2005年09月27日

TSUTAYA“から”返却される

先週はちょっと観きれないほどのヴィデオ・dvdをレンタルしてきたんですが、それを昨日返却した際、誤って私物のヴィデオも一緒に返却してしまいました。この場合、返却ではなく、奉仕ということになりますが。
何故それに気が付いたかというと、会社のほうにTSUTAYAの店員から電話があったからです。実はその私物ヴィデオ、恐らくどこのTSUTAYAにも置いていないだろう非常に貴重なイタリア映画でして、そのまま店頭に並べればそれなりの需要を生んだだろうな、とも思うのですが、もちろんそんなことが起こるはずもなく、昨晩、今度は私のほうが返却してもらいに行ったところ、すでにTSUTAYAは閉店しておりましたので、本日再度行かねばなりません。

まぁそんな話はどうでもいいとして、先週は劇場でも2作品鑑賞しました。
1本目はヴィンチェンゾ・ナタリの新作『NOTHING』。シネセゾン渋谷の客入りは初回で6割くらいでした。ヴィンチェンゾ・ナタリは悪く言えば“映像派”的な部分があるのですが、それが一人歩きしているという感覚はなく、あくまで、あの画面は物語の世界観を表現するための手段なのではないか、と。不可避的な“何か”から何とか逃れようとする人間が右往左往する彼の作品には、その“何か”を表す強烈な映像が要請されるのではないかと思います。で、『NOTHING』ですが、通常の映画では観ることの出来ないカメラの視点があって、それ自体は確かに面白い発想だな、とも思いました。明らかに笑いを意図したシーンにも素直に笑えたので、全体としては悪くないといった感じ。

2本目はすでに鑑賞済みの『リンダ リンダ リンダ』です。鑑賞前に山下監督の旧作を2本観て、遅まきながらその才能を確信。何としても劇場でもう一度観たくなってきたので。すでに公開から2ヶ月が経とうとしていたせいか、会場のシネ・アミューズには10人ほどの観客のみでした。2度鑑賞した今、『運命じゃない人』に続いて強力プッシュの映画だと言えるでしょう。まだご覧になっていない方、恐らく貴方が想像している以上によく出来た作品だと思いますので、是非。

そうそう、本来であれば土曜日にグルダットの『渇き』を鑑賞する予定でした。が、ヤクザな雑用に追われて、断念。残念至極。これでまた当分インド映画から離れることになるでしょう。

最後に、冒頭に書いたヴィデオのタイトルは『愛と殺意』です。Googleで検索せずにこのタイトルが誰の映画かわかった方とは、是非酒でも飲みながら映画の話をしてみたいです。

「形式」を「内容」に・・・

最近、私の生活は文字どおり映画を中心に回っているといいますか、少なくとも仕事以外で何らかのスケジュールを立てる場合、その日は何時にどんな映画を観る予定だったかということが大前提としてあるわけで、その傾向か以前に比べてさらに強くなってきています。

ブログ運営者として、このような発言をしてしまうのもどうかと思いますが、それでもあえて言うなら、映画を観ることに比すればこんなちっぽけなブログの存在価値など無いに等しいとすら思っており、そう思うからこそ、毎週一本でも多くの映画を観ようと努め、またそれと反比例するかのように、更新頻度が極端に落ち、(あくまで自分なりに)深い考察に基づいた長文のレビューも書けなくなっている、という現状なのです。

では、何故そんなブログを放棄しないのかといえば、それは単純に、書くことにもある種の快楽を感じたりしているからであり、備忘録的な意義もゼロではないと思うからであり、そして何より、こんなブログでも日々覗いてくれる方々の存在があるからです。

ところで、あらゆる事物には基本的に「形式」と「内容」がありますが、このサイトについて言えば、現在の「形式」に「内容」が追いついていない状態だと言えます。それは私としても本意ではありません。だけれども繰り返しますが、やめる気もまたさらさらありません。だとすれば、「形式」を「内容」にあわせるという手段が、最も効率的で、かつ、精神衛生上良いであろう、と。

というわけで、現在の生活が劇的に変貌するか、あるいは崩壊するまで、当サイトの「形式」を変更することにします。レビューは短く、その分頻度は多くという感じにしようかと。月末に更新している「映画短評」は一端休止し、その分、観た映画のレビューはなるべくその日中に更新することにします。

