2006年02月28日

必見備忘録 2006.3月編

先月はほとんど吉田喜重作品に終始してしまいましたが、前半の飛ばしぶりに比べ、後半の失速感が目立ちましたが、だからといって、最近のスピルバーグ作品に見られる“ラストに向かっての尻すぼみ感”(もちろん、それでもスピルバーグを嫌いになどなれませんが)を積極的に模倣したかったわけではないのですが。『アレクサンドルの墓』と『第九交響楽』を見逃したことを激しく悔やみつつ、今月はいつものペースでコンスタントに、最低でも8本くらい観られれば、と。


アメリカ,家族のいる風景』(上映中)
(シネスイッチ銀座 11:00/13:45/16:30/19:15〜21:35)

ダイヤモンド・イン・パラダイス』(上映中)
(渋谷シネパレス 11:45/13:55/16:05/18:15/20:25〜22:10)

ブロークバック・マウンテン』(3/4〜)
(シネマライズ 10:50/13:40/16:30/19:20〜21:50)

うつせみ』(3/4〜)
(恵比寿ガーデンシネマ 11:15/13:15/15:15/17:15/19:15〜20:45)

美しき野獣』(上映中)
(シネ・アミューズ イースト/ウエスト 10:55/13:40/16:35/19:20〜21:25)

アサルト13 要塞警察』(上映中)
(新宿武蔵野館 21:00〜22:55)

送還日記』(3/4〜)
(シネ・アミューズ イースト/ウエスト 10:00/12:45/15:50/19:00〜21:50)

忘れえぬ想い』(上映中)
(シアターN渋谷 11:30/13:55/16:20/18:45〜20:50)

爆撃機の眼』(3/4〜)
(アップリンクX 16:00/18:00〜19:10)

ダンス・イン・シネマ 2006」(3/18〜19)
(オリベホール 3/18〜15:30 「白い足」 19:00 「言葉とユートピア」)

フランス映画祭2006」(3/15〜19)
(シネマメディアージュ 3/17〜11:45「カルメン」 20:15「隠された記憶」)


『アメリカ,家族のいる風景』は、ヴェンダースとアメリカとの決別の記念碑的作品、という風な紋切り型を一端括弧に括り観る必要があるのかも。かなり久々のシネスイッチです。
『ダイヤモンド・イン・パラダイス』に関しては、公式サイトにある“ブレット・ラトナー監督作品には欠かせない巨匠音楽作家”という文面が、果たしてラロ・シフリンを言い表す適切な表現だろうか、などと思わせる点に関して興味が尽きないのですが、サルマ・ハエックのエロティックな肢体見たさと、『トーマス・クラウン・アフェアー』を実はそれほど嫌いではなかったという理由も後押ししています。
『ブロークバック・マウンテン』は、もちろんヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を獲ったからに他なりませんが、久々に西部劇的なアメリカの風景を楽しめるかもしれないという淡い期待もあり。
『うつせみ』は待望のキム・ギドク作品なので、半ば義務として自分に課します。
『美しき野獣』に関しては特に期待はしていませんが、何度も“完成間近!”という予告編を見せられたので、完成を観たくなった次第。上手い具合に乗せられています。
『送還日記』は今月唯一のドキュメンタリーです。パク・チャヌクがベタ褒めしていたため。
『アサルト13 要塞警察』のような映画を、本当は毎月1〜2本観ねばならないと、個人的には思っているのですが、いかがでしょう。
『忘れえぬ想い』に関しては、野崎歓氏による批評が興味深かったため。
『爆撃機の眼』はほとんどノーチェックでしたが、私が普段見させていただいているブログ、オトコとオンナの映画秘湯」日記さんで、管理人の方が宣伝をご担当されているという記事を読んで。瀬々敬久監督が言う、“バタイユと寺山修司の血脈”という言葉が気に入りました。


というわけで、全て観て9本。
今月もいくつか気になる、という範疇を越えて、胸騒ぎのするような特集上映がありますが、いずれも平日の上映のため断念せざるを得ないでしょう。アテネ・フランセのファスビンダー特集などその最たるものですし、「アメリカを見つめる視線 ロスト・イン・アナザー・アメリカ」もまたその系譜になるかと。まぁ今月はあまり欲を出さず、毎週末をきっちり埋めていくつもりです。

2006年02月27日

タイトルすら考えられない状態…なのか?

