乗る者同士の銃撃戦が記憶に残っていると答え、そのありえないシチュエーションにおける撃ち合いがほとんど様式美の域にまで達していたことに感動したと言っていました。私は『トラックダウン』を観た事がないので、氏の言葉を受けて、改めて興味が涌いた次第です。

さて、この後は黒沢清の映画史的記憶を探るべく篠崎氏が用意した「清の異常な愛情」というdvdを流しつつ、黒沢作品のしかるべき箇所にどれほどの引用やらイタダキがあるのかという、黒沢氏にとってはいささか耳が痛く気恥ずかしくもあるようなトークへ。
まずは『スイートホーム』における『ジョーズ』や『スクワーム』からの引用が紹介されます。
黒沢氏はこれらの映像を受けて、アメリカ映画俳優のふとした表情について、独自の見解を聞かせてくれました。すなわち、のっぴきならない状況、すぐそこまで死が迫っているような状況下にもかかわらず、アメリカ映画の何人かの俳優達は、時折フッと笑顔を見せるが、それが日本では文化的な違いからか、俳優の質の違いからか、なかなか出来ない、とのことでした。『スイートホーム』における山城新伍の笑顔には、そのような背景があったのかと納得。

次に紹介された『カリスマ』における『ジョーズ』からの引用には、あまりにそのままなので笑ってしまいました。
そして、『危ない話2 奴らは今夜もやって来た』における『ザ・フォッグ』や『トワイライトゾーン/超次元の体験』のジョージ・ミラー篇や『ドラキュラ復活 血のエクソシズム』からの引用が紹介されますが、確かにああいうのがやりたかったんだろうなぁと快く納得させるその引用(イタダキ)ぶりで、まさにそれこそが黒沢清を黒沢清たらしめているのだろうと、妙に感動してしまいました。

最後に『LOFT』の話になり、篠崎氏による『めまい』の引用に関する指摘に、黒沢氏も素直にそれを認めていました。これは「文学界」における蓮實氏と対談でも触れられていたのですが、とうとう鬼門だったはずのヒッチコックをやってしまったのは何故か、ということを話していました。脚本執筆中、ラストに行き詰まり、氏は自ら罠にはまるかのように『めまい』を観てしまったのだと言います。観てみると、自分がやりたかったのはやはりこれだったんだと納得、結果、確信的に引用したという流れだったようです。
この時私はまだ『LOFT』を観ていなかったのですが、それでも黒沢氏はいささか韜晦的ながらも結果的にはいろいろ率直に語っていたようにも思われ、そんな姿を目の前で見る事ができたという体験は非常に貴重だったと思います。

一通りトークセッションが終って質問タイムが与えられ、2人から質問が挙がりました。
その中で、現時点のベストテンを聞かせて欲しいという大胆極まりない質問があり、もちろんそれに興味がない人間などこの場では皆無に違いないけれど、若い時であればいざ知らず、現在の黒沢氏がそうそう簡単にベストテンを発表することはありえないだろうと思っていたら、やはりその質問に答えるのは難しいと言いつつも、近年良かった作品を数本挙げてくれた時には、その質問者に感謝せざるを得ませんでした。そして挙げられた6本の作品がことごとく自分の好みと一致していたのに嬉しくなり、ついついニヤリとしてしまった次第。なるほど、スピルバーグは2本とも入りますか、なるほど、ペキンパーを敬愛する氏はやはり『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』を支持しますか、などという具合に。最後は『グエムル』という名前まで出て、「あれを日本でやったら大したものだ」的な発言もあり、だったら是非貴方がやってくださいよ高橋洋脚本で、などと無責任に思ったりも。

それともう一つ、このトークセッションで、黒沢氏の中での“アメリカ映画”とはどういうものか、という話が聞けたことも個人的には収穫でした。それはハリウッド映画とも異なり、当のアメリカにすら今は“アメリカ映画”が少ないということ。先述した近年のベストこそ、黒沢氏にとっての“アメリカ映画”なのだと深く納得しました。つまりそれは彼が求める理想的な映画の姿なのだ、と。