ただし一言申し添えれば、「短い」という概念も専ら個人的なものです。
よって、読む人が読めばいささかも「短くない」可能性もあるでしょう。が、重要なのは、私がどのように判断するかということなので、その辺はご了承いただければと思います。

まぁこんなことはわざわざ記事にするまでもないことなのかもしれませんが、そこは「形式」にも頓着する性格、ということで・・・

2005年09月20日

今週のdvd

昨日、TSUTAYAでレンタルした作品は下記の通りです。
7本も観られるのか? という自問自答を避けつつ、久々に邦画コーナーに足を踏み入れた結果、このような結果になりました。
(>こヴィさま 『アイスストーム』すっかり忘れてたので、次回に持ち越します)

ばかのハコ船』(山下敦弘)
とんでん生活』(山下敦弘)
もちろん、『リンダ リンダ リンダ』を受けて。大いに期待しています。

女学生ゲリラ』(足立正生)
荒野のダッチワイフ』(大和屋竺)
殺しの烙印』(鈴木清順)
特に理由はありません。前を通りかかった時に、気づいたら手にしていました。

夜ごとの夢 イタリア幻想譚』(マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ他)
『輝ける青春』を受けて。マルコ・トゥリオ・ジョルダーナが初めて日本に紹介された本作は、しかし、ジュゼッペ・トルナトーレ人気にあやかったものだったという厳しい現実を忘れてはならないと思った次第。

PFFアワード2004 Vol.1』(廣末哲万、他)
目当ては『さよなら さようなら』。これで現在観られる“群青いろ”作品は網羅できるかと。

ちなみに、今週は新作の鑑賞をやめて、『運命じゃない人』と『リンダ リンダ リンダ』を共に観直そうかと思っております。と思ってMovieWalkerを観てみると、ヴィンチェンゾ・ナタリの新作『NOTHING』が始まっていたので、これは観ることにしましょう。89分という上映時間が素晴らしい。せめて『マシニスト』以上の出来であってくれればいいと思います。

2005年09月19日

今年一番の映画週間

先週は映画体験的にかなり充実していたためか、当サイトの更新も忘れるほどでした。劇場で観た4本はいずれも全く趣の異なる作品で、いきおい、それぞれの評価に揺れもあるのですが、それでもそれだけの映画を観たという事実に変わりはなく、私における一週間の充実とは、このようにも決定付けられるんだな、ということを改めて確認した次第です。
以下、それぞれの映画に関して、簡単に記しておきます。

まず15日は会社を休んで『輝ける青春』@岩波ホールへ。
これまで何回かはそのような非=社会人的な行為をはたらいてきた私、しかし、今回ほど自分の選択の正しさを確信したことはなかったかもしれません。鑑賞後、相棒ng氏と軽く飲みましたが、その時我々の口から幾度となく漏れた言葉は「最高だ」とか「大満足だ」とかいう、あまり内容のない抽象的な、しかしながら心から正直な言葉だったと言えるでしょう。

岩波ホールは、会場時間を待たずに、10:00の段階ですでに40人ほどの列が出来ていました。会場後、客席を見渡してみると、これが見事なくらい中高年以上の男女で埋め尽くされ、我々二人がまるで場違いな感覚も。嘗て有楽町朝日ホールで観た「ヴィスコンティ映画祭」ですら、もうちょっと若者がいたように思いますが、それは、『輝ける青春』が限定的に上映されるという情報が中高年以上の人々には届き、それ以外の人々には届きづらかったということなのか、あるいは、普段渋谷で映画を観るような若者たちにも情報は届いていたにもかかわらず、彼らが観ないという選択をしただけなのか、もしくは、単純に岩波ホールという会場が放つ磁力が、ある限定的な層だけを峻別したのか、それともただ単に平日だったからなのか、とにかくそのような疑問が頭をよぎり続けました。しかし実際、そんなことはどうでもいい話です。すでに上映が終わってしまった映画に対し、「必見!」などと声高に叫ぶのもどうかとは思いますが、これから地方に巡回するようですし、東京でも12月には下高井戸シネマでの再上映が決まっているらしいので、私はとにかく12月を待って再度駆けつけたい、と。本作は、映画の素晴らしさを6時間という時間を通じて、とくとくと語りかけてくるようなそんな映画でした。