最後に更新してから、10日ほど経ってしまいました。
更新が滞っているのは、仕事やそれ以外のヤクザな所用が波状に押し寄せてきた、という理由がひとまずは挙げられるのですが、実は先週末、一度も劇場に足を運べなかったという体たらくが思いのほか心的ダメージとなり、特にアクセス数の多いブログでもないのに、更新できないプレッシャーだけは感じてしまうので、それがさらに筆を遅らせるというスパイラルに陥ってしまったからです。

今でも更新したい記事は沢山ありますが、『輝ける青春』の文章も眠ったままですし、かえるさんにリクエストされている『ミュンヘン』の文章を書くためにスピルバーグ本を読んでみたりする律儀な遠回りもしつつあり、さらには、あれだけ通ったのだからこれだけは書かねばと肝に銘じている「吉田喜重『変貌の倫理』覚書」に至っては、書こうとするたびに「ああ、もう一度観ないとだめだな」などという後ろ向きの感情しか涌いてこないわで、それでも何とかTSUTAYAで『ろくでなし』を観直したりしながら、書く意志だけは失わんと努めている、そんな状態なのです。

mixiやブックマークブログの更新状況はチェックしているので、逆説的にこちらの不甲斐なさばかりが募り、何とかこの週末には少なくとも映画鑑賞の遅れを取り戻したいとは思っていますが、作品評を次々に仕上げていくにはまだもう少し時間がかかりそうです。私の場合、何事も、いや、厳密に言うとそうではなく、自分の好きなことだけは人一倍真面目に考えてしまう悪い癖があって、そんなこんなで今捻り出した結論を言うなら、やはり更新だけはして行こうということ。すぐに長文を書こうとするからこういうことになるので、少しの間(一日か、あるいは一ヶ月か)、そんな風に力を抜いた記事(世間的に言う「脱力系」ではありません)を書いていくしかない、と。まぁそんな風に思うのです。

とりあえずまだ仕事中なので、今はこの辺で。

2006年02月17日

奇妙な夢〜現実の反映か反映の現実か〜

夢私は一端眠り始めると、かなり深い眠りに入る体質なので、夢というものをほとんど見ません。
にもかかわらず最近は疲れているのか、原因は不明なのですがなかなか寝付けず、ちょくちょく夢のようなものを見ている気がします。はっきり“夢を見た”と断言出来ないのは、その内容をまるで覚えておらず、でもあれは多分夢だよなぁ、という極めて曖昧な目覚めの所為なのです。

ところで、私は精神分析などに関する本をほとんど読んだ記憶がないので、夢というものがよくわかりません。それがは果たして何かを反映しているのか、あるいは、諸々の煩悩やら願望やらの表れなのか、30年以上生きてきても未ださっぱりわからないのですが、それはもちろん、それをおぼろげにでも理解した気になれるほどには夢を見る回数が絶対的に足りないという事実からも、容易に納得できます。
「おや? さっきまで見ていた(かもしれない)あれは……?」。朝起きてそんなことを考えてみても、結局はすぐに忘れてしまうのだし、「何故あんな夢(のようなもの)を見たんだろう…」などといちいち悩んでも仕方がないのです。

さて、このような映画とは何の関係もない話を書き始めたことにはそれなりの理由があって、それをすでに察している方もいるだろうとは思うのですが、実は昨日、ある夢をみました。“のようなもの”ではなく、確かにあれは夢だったのです。恐らく全てを覚えているわけではないでしょう。ただ、いくつかの具体的な描写が可能であるという点において、今はあれを夢だったと断ずることにいささかの躊躇もありません。それがどのようなものだったのか、簡単に書いてみたいと思います。