終了後、サイン会が催され、まだ持っていなかった「恐怖の映画史」を購入して黒沢・篠崎両氏にサインをして貰って充実した2時間は終了。あそこまで小さな会場でのトークセッションというのは初めてでしたが、期待以上に満足できました。

2006年10月10日

必見備忘録 2006.10月編

気づけば10月になっていました、という感じで日々は容赦ない速度で過ぎ去っていきます。
そういうものですから、先月見観逃した作品もあり、また図らずも観てしまった作品もあり、総じてみるとそれなりに観ていたような気も。
今月は映画祭月間(と私が勝手に読んでいるだけですが)ですが、重要なのはむしろ来月のほう。というけで、いつものように新作を追う形になりそうです。
あ、もう予約受付が終っているかもしれませんので詳しくは書きませんが、今月の下旬には、思いも寄らなかった作品の上映があり、非常に楽しみです。日本ではほとんど公開されることのない監督ですから。新たな出会いの予感……いや、そんなことはないでしょう、多分。
なお、レイトですが『40歳の童貞男』が渋谷でも公開されます。たまにはこういう映画も観ましょう。
もう一つ、「ユルグ・ブッドゲライト来日記念特集」なんて、アップリンク・ファクトリーやるなぁ……頭が下がります。


ワールド・トレード・センター』(上映中)
(渋東シネタワー 10:20/13:10/16:00/18:50〜21:15)
9.11という題材も彼にかかれば……さてどうなるやら。期待は薄。

ザ・センチネル 陰謀の星条旗』(上映中)
(新宿東亜興行チェーン 11:40/14:00/16:20/18:40〜20:45)
やっぱり渋谷ではやってくれないか…あ、でも六本木でやってる。

スケバン刑事(デカ) コードネーム=麻宮サキ』(上映中)
(新宿東亜興行チェーン 11:00/13:00/15:00/17:00/19:00〜20:45)
つい昨日、携帯のほうに強力なリコメンドを頂きました。さて、観るなら上の作品とセットですが…

ブラック・ダリア』(10/14〜)
(渋東シネタワー 10:45/13:30/16:15/19:00〜21:20)
どことなく期待させます。原作か、はたまたキャストか、あるいは監督か。いずれにせよ必見。

レディ・イン・ザ・ウォーター』(上映中)
(渋谷TOEI2 11:30/13:55/16:20/18:45〜20:50)
この出たがり監督にはまだ付き合うつもりです。

パビリオン山椒魚』(上映中)
(シネセゾン渋谷 11:45/14:10/16:35/19:00〜20:55)
おっと、すでに周りが結構観ているのに、まだでした。機は熟した!

チャーミング・ガール』(上映中)
(シアター・イメージフォーラム 12:15/14:30/16:45/19:00〜20:53)
とりあえず宣伝文句に踊らされてみます。

西瓜』(上映中)
(シアター・イメージフォーラム 12:30/14:35/16:40/18:45〜20:45)
こヴぃさん、さていつにしましょうかね? 連絡します。

百年の恋歌 侯孝賢(ホウ・シャオシェン)特集
(〜10/20 シネマヴェーラ渋谷)
そうだ、これがあったぞ!というわけで、時間を縫って行きます。

鈴木清順 48本勝負
(10/21〜 シネマヴェーラ渋谷)
で、次が日活時代の清順ですか。シネマヴェーラって本当に凄い。

緊急!上映会「ROUND2」
(10/22 15:00〜 映画美学校第一試写室)
久々の美学校試写室。万田邦敏、西山洋市の新作あり! 行けるか!?