さて、土曜日はこちらも大きな期待を寄せていた特集上映「ドイツ時代のラングとムルナウ」へ。今回の目的は『スピオーネ』と『ハラキリ』、いずれもフリッツ・ラングの作品になります。時間の関係上、ムルナウを1本も観ることが出来なかったのは悔やまれますが、このような後悔の繰り返しこそ、映画好きを映画好き足らしめるものだと半ば開き直りつつ、いつくるか分からない次の機会を待つほかありません。

『スピオーネ』は土曜日の14:30からの上映でしたが、その日は9:30から当日の整理券を配るということでしたので、早朝から有楽町に一人残されてしまった私は、『スピオーネ』上映前に別の作品を観ることで時間の埋め合わせをするべく、有楽座にて上映が始まったばかりの『NANA』を鑑賞。その日の客層は、原作を全く読んでいなかった私にも容易に想像出来ましたが、果たして、80人ほどいた観客の大半が若い女性で埋め尽くされ、その世代における『NANA』に対する無条件の共感めいたものが劇場を支配しているかのよう。私は私で、宮崎あおいに対するひそかな思いがあるとかないとか、あるいは大谷健太郎監督へのほのかな期待もあるとかないとか、まぁそんな感じで上映を待っていたわけですが、結果的には……今はそう言うにとどめておきます。

一方の『スピオーネ』ですが、こちらは流石に朝日ホールだけあって、『輝ける青春』ほどではないにせよ、高めの年齢層でした。7割方は埋まっていたのではないかと。私の右隣には初老の女性がいまして、それ自体には何の問題も無いのですが、上映が始まって間も無く、その女性は、これがサイレント映画だと言うのに、グーグーとその身なりからは想像もつかないような豪快な鼾をかいて眠りだし、あろうことか自らの放屁で飛び起きる始末、その一部始終をすぐ隣で冷静に見遣りつつも、しかし、『スピオーネ』自体は今から70年以上前に作られたとは思えないほど堂々たるサスペンスであり、まったくもって驚きを禁じえません。中でも日本大使館付きの諜報員であるDR.マツモトなる人物が演じる切腹の場面とラストで拳銃自殺するスパイ組織の黒幕・ハギの一切の身振りは、長らく記憶に残るであろう感動的な身振りでした。

さらに翌日も朝日ホールへ。日本未公開であり、特殊な機会にしか上映されていない『ハラキリ』を鑑賞しました。客席は予想以上に空席が目立っていましたが、突然目の前に会社の先輩夫婦が現れるというハプニングがあり、私の職場にもこの貴重な機会に駆けつける映画好きがいたのだということに感動を禁じえず、あちらはどうだったのかわかりませんが、私としては連帯の気持ちを込めて会釈した次第。
『ハラキリ』は76分という短めの上映時間でしたが、それでも四方から鼾や寝息が聞こえてくるというが何とも不愉快でした。これがサイレントでなければ、ほとんど気にならないのでしょうが、寝るならせめて無言で寝ろと言いたくもなります。私は何故かこの手の貴重な機会に、なんでこういう時に限って…と思うことが多いようなそんな気も。まぁそれも恐らく相対的なもので、普段も劇場には様々な人間がいるはずなのに、それを気にかけていないだけなのかもしれませんが。
表現主義という言葉を体で理解するほど、私はそれら作品群を観ておらず、本でかじった程度の知識しか持ち合わせていないのですが、この『ハラキリ』に関しては、所謂ドイツ表現主義の片鱗などいささかも見られませんでした。随所に出鱈目ともいえる日本観が表出してはいるものの、簡潔なショットの連鎖と、どう見ても日本人には見えないヒロイン“o-take-san”を演じるリル・ダーゴヴァーの悲壮感がダイレクトに伝わる演出、とりわけ、海岸を舞台にした2つのシーンの美しさは、それがラング作品だと言われなくても、映画における出色のシーンだったような気がします。今回は染色版での公開で、シーンごとにプリントの色が緑がかっていたり青みがかっていたりしましたが、特に黄色がかったシーン(昼間のシーン)での光(逆光だったかもしれません)が非常に素晴らしく、印象的でした。