最初の舞台は、何故か自分が所属している会社のオフィスです。私は、現在仕事をしている席ではなく、数ヶ月前まで座っていた席でボーっとしています。ふと上司がいるであろう方向を見ると、そこには今とかわらぬ上司の姿があるのですが、その傍に、あまりに場違いな人物の姿が認められます。それは何と、吉田喜重監督でした。監督は、私の上司と何やら真剣に話している様子。面と向かってではなく、二人は隣り合って同じ方向を向き、目線を合わさずに話しているのです。
私は、「何で吉田監督がここに?」などとは考えず、監督と何らかの会話を交わす機会がないだろうかと窺っていたように記憶しています。すると上司は私を呼びつけました。そして私に、ある課題を出すのです。それは、ある書物(映画の台本だった気もしますが、定かではありません)を読みながら、行間に感じたことを書いてこい、そんな課題でした。まぁそれ自体は驚くに値しませんので容易に了承したのですが、そこで上司が奇妙なことを言うのです。「考えてから書くんじゃない、考えつつ同時に書くんだ」と。私は、「そんなことは出来ないでしょう」と反論すると、「そんなことはない、あれを見ろ」と、吉田監督のほうを指し示すと、監督は、ものすごい速さで何かを書いていました。そしてここが興味深かったのですが、その様子は、確かに“考えつつ同時に書いている”様子にしか見えなかったのです。関心し感動した私は、さすが吉田監督だ、などとわけのわからない納得をしつつ、その姿に見入っていました。そして書きあがったものを見せて貰うと、これが全然読めない。それでも、ああ、これはきっと速記文字なのだろうと、そこでも強引に納得してしまうあたり、やはり紛れも無い夢だったのでしょう。

そうこうしているうちに、場面は急転します。オフィスからある野原へ。まさに時空が歪んだような感覚でした。そこには上司の姿も吉田監督の姿もなく、代わりにある女性が二人いて、私のほうに近づいてきます。二人の顔はまるで覚えていません。知った顔だったのかすら。
その内の一人と、私は若干の会話をし、そしてまぐわい始めます(性的な絶頂には達しはしませんでしたが)。もう一人の女性の眼前で。全てが唐突に、理由もなく、暴力的に始まり、そして終ると、時空は再度歪み始め、私はまた元居たオフィスに戻っていました。しかしそこには誰もおらず、自分の机以外何もない空間でどうすることも出来ず、またぞろボーっとしていた時、目覚めたのです。現実の世界に。

この夢を見て一つだけ確かなことがわかったとするなら、それは、現実と夢の関連性ということでしょうか。もちろん、そんなことは世間一般に言われているし、「夢にまで出てきた」という言葉の存在もまたそれを示唆しているのですが、普段夢を見ない私は、それすら疑わしかったということでしょう。それをこの夢で実感出来たというわけです。
ここ数週間、私は可能な限りポレポレ東中野に足を運び、吉田喜重監督作品を観てきました。それだけなく、家で観るヴィデオも吉田喜重、読む本もまた吉田喜重ということで、それこそ“吉田漬け”だったことを鑑みると、無意識の内に身体が、脳が、吉田的カオスに犯されていた(無論、これこそを私は欲していたのですが)のかもしれません。前述した夢は、その帰結としての夢だったのです。

今にして思えば、あの夢には吉田的な場面が散見されました。
あえて隣り合って話そうとする二人(『鏡の女たち』)、時間と空間とが同時に歪むこと(『煉獄エロイカ』)、そして二人の女と一人の男(『エロス+虐殺』)。あの野原は、もしかすると『血は渇いてる』における夢の島だったのかもしれない、などと言うといささか捏造めいてきますが。

近年、ここまで一人の監督に拘り劇場に日参したことはありませんでした。私が観た夢はその内忘れてしまうものですからどうでもいいですが、吉田監督が図らずも言っているように、“作品は残る”のです。
今日を最後に終了してしまう「吉田喜重 変貌の倫理」、全て観る事は叶いませんでしたが、夢にまで出てきた吉田監督にあらためて感謝します。

2006年02月13日

僥倖とも言うべき『秋津温泉』との出会いに感動する

映画を観ていると、ある時自分がその場所にいることに感謝し、同時に感動する瞬間というものがあります。観ることを選択したのは確かに自分自身なので、いったい誰に感謝するのかとも思わなくもありませんし、例えばその感謝の矛先がその映画を撮った監督、そしてそれを上映した劇場に向けられるのかもしれないのですが、なんと言えば良いかわかりませんが、それよりも遥かに大きく、そして、途方も無い「映画」というものに向けられているかのような感動、それ自体僥倖としか思えない感動があるのだということに、改めて思い至りました。