例によって穴だらけだと思います。
追加情報等ありましたら、お気軽にコメントください。

またぞろ苦笑を禁じえないニュースが…

先日、こんなニュースを目にしました。

怖すぎて公開危機、米ホラー映画

 米ホラー映画の人気シリーズ第3弾「SAW3 ソウ3」(ダーレン・リン・バウズマン監督)が、あまりに凄惨(せいさん)な内容で、一般作品として「公開危機」に陥っていることが8日、分かった。配給会社はすでに、11月18日の封切りを決めたものの、映倫審査は本国からプリントが届く9日以降。何とか成人指定を避けたいとしているが、米国審査では4回も差し戻された問題作。配給、宣伝、劇場関係者は、本編の到着をハラハラドキドキの心境で待っている。

実は先週お会いしたmixiの友人・かおるさんは『SAW3』の前売鑑賞券を購入していまして、このシリーズどうなんでしょう? などと話していた矢先にこんなニュースを見つけてしまったわけです。

私は、『SAW』を劇場で観た時、それがすでに日本用にあるシーンをカットされているヴァージョンだと知っていて、若干のショックを隠せませんでしたが、どうやら今回もまたそれと同じ事態に陥りそうです。まぁ私自身、2作目の『SAW2』を観に劇場にまで足を運びながら、直前に監督が違うことに気づいて鑑賞を見合わせた程ですから、このシリーズに大した期待もしていないし、その内dvdで観ればいいかなと思っているくらいなのですが、アメリカよりもずっと厳しい(=私にとっては酷いとしか言いようがない)審査をする日本の映倫に関しては、やはり文句の一つも言いたくなってしまう、と。

私はまず、凄惨な串刺しシーンだとか、人体が無残に引き裂かれるシーンだとかを極端に好むマニアではありません。例えば初期のピーター・ジャクソンだとか、あるいはウォーホル&ポール・モリセイのホラーだとか、最近観た例で言うなら『徳川女刑罰絵巻 牛裂きの刑』なんかもそうですが、それらが素晴らしいと思うのは、結局は映画作品としての完成度が高いと思うからであって、もちろんそこにはスプラッター的表現の上手さや効果も含まれてはいるのでしょうが、ただそういうシーンだけを好んで、映画を観るマニアではないと自覚しています。

さてそんな私でも、本来であればそこにあるべき残虐シーンを排除された状態の、いわば“不完全な映画”には容易に納得出来ないというもの。もしかすると、その排除されたシーンこそが驚くべきショットだったりする可能性だって否めないにもかかわらず、恐らく我々観客よりもより多く倫理的で客観的だとは断言出来ないであろう日本の映倫による情報操作が“正しい”なんて言えるはずもない。

あるシーンが排除された映画だって面白い映画はある、という意見もあるでしょう。実際、『SAW』だって悪くはなかったのです。しかしそれはあくまで結果論であり、何ら排除されることの理由足りえません。そもそもシーンをカットする権利など、監督かプロデューサーにしかないと私は思っているのですが、彼らにだってショットを切る絶対的な正当性なんてわかりはしないだろうに、あろうことか映倫がさもそれが観客のためであるとか社会のためであるとか言いたげにショットを切るなど、それは私にとって暴挙としか映りません。まぁそれでも制作側が了解しているのであれば、どうしようもないですけど。公開されなければ映画じゃなくなってしまうので、やはり公開することが先決、ということでしょうかね。

恐怖を見せることを一応その存在意義にしているはずのホラー映画が、恐すぎるから駄目とは…まったく苦笑を禁じ得ませんが、昨今では、エロには寛大で暴力には厳しいのが日本の映倫の現実のようで。

やっぱり映画漬けだった連休

先週土曜日は2つの重要なトークショー(片方は講義と言うべきでしょうが)があり、それぞれが同じ時刻に始まると言う、映画好きにとっては悩める選択を強いられたわけですが、私はその定員の少なさに惹かれ、池袋のほうへ。本当に小さな会場で、ほとんど1m以内という距離で黒沢監督の話を聞くことが出来たという体験はやはり貴重でした。これについてはまた明日にでも。