というわけで、先週は今年一番の映画週間でした。
明日辺り、先述した会社の先輩にメールでもしてみようか、などと考えているところです。

2005年09月15日

『春の底』と『阿佐ヶ谷ベルボーイズ』、インディーズも侮りがたし

上映時間:23分/41分
監督:松村真吾/広末哲万

まずは『春の底』という短編に関して。
DV・モノクロで撮られた23分の本作には、脚本が存在せず、設定だけ与えられた俳優が即興で演じたのだといいます。ファーストシーンは恋人同士の口論ですが、興奮気味の彼女の演技が果たして“リアル”だったのかどうか、正直わかりませんでした。子どもを孕ませた彼が中絶代金を工面するために、ある初老の男性の息子に成りすまして手紙を書きますが、その字の下手さ加減は悪くない。誠実であろうとするわりに、やっていることがあまりに杜撰で出鱈目であるという部分が、なかなか良く描けていたと思います。

全体的に画面に落ち着きがなく、室内でかなり低い位置に据えられたカメラも、生きていたとは言いがたかったのですが、決して不愉快な作品ではありませんでした。

もう一本の『阿佐ヶ谷ベルボーイズ』は、『ある朝スウプは』に続いて廣末哲万の主演。今回は監督と編集も兼ねています。どちらかというと抑制された演技をする廣末哲万が、ある瞬間にその感情を爆発させるシーンは、前作同様感動を禁じ得ません。

近年、映画にこれほどまでの居心地の悪さを感じたこともそうありませんでした。居心地の悪さとは、その場にある空気がなかなか透明になろうとしない状態だと思いますが、そのような場を生み出すのは、並大抵ではないはず。高い演出力はそれだけで証明されるのではないでしょうか。

3つの場所での出来事が並行して描かれる本作では、その編集にも注視したいところ。物語が進んでいくに従って、それぞれの場面が異様な緊張関係を保っていく。あるシーンの切れ目と次に続くシーンには、目に見えない一瞬の“危うさ”が存在していて、それがシーンごとの緊張関係を生んでいくかのようです。

登場する誰もが、他者の感情を共有出来ない。同僚の死を前に、それぞれがそれぞれの闇を抱えながら右往左往し、それでも生きていくしかないという諦念すら感じますが、本作はそのような諦念に最後の最後で光を点す。それが同僚の女性と廣末哲万との切り替えしとして描かれる時、曰く言い難い安堵感を覚えました。

小さな作品ではありますが、その独特な存在感は長らく記憶に残るでしょう。私はこういう作品が好きなのかもしれません。

2005年09月13日

『皇帝ペンギン』、この捏造ドラマには我慢出来ない

原題:LA MARCHE DE L'EMPEREUR
上映時間:86分
監督:リュック・ジャケ

毎度の事ながら、“フィクションとドキュメンタリー”という問題に直面した時、私は無駄に思考してしまう他ないのですが、それでも本作をドキュメンタリーと呼ぶことが躊躇われるのは、皇帝ペンギンの過酷極まりない生涯を描きながらも、それを(無理やり)人間の価値観にあわせた上で、ある一つの“感動的”なドラマを捏造しようとする姿勢にいささかも共感できなかったからです。

餌の宝庫という意味で一種のオアシスである海中で、ペンギンがサメに襲われるシーンがあります。サメは容赦なくペンギンを食おうとし、ペンギンは何とかそこから逃れようとする。しかし、何故そのシーンをスペクタクルとして見せる必要があるのでしょう。何故、サメがカメラに向かって大きく口を開くショットに、あまつさえ仰々しい効果音を重ねる必要があるのでしょう。それが家族向けの娯楽映画だからという理由で、その手の凡庸過ぎる悪しき手法で観客にエモーションを強要することが、私にはどうしても許しがたかった。

ドキュメンタリーが全て真実だなどという妄想はとうの昔に捨てているつもりですし、スペクタクルを全否定する頑なさもどうかという立場ですが、たとえ映画がすべからく“嘘”で成り立っているとしても、このような捏造ドラマを許容するわけにはいかず、昨今、フランス産の動物ドキュメンタリーがそれなりの観客を集めているだけに、この手の手法がスタンダードになってしまったとしたら…とおせっかいな心配の一つもしてしまいます。