それに似た感動は昨年、岩波ホールでマルコ・トゥーリオ・ジョルダーナ監督の『輝ける青春』に初めて接した時にも味わい、やはり「映画」だとしか言いようの無いその作品に出会えた事に感謝するしかなかった私ですが、この度初めて鑑賞した吉田喜重監督の『秋津温泉』には、上映後に吉田監督から発せられた言葉共々、冒頭に書いた感謝、そして感動に値する瞬間が横溢していて思わず泣いてしまいそうになりましたが、両隣に(やはりその瞬間を察知したであろう)こヴィ氏と[R]氏がいるので、何とかそれを堪えた次第です。しかしながら、かような感動を何とか言い表そうと言葉を書き連ねてみても、どうにも伝わりそうにないのが悲しいところ。よってこの漠たる思いは、そのまま同席した2名の友人への、親しみを込めた連帯としてここに表明しておくにとどめます。

というわけで、土曜日は念願だった『秋津温泉』を鑑賞、日曜日にはこれまたどうしても観ておきたかった『エロス+虐殺』を。『秋津温泉』の前には、空いた時間を利用してポール・ハギス初監督作『クラッシュ』も観ました。『クラッシュ』に関してちょっと触れると、初日の新宿武蔵野館は満席、恐らく既に発表されているアカデミー賞のいくつかの部門にノミネートされているからでしょう。これはほとんど思いつきですが、率直な感想としては“重厚な『運命じゃない人』”という感じです。個人的にはもう一度観る必要がある作品だと思っています。アカデミー賞云々は別として、『ミリオンダラー・ベイビー』に心を動かされた方は必見と記しておきます。

さて、いよいよ今週金曜日までとなった「吉田喜重 変貌の倫理」。まだまだ観たい作品があるので、今週はまたぞろ“反=社会人的”な行動に出なければならないぞ、と心に決めています。各作品に関する覚書のほうも余裕が出来次第順次書いていく予定です。

2006年02月08日

冷や汗もののヴァージョンアップ、何とか完了

当ブログは、MOVABLETYPEというCMSを利用して運営しています。
これまで私が使用していたヴァージョンは比較的古い「2.661」というもので、それをインストールした当時は、MOVABLETYPEだけでなくその他ASPによるブログサービスにおいても、今のように厳しいスパム対策がとられていなかったため、コメント・トラックバック双方のスパムに随分と悩まされてきました。
MOVABLETYPE自体はその後ヴァージョンアップを重ね、使い勝手も随分良くなっていたようですが、ヴァージョンアップ作業に伴う様々な危険性(簡単に言えばエントリーが全て吹っ飛んでしまうとか、上手くインストールが完了せずに管理画面に二度と入れなくなったりだとか)に恐れをなし、これまで作りあげてきたものが失われてしまうのはかなわないなぁ、などという思いがヴァージョンアップを妨げていたのですが、効果的なスパム対策も見当たらないし、この辺りが潮時だろうかと急に思い至り、一念発起でヴァージョンアップに踏み切った次第。

案の定、途中で何度か躓き、ああ、このまま更新できなくなったらどうしよう、と半ば絶望の淵を彷徨ったり、背中に冷たい汗が一筋流れたりしながらも、ほとんど力技的にやり遂げ、やっと一安心です。この時もやはりGOOGLE様のおかげで様々なトラブルシューティングを見つけることが出来、もうテレヴィなどなくなってもかまわないが、GOOGLEは無いと生活できないかもしれないな、なんていう極論がふと口から漏れそうになりました。

というわけで、少しの間封印していた「最近のトラックバック」を再度表示するに至りました。最新のヴァージョンでは、トラックバックを判断基準値によって受け入れたり弾いたりする機能が追加されているので、とりあえずはデフォルトの基準値のまま運営し、スパムが来始めたら基準を厳しくしていこうかと。もちろん、通常のトラックバックはこれまでどおり受け付けますので、仮に「トラックバックが打てない」などという事態に遭遇した方がおられましたら、お気軽にコメントしていただければと思います。