日曜はmixiで知り合った方達と『カポーティ』に。すでに前売りを買っておいていただき、席の予約まで済ませていただいたおかげですんなりと鑑賞出来ましたが、やはりアカデミー作品だけに、シャンテ・シネは上映のかなり前から満員だった模様。出来栄えに関しては可もなく不可もないといった感じ。主役の存在感は大したものだと思った、という点では『Ray』を観た時に似ていたかもしれません。アカデミー賞はフィリップ・シーモア・ホフマンに与えられたのだ、ということは確認できました。監督は新人なので、それにしては、という感もないではありませんが、まぁ今後に期待といったところ。

祝日の月曜日は新宿をハシゴしようと決めていました。
まずはk's cinemaで『紀子の食卓』の整理券を取り、その後テアトル新宿で『LOFT』の整理券を取り、近くの店でハートランドなど飲みながら読書で時間を潰し、『LOFT』を鑑賞、急いでk's cinemaに戻って『紀子の食卓』を鑑賞。濃密な数時間を過ごしました。
『LOFT』も『紀子の食卓』も客入りはそれほどでもなく、おかげでゆったりと鑑賞できたので満足です。もちろんその出来栄えにも。『LOFT』に関してはホラー的なカメラの動きと、女優を撮ろうとする監督の意思みたいなものが拮抗していて、やはり黒沢的としかいいようのない不思議な、しかし面白い映画でした。一方の『紀子の食卓』、これは一応『自殺サークル』の続編ということになるのでしょうが、『自殺サークル』を観た時に感じた齟齬感が本作にはまるで無く、その演出も本当に堂々としていて好感が持てました。園子温という固有名詞に反応しない人にも是非観ていただきたい映画だと思います。

とりあえず連休はこんな感じで。
昨日、これまでに恐らく5回は観ている「古畑任三郎 vs .SMAP」をまた性懲りも無く観てしまい、彼(5人のうちほとんど主役だった人です)は映画よりもテレヴィなんだなぁと改めて感じた次第。
そういえば先述したmixiの友人(当サイトにもよくコメントをくれるchocolateさん)には本当にお世話になっておりまして、彼女のおかげで、念願の『カリフォルニア・ドールス』を入手することが出来ました。これで毎回渋谷TSUTAYAのアルドリッチコーナーに目を光らせておく必要がなくなりました。同じく『キッスで殺せ』と『北国の帝王』もいただきまして、感無量です。ここで改めて御礼を。ありがとうございました。

2006年10月04日

『楽日』にはただ途方に暮れるばかりだ

原題:不散/Goodbye, Dragon Inn
上映時間:82分
監督:ツァイ・ミンリャン

ほとんど台詞も無く、物語すら明確とは言えないであろうこの映画が、どうして私を惹きつけてやまないのか、映画は時に、観客をそのような説明不可能としか言えない環境に置きざりにします。いや、台詞や明確な物語が不在だからといって、映画には画面があり、そして音があります。目で見て耳で聞くことが出来るものがあれば、それで充分だと思わせる映画、それが『楽日』であるとしか今は言えません。

その名前は幾度も目にしてはいたし、映画好きの友人による、ほとんど魂の叫びとでも形容したいほどの擁護ぶりを目の当たりにさえしていたのですが、私はツァイ・ミンリャンという監督の映画を観た事がありませんでした。だから、『楽日』は私にとっての大いなる“発見”であったと言えます。映画を、あるいは作家を発見する時、人は少なからず、歴史を遡って思考するものだと思うのですが、私の映画史の中に、果たしてここまで豊かな、というか贅沢極まりない時間を意識させる映画があっただろうかと、上映中もずっと考えこんでしまうほど、本作は感動的なまでに映画を観ることの幸福を感じさせてくれました。