対象との距離。少なくともドキュメンタリーと名乗るのであれば、それが最重要になってくるのだと私は思うのです。例えば、『ゆきゆきて神軍』と『神様の愛い奴』の間にある決定的な断絶も、まさにこの点に存しているのだと。

2005年09月12日

邦画4本を頬張る

先週レンタルしていたdvd4本は土曜日中に返却しなければならず、にもかかわらず土曜日午前中の時点でまだ1本と半分しか観ていなかったので、土曜日はジムを諦め、早朝からdvd三昧という、いささか辛い休日の始まりでした。
が、観た作品はどれもが(当たり前ですが)水準以上の出来で満足。やはり新作と並行して旧作を観ていくことは重要です。今後はこの活動にも新作を観ることと同じ熱意で臨んでいかねばならないな、と思います。

というわけで、土曜日に観た新作は『リンダ リンダ リンダ』の1本のみでした。
山下敦弘監督は本作が始めてでしたが、なるほど、これは非常に良く出来た青春映画です。今週で終ってしまうようですが、もう一度観る価値はあるとすら思います。一言で言うなら、この映画は“沈黙が最も雄弁に語っている映画”だった、と。もっと(オフビートな)ギャグに溢れた作品だと思い込んでいましたが、もちろん、ところどころで笑ってしまうシーンはあったものの、本作にはギャグのためのギャグなどほとんどなかったような気も。それが良いとか悪いとかではなく、その堂々たる青春映画ぶりに、大変好感を持ったと。まぁそういうことです。
詳しくは別途レビューで書ければ、と。

『リンダ リンダ リンダ』に触発されてか、先週レンタルしたdvdは邦画に限定してみました。比較的新しく、でも何となく封切りで手が出なかった3作品です。
音楽を媒介にした青春映画という点で『リンダ リンダ リンダ』と類似点を持つ『スウィングガールズ』は、『リンダ リンダ リンダ』とは全く似ていない映画だったような気も。本作には、とにかくギャグに溢れています。私はどのギャグにも大して笑うことが出来ませんでした。一度は分裂した彼女たちが、突如ビッグバンドとして演奏を始めるあたりの御都合主義は、むしろ堂に入っている感じで許せた次第。加えてラストの演奏会は、カタルシスというほどではありませんでしたが、悪くはなかったです。

次に観た『ジョゼと虎と魚たち』にも上野樹里が出ていましたが、それは全くの偶然です。で、この映画、思ったよりもラブシーン、というよりはキスシーンがエロティックで、その点は評価します。特に驚くべきショットはありませんでしたが、裏を返せばどのシーンも妙にあっさりしていて、そこに漂う空気感がきちんと統一されていたようにも。いずれにせよ、『タッチ』も観なければならないようです。

『約三十の嘘』は、今回レンタルした3作品中最も期待していました。というのも、『アベック モン マリ』がなかなかの映画だったように記憶していたからです。観た結果、もし本作が全く無名のキャストで撮られていたならと、いささか残念だった部分も。個人的な好みは置くとして、中谷美紀は悪くなかったと思いますが、全体的に何となく食い足りない感じも。
その理由を考えてみると、本作には、観客を騙してやろうという悪意のようなものが感じられず、それはもちろん、本作がサスペンスでもミステリーでもないオトナの群像劇なのだから当たり前だとは言え、“嘘”という実に映画的な題材をそのタイトルに持つ映画であるなら、やはりその“嘘”の魅力にこそ私は期待してしまうし、そういった観点で立てば、本作の中途半端ぶりが惜しまれたな、と思うのです。ただし、その中途半端が意図されたそれであったのだとしたら、その“ゆるさ”が大谷監督の持ち味であるとするなら、それはそれで一つの評価にもなるなぁ、などとも思います。『NANA』は全く読んだことがないのですが、こちらも必見、ですかね。

最後にもう一度『リンダ リンダ リンダ』に話を戻すと、天才的とも言えるキャスティングの中で、私が最も感動的だった人物は、中島田花子役の山崎優子でした。あのブルージーなしゃがれ声の素晴らしさ…何てにくいキャスティングでしょうか!