さてさて、今日当たりまた東中野に行こうかな、と。

2006年02月07日

“女性の強迫観念”というタイトルに惹かれ……

A WOMAN'S OBSESSIONたまには映画以外の記事を、ということで、今日はとある写真集に関して。
昨日は会社の仲間と銀座で焼肉を食べましたが、そこに同席していた先輩編集長から、一冊の写真集を手渡されました。何でもその先輩は、とある写真展のオープニングパーティーからの帰りだったとのことで、そのパーティーで写真集をお土産としてもらったのだそう。

写真展自体の概要は文末に譲るとして、渡された写真集はなかなか興味深いものでした。
「A WOMAN'S OBSESSION」と題されたその写真集、撮ったのはシャンタル・ストマンというパリ在住のフランス人女性カメラマンです。テーマを一言で言うなら、“日本女性のファッション観が客観的にどう映っているのか”ということになるかと。

ページをめくって最初に飛び込んでくる見開きが、黒バックに白抜きで「お客さまは神様です」という、言ってみれば紋切り型の日本語なのですが、ショッキングとも挑発的とも取れるこの言葉を冒頭にもってくるあたりに妙に惹かれつつさらにページをめくっていくと、東京の様々なシチュエーションで撮られた、年齢もスタイルもバラバラな女性達のスナップや、彼女達の身体の一部、あるいはその背景にある記号的な都市が、いくつかのタイトルと共に展開されていきます。

「LA LUE(道)」では、まさにストリートにたたずむ女性、あるいはお洒落して誰かを待っている女性、店から店へと移動している最中と思われる女性、買い物を終えて家路につく女性の後姿があり、「SERVICE(接客)」では、高級ブランドショップで働く店員達が、客を前にして跪く姿があり、「YEN(円)」では、今まさに高級ブランド品を購入しようとしている女性が財布から金を出す瞬間、あるいは金を手渡す瞬間をが捉えられ、最後にある「SALUER(ぺこぺこ頭を下げる)」では、買い物を終えた女性客に対し、店の外まで出て深々と頭を下げている店員の姿があります。

面白いのは、このパリ在住の女性カメラマンの、ブランド信仰女性に対する純粋な好奇心を写真から感じることが出来ると言うこと。そこには単純な肯定も否定も存在せず、むしろ驚きだけがあるような気がしたのです。
パリのブティックとは恐らくかけ離れた概念を冒頭に掲げたのも決して皮肉ではなく、日本の女性がその年齢に関係なく高級ブランド品に惹かれ“ざるを得ない”のはどうしてなのか、彼女達がそれらに求める概念・思想はどんなものなのかを、写真を通して直感的に、驚きと共に発見したことの表れだったのではないかと思いました。

私の仕事にも、一部ではこのような女性達の存在が不可欠であると言えるし、私自身もある時期“ファッション気狂い”だったこともあるので、むしろ彼女達を肯定的な視線で見ることが多く、だからこそ、シャンタル・ストマンの眼差しに惹かれ、共感したのかもしれません。

写真に興味のある方、よろしければ覗いてみてください。

シャンタル・ストマン写真展「A WOMAN'S OBSESSION」
日時/2006年2月11日(土)〜26日(日)11:00〜20:00
会場/シャネル・ネクサス・ホール
 東京都中央区銀座3-5-3 シャネル銀座ビル4階
   TEL 03-3264-2020
入場無料

2006年02月06日

『ミュンヘン』と『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』の連続攻撃に体力を奪われる

4日の土曜日、予定では5本の映画を鑑賞するはずで、2本は封切り作品、3本はオールナイトでというプランでしたが、、2本観終えた時点で、オールナイトを全て観切る体力が残されていないことを実感、日和った私はそのまま酒へと逃避することしか出来ず、朋友ng氏とともに、『ミュンヘン』と『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』の感想を酒の肴に、ああだこうだ言いながらワインを飲んで一日を終えました。直前まで渋谷で待っていてくれたこヴィ氏と[R]氏、ごめんなさい。もちろん翌日には激しく後悔しました。お二人には、是非こちらまで感想をお寄せいただければと。