『楽日』には数人の男女が登場します。かれらは映画館にいるけれども、映画を観るためにそこにいるのかどうかはわからないような存在です。主人公と言っていい留学生役の三田村恭伸は、どうも映画を観にその劇場に来たとは言いがたく、座席についたとしても、ふらふらと位置を変えたりしながら、ほとんど挙動不審者としか言いようの無い、極めて虚ろな人物として描かれています。いや、彼だけではありません。その日限りで閉館しようとしている福和大戯院という大きな映画館で、本当に『血闘竜門の宿』を観に来ているのは、たった2人だけだと言えるでしょう。嘗て『血闘竜門の宿』に主演した元俳優であるミャオ・ティエンとシー・チュン以外、誰もがそこにいる必然性などない人物たちです。だけれども彼らは間違いなくそこに存在している。曖昧に、そして時に如何わしく。

「この映画館には幽霊がいる」。ある男がそのように口にするシーンがあります。
その男が、三田村恭伸にタバコの火を貸すシーンの、あの湿り気を帯びたエロティックな画面はどういうことでしょうか。もちろん、そのシーンより前に存在するトイレのシーン(このシーンには終始“にやけ”が止まりませんでした)を想起するまでもなく、この劇場が“ホモセクシャルな男達のための場”としての機能を果たしていたということが暗喩的に仄めかされていたのですから、男同士のそんな何気ない仕草にエロティシズムが漂っていても不思議はないのですが、ここでもやはり指摘しておきたいのは、たった一言の台詞と、火を点けタバコをふかすという動作それ自体に漂う美しさと淫靡さなのです。その意味で、彼らがホモセクシャルかどうかなどという問題とはまるで無縁の美しさと言えるでしょう。雨音も薄暗い照明もまた、その美しさには欠かせませんが、私はこのシーンを観て、“画面を凝視する”という行為それ自体にの重要性を再認識しました。言い換えれば、映画における“画面の官能性”を目と耳で実感したということでしょうか。

しかしながら、「幽霊がいる」と呟く彼自身が幽霊でないとは誰も断言出来ません。その代わり、この福和大戯院という、消滅を運命付けられた建造物自体は、間違いなくそこに存在しているのです。監督自身が、あらゆるシーンを劇場から聞こえる声に従って撮った、と言っているように、この映画の主役はあくまでこの劇場であり、登場人物たちはやはり、いるのかいないのか曖昧な幽霊的存在でしかないのかもしれません。迷路のように入り組み、そしてところどころ朽ち果てつつある巨大な廃墟は、しかし、その命を未だ完全に消し去っておらず、確実にその場所にある。本作においてあまりに印象的な人々の足音(その音の素晴らしさは『ジェリー』を想起させます)は、むしろ、劇場自体が発した音だと言うことも出来るのです。

『楽日』において、人々は“出会う”ということを禁じられているかのようです。
それが最も印象的な形となって顕れるのが、足を引きずったもぎりの女性と、彼女が思いを寄せているらしい映写技師によるすれ違いです。この2人は映画の終わりまで(遂に劇場が閉館してしまってからも)、触れ合うことはもちろん、言葉を交わすこともありません。そしてこの一方通行性は、観客とスクリーンの関係に置き換えることが出来るでしょう。たった2人の元俳優がスクリーンに投げかける視線の一方通行性(本来映画を観るとはこういうものです)、あるいは、上映されている映画など観ようともしない虚ろな観客達を、スクリーンが一方的に見ていると言うことも可能です。彼らの視線は真に交わることがない。
上映が終った時、2人の元俳優が言葉を交わすという何気ないシーンに涙しそうになったのは、彼らから呟かれる「誰も映画を観なくなってしまった」という言葉に、失われつつある映画そのものに対する郷愁を感じ取ったからではなく、全てにおいて交わることの無かった一方通行の視線が遂に出会い、言葉が交わされたからなのでしょう。