『ベッピーノの百歩』、この美しいイタリア語を堪能して欲しい

原題:I CENTO PASSI
上映時間:104分
監督:マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ

マルコ・トゥーリオ・ジョルダーナ監督は、これまで幾度となく描かれてきたシシリアンマフィアを、抗争という切り口で描くのではなく、あくまで血縁(家族)の過酷さという観点から描きます。

人は生まれた瞬間からその家族を選べないが、人生を選ぶことは出来る。その闘争の過程は、たとえこの物語が実話を基にしていなくても感動的です。

幼少時代、親戚一同を前に熱心に詩を朗読するジュゼッペ・ベッピーノ・インパスタートは、後にラジオを通じ不特定多数に向けて熱弁を振るいます。その時に発せられるイタリア語のあまりに美しく甘美な様が忘れられません。

主演のルイジ・ロカーショには、強く「ブラボー!!!!!」と言いたい気分です。

2005年09月09日

『チーム★アメリカ ワールドポリス』は反道徳的なファンタジーである

原題:TEAM AMERICA: WORLD POLICE
上映時間:98分
監督:トレイ・パーカー

政治を笑いに転化させること。世界には風刺画という古くからの文化があるくらいなので、そのこと自体は実はそれほどスキャンダラスではありません。映画においても、最近ではマイケル・ムーアがそのことを嫌と言うほど思い知らせてくれたのだし、『華氏911』が世界にあれほど受け入れられたのも、政治が笑いの対象として相応しいことを誰もが体験として知っているからでしょう。

さて、本作は様々な固有名詞に溢れていて、仄めかしなど無いに等しい。この“ドキュメンタリー性”故に、それは確かに笑える。さらに、それを演じているのが全て人形であるということが、予め笑うことを強いてもいるでしょう。この人形の存在というのがことのほか大きく、エロ・グロ・ナンセンスのみで成り立っている本作は、その度を越した反道徳性の割りに、一種のファンタジーとして映ってしまうのかもしれません。

カメラの動きや位置は、人間を撮る場合とほとんど変わらず、それが人形だということを忘れさせる、とまでは言いませんが、アメリカ映画的なリアリティに貢献していたと思います。つまり、悪く言えば全編を通して図式的ですが、そんなことは百も承知だとばかりに、全てを暴いていくあの印象的な挿入歌の数々には素直に感動しました。

2005年09月08日

『ある朝スウプは』に横溢する痛みは貴重である

原題:ある朝スウプは
上映時間:90分
監督:高橋泉

「群青いろ」という、今風に言えば“映像ユニット”を、ご存知でしょうか。その中心にいる高橋 泉(群青いろ 青)と廣末哲万(群青いろ 黒)は、自主制作ながら2001年から現在まで、数分の短編から30〜40分の中篇をすでに20本以上製作しています。PFFでのグランプリに選ばれた本作は、彼等の長編デビュー作ですが、彼等が描こうとしているものは、実は最初から変わっていないのかもしれません。そしてその変わらない核とは、“痛み”だと思います。

『ある朝スウプは』は端的に言って痛ましい。行為も、言葉も、そして合間に挿入される風景すら痛ましいのです。出来れば目を背けたいのですが、しかし、瞳は画面に吸い寄せられていく。画面から強力な磁力が放射されているからです。いや、あえて“痛ましい”という客観的な形容詞を使うのはやめましょう。『ある朝スウプは』は直接的に“痛い”。その意味でかなり狂暴な作品だと思います。

主演の廣末哲万が、同棲している恋人役の並木愛枝を発作的に殴る場面。ほんの一瞬で終ってしまうそのアクションが、どれほど痛いことか。その平手打ちが痛々しいのではありません。鬱屈しつつある男の感情が、本人の意思で制御できずに爆発する瞬間の身振り自体が痛いのです。そして、不当にも殴られた並木愛枝はその時、純度100%の涙を流すでしょう。黒い怒りと青い悲しみとに彩られた、群青色の涙を。私が最も感動したシーンです。

恋人同士も所詮は他人。それはしかし必ずしも悲観的結論ではありません。本作は、その先にある世界への扉を、そっと提示しているに過ぎないのですから。

2005年09月05日

自戒を込めて・・・何でも観なきゃね、ということ

相変わらずいくつかのレビューが滞っておりますが、今はとにかく可能な限り多くの映画を観たい、というより観なければという欲求のまま生きておりますので、正直言って“書く”余裕があまりないのです。こういう雑記めいた文章であればいくらでも書けるのですが、こと作品評に関しては、なかなか思うに任せられず、ただ、以前ほどにはそのような状況に焦りを感じることもないので、それは1年以上続けてきた一つの成果だろうと、ややポジティヴに考えているところです。

というわけで先週は、TSUTAYA半額セールを利用しまして、ヴィデオを4本ほどレンタル。劇場では『ランド・オブ・ザ・デッド』1本のみの鑑賞となりました。
レンタルしたのは、
・『ガッジョ・ディーロ』(トニー・ガトリフ)
・『ベンゴ』(トニー・ガトリフ)
・『不安』(ロベルト・ロッセリーニ)
・『革命前夜』(ベルナルド・ベルトルッチ)
になります。
トニー・ガトリフ2本に関しては、先日こヴィ氏から薦められて、ロッセリーニとベルトルッチに関しては、ここ数週間のイタリアづいた生活の反映ということになります。もう1本くらい、例えばヒッチコックとかフライシャーあたりのアメリカ映画を借りても良かったのですが、今週観られるギリギリの本数が4本と判断したので。今月はこのペースを何とか守って行きたいと思います。

さて、まずは『ガッジョ・ディーロ』に関して。
TSUTAYAで思い出したんですが、トニー・ガトリフは実は初体験というわけではなく、かなり前に『海辺のレストラン/ガスパール&ロバンソン』を観ていたのでした。本当にすっかり忘れていましたが、ああ、あれはなかなかいい映画だったよな、と思い当たり、それならばということでそれなりの期待を込めて『ガッジョ・ディーロ』を鑑賞した次第。結論から言いますと、かなり好きな映画です。
どうも出ずっぱり感が強いロマン・デュリスが、冒頭で、雪の一本道を歩く場面。私はあのように単調な“歩き”にめっぽう弱く、きちんと雪(氷)を踏みしめるショットまで見せてくれるので嬉しくなり、歩きつかれた彼が、傍らに放置されている墓のような石のそばに腰をおろし、ナイフでチーズだかパンだかを食べながら一息つくまでのシークエンスはほとんど申し分ない導入部だったと思います。
感動的だったのはなんと言ってもロマの楽士が歌い踊る場面で、とりわけ、ある老女が兄弟の悲劇を歌う姿と、それを聞きながらサビーナ(ローナ・ハートナー)が一筋の涙を流すショットに、私もつられて涙を流しそうになり、グっと堪えてしまいました。“よそ者”としてのステファン(ロマン・デュリス)とロマとしてのサビーナの残酷な対比。
対比といえば、ステファンをロマの村に迎え入れた老楽士・イジドールの存在。このような老人の存在がいかに作品を豊かにすることか、あらためてその人物配置の的確さに納得しました。
サビーナの何かを発見したような笑顔で終るラストシーンも実に忘れがたく、いい映画を観たという満足感に包まれました。
こヴィ氏に感謝します。『ベンゴ』にも期待ですね。