その日を最後に閉館してしまう劇場に、幽霊のように曖昧な存在の人や、決して言葉を交わさな男女や、郷愁とともに画面を見つめる人がいる。彼らの足音を再び記憶から掘り起こしてみると、何故か足音だけが妙な存在感を纏っていたということに思い至りました。それらは紛れもなく、“生”の存在感として、“死”に瀕した劇場にこだましていただろうし、言い換えればそれだけが、あの劇場の存在を確固たるものにしていたのだろう、と。ただ老朽化した劇場に足音が響くだけで、やはりそれは豊かで、贅沢で、感動的なのです。本作が本当に傑作と呼べる作品なのかも、実はわからないままですが、それすらもこの際どうでもいい気がしてくるから不思議です。

つまり『楽日』は私を置き去りにしたまま、あの劇場のように遠くに去ってしまったということでしょうか。
これまでいろいろ書きましたが、結局何も言い得ていない気がしています。面白いの一言で済ませられず、思考による発見にも期待出来ないのなら、私は素直にただ途方に暮れてしまおう、そして出来ることなら、あの画面と音をこの先も記憶しておこうと思います。

2006年10月02日

久々の涙/悩ませるラインナップ

先週は映画4、5本分に匹敵する『鉄西区』を観たので週末は映画以外のことに費やそうかなどと思い、いいタイミングでフットサルのお誘いがあったので参加してきました。2ヶ月前に骨折したことはまだ記憶に新しく、今回はその時の教訓を受けて慎重にプレイしたため、怪我こそしませんでしたが、翌日から下半身の筋肉痛というか関節痛というか、鈍い痛みに襲われております。ただやっぱりスポーツはいいものですね。まぁ半分はその後のビールのほうにウェイトが置かれているわけですが。

さて、もう一日ある休日も映画以外のことを、などと思ってみても、とりわけ家でギターを弾くくらいしか思い浮かばず、別に休日じゃなくたってギターは毎日弾いているので改めて一日中弾くこともないよなぁ、と
結局は映画館に足を運んでしまったわけですが、いつもながら、その日が映画の日だということを劇場に到着してから気づくという体たらく。映画の日とレディースデイだけは映画を観るのを避けようと思っているのに、どうして毎回同じようなことを繰り返すのか、我ながら嫌になります。
朝10:30の初回だというのに、30分前に到着して整理番号153番。ここは定員が200名ですから、まず希望の席は確保出来ないだろうと諦めかけましたが、座れないわけではないし、今回ばかりは止む無く受け入れ、映画の出来に期待することに。最後列の一番右側という、決して観やすい位置での鑑賞ではありませんでしたが、映画自体の出来栄えはまったく素晴らしく、あからさまに“泣かせる”シーンでまんまと泣いてしまいました。自分は間違いなく、主演の松雪泰子と蒼井優、そして富司純子によって泣かされたのだと思い至り、女優に感動して泣くという自分にとっては始めての体験が新鮮でした。特に本作の松雪泰子は何だかこれまで映画で観た彼女とは印象が異なっていて、素直にいいなぁ、と。

まぁそんなこんなで過ぎ去った週末ですが、そろそろ毎年恒例となった映画祭週間が近づいてきました。TIFFを取るかFILMEXを取るか、などと二者択一にする必要はまるでありませんが、双方のラインナップを見るに、どう考えても魅力的なのはFILMEXのほう。ジャ・ジャンクーにツァイ・ミンリャン、黒沢清にジョニー・トー、そしてアピチャッポン・ウィーラーセタクンまで並べられた日には、いったいどうすればいいんだと途方に暮れるしかなく、さらに追い討ちをかけるようにダニエル・シュミットの追悼上映まであるのですから、映画好き泣かせとしかいいようがありません。
もちろん、TIFFのほうも、青山真治の『こおろぎ』だとか奥田瑛二の『長い散歩』だとか、イーストウッドだって今村だって絶対に観たいに決まっているので、昨年あまりいい思いをしなかったとはいえ、TIFFを完全に無視するというのも気が引けます。

すでにチケットが発売されているものもあるので、後は予算とチケットぴあとの相談ということになりましょう。普段劇場でよく会う友人・知人の皆様には、例によってまたどこかでお会いすることになるかと思いますが、その時はよろしくお願いします。
それにしても悩むなぁ……