最後に劇場で鑑賞した『ランド・オブ・ザ・デッド』に関して一言二言。
私は特にロメロファンというわけではなく、しかし、すでに一つの神話を創り上げてしまったこの監督を無視するほどアメリカ映画に対し無感覚ではいられなかったという、ただそれだけの理由で鑑賞するに至ったのです。
全体的に言えば、想像以上の場面に出くわす驚きは無いに等しく、それは監督の意向なのか、あるいはユニヴァーサルの所為なのかはこの際置くとしてもやや食い足りなかったものの、やはりゾンビたちが人間を喰らう場面を数シーンでも観られたことは素直に嬉しいし、ロバート・ジョイのあの仕草を観ればいやでもニヤリとしてしまうし、ロメロとダリオ・アルジェントのかつての関係性が、今回、アーシア・アルジェントの起用という形で再奏されていることも心憎いといえば心憎く、もはや夏休みのデートムーヴィーとしても充分に期待されてはいないような閑散とした大劇場でこの作品を観るという行為には、何となくそれ以上の感動があったようにも思われた次第。デニス・ホッパーの死に様は是非ともジョン・レグイザモに喰われて欲しかったという不満もありはしましたが、うろたえながらも部下を平然と撃ち殺すデニス・ホッパーの演出はやはり見事だったと思います。
ただし、個人的にはホラーはより陰惨であって欲しいと思うのもまた事実です。今回食い足りなかったのも、全体として非常に軽いテイストのような気がしたからで、どうも私は、60年代のホラーにあった暗く、救いの無い闇が果てしなく続くようなイメージから今だ抜け出せないでいるようです。
まぁそれでも観ないよりは絶対に観たほうがいい映画であるとは思いますので、未見のかたは是非とも。

ところで今朝のワイドショーで観たのですが、ベネチア入りしていた北野武氏が帰国した模様。現地における観客の反応もリポートされていましたが、新作『TAKESHIS'』がどうやら賛否両論らしいですね。まぁ彼の作品はどちらかというといつも賛否両論なので、その辺りは驚くに値しませんが、大杉漣も寺島進も岸本加代子も出演しているし、すでに『ソナチネ』の後にその構想が生まれつつあったという“フラクタル”という概念には、映画作家としての野心をどうしても感じてしまうので、やはり、これまでどおり初日に駆けつける以外の選択肢など思いつかないな、と。『DOLLS』以降、北野映画は劇場で2回は観ないと評価が固まらない気がするので、今回も最低2回は観なければならないな、と思っております。

2005年09月02日

必見備忘録 9月編

気づけば、観たいなと思っていた多くの映画がすでに公開されています。
夏の怠惰を埋め合わせねばなりません。ということで……

■『南極日誌』[上映中]
 (アミューズCQN 11:00/13:35/16:10/18:45〜21:00)

■『ハッカビーズ』[上映中]
 (恵比寿ガーデンシネマ 10:10/12:15/14:35/16:55/19:15〜21:20)

■『ランド・オブ・ザ・デッド』[上映中]
 (渋谷シネフロント 10:15/12:30/14:45/17:00/19:15〜21:05)

■『輝ける青春』[上映中]
 (岩波ホール 11:00〜17:40)

■『リンダ リンダ リンダ』[上映中]
 (シネセゾン渋谷 11:00/13:35/16:10/18:45〜21:00)

■『さよなら さようなら』[9/7]
 (UPLINK X 19:00〜)

■『犬猫8mm版』[9/10]
 (テアトル新宿 23:30〜)

■ソビエト映画回顧展05[上映中]
 (三百人劇場 詳細はこちら

『南極日誌』は、キャストのみで決めました。期待半分不安半分death。
『ハッカビーズ』は、予告編に好感が持てたことと、イザベル・ユペールが出演していることで即決。監督は・・・いや、あえて書かずにおきます。
『ランド・オブ・ザ・デッド』は、良い評価をチラホラと見るにつけ。ま、たまにはこーいうのも。
『輝ける青春』は、滑り込みセーフで何とか席を確保。会社を休む価値はあるでしょう。
『リンダ リンダ リンダ』は先月行かれなかったので。
『さよなら さようなら』は、限定的な公開になります。最近注目している映像ユニット・群青いろの作品。ゲストも来るので、この機会に是非、と。
『犬猫8mm版』は初見になるのですが、オールナイトというのがやや難。この1本に2300円払う価値はあるとも思うのですが…正直迷い中。嗚呼…
11日で終了する「ソビエト映画回顧展05」では、『ボリシェビキの国におけるウェスト氏の異常な冒険』のみ、何とか駆けつけられればと。客入りはどうなんでしょうか…

(追記)
大事な特集上映を忘れてました。

■ドイツ時代のラングとムルナウ[9/10〜9/19]
 (有楽町朝日ホール 詳細はこちら

『スピオーネ』(9/17 14:30)と『ハラキリ』(9/18 11:00)は是非観たいです。今回ばかりは普段買わない前売り券というやつを買ってみようかな、と。