『ミュンヘン』は予想通り満席、流石誰でもしっているスピルバーグ作品だけあって客層は幅広く、そこには私の後輩夫妻まで含まれていてやや驚かされましたが、率直な感想としては、色々言いたいことはあることは承知の上で納得の一本という感じ。
本作にはそのキャストにヨーロッパの俳優・女優が多く含まれていて、アメリカ映画ならざる印象も。私が知っているだけでも3人の現役映画監督が俳優として出演しています。先日「カンヌ週間」で観たばかりのマチュー・アマルリックが登場しているのも驚きましたが、なんとあの『さすらい』のハンス・シジュラーも。物語が物語ですから、フランスやドイツの俳優が出ていることには驚きませんが、その人選が本当に凄い。その点でも、本作のスピルバーグの本気度が伝わってくるようで感動しました。さらに、ヌーヴェル・ヴァーグ的なオマージュの捧げ方もいくつか見られ、中でもクロード・シャブロルが一瞬だけ引用されていたことにニヤリとさせられました。

一方の『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』にもまた吉田喜重のミューズが登場し、やはりと言うべきか、白い日傘をさす彼女や、川津祐介の存在を見るにつけ、どことなくオマージュめいたのものを感じましたが、それは考えすぎかもしれません。
冒頭の横移動、自転車とカートとの併走、山並みや草原や地平線を捉えた超ロングショット、ラスト近くにあった浅野忠信のクローズアップなどなど、強力に視線をひきつけるショットの存在は素晴らしく、また、好みをさておけばあのノイズ音楽、あるいは砕かれる波音が耳を劈く轟音となって響き渡る様もまた、音自体の強度として印象に残っていますが、しかしながら、今は本作を語るべき言葉が見つかりません。数箇所に違和感を隠しきれず、だからと言ってもちろん出来が悪いとも言えない本作を観終えた時、真っ先に想起したのはオリヴィエ・アサイヤスの『デーモンラヴァー』だったのですが、何故あの作品を思い出したのかも、実はよくわからないでいます。単純に鑑賞後のもやもやとした感情に共通点があったというだけなのかもしれませんが。
少なくとも今、この作品について尋ねられても、曖昧な返事しか出来ないでしょう。彼らにはとりあえずの言葉でお茶を濁しておきながら、実は今、もう一度観て判断しようかなどと考えているところです。

次いで日曜日にはポレポレ東中野にて『鏡の女たち』を鑑賞。
初期作品ばかり観てきたので、この辺りで一端現在の(といっても2003年当時です)吉田喜重作品を観ておきたかったのですが、この試みは感触的に“当たり”で、今後観るであろう吉田作品に、少なからぬ示唆を与えてくれそうな予感がしております。
今週も出来る限り東中野に通うつもりです。

2006年02月02日

地震すら感じさせない圧倒的な画面力〜吉田喜重2作品を観る〜

ポレポレ坐より私が定時に仕事を終えることがあるとすれば、それはほぼ100%映画のためだと言えます。しかし滅多にそんなことがないだけに、定時にいそいそと逃げるように会社を出ることに抵抗が無いではありませんが、年に数回とはいえ映画のために会社を休んだりもするので、まぁ働いている分だけましかな、などと思いながら昨日は東中野に向かいました。
鑑賞したのは『血は渇いてる』と『BIG-1物語 王貞治』の2本です。

『血は渇いてる』は先日鑑賞した『ろくでなし』と同じく1960年に松竹で撮られた2作目にあたる作品で、撮影も同じく成島東一郎です。圧巻は芳村真理と三上真一郎によるダンスシーン(長いシークエンスショット!)とラストシーンで看板が剥がれ落ちる場面。ゴダールを意図的に模倣した『ろくでなし』とはまるで異なる印象を齎すこの2つのシーンは本当に素晴らしい。『ろくでなし』も面白かったですが、断然こちらの上だと思います。いろいろ調べてみると、『血は渇いてる』は封切り当時、大島渚の『日本の夜と霧』と併映されたようです。『日本の夜と霧』は未見なので早々に観たいと思いますが、確かにこの当時は日本においても“ヌーヴェルヴァーグ”が押し寄せていたということなのでしょう。

一方の『BIG-1物語 王貞治』ですが、これは王貞治が756号のホームランを打って世界新記録を更新した1977年に読売新聞社と東京読売巨人軍によって制作されたドキュメンタリーです。配給は東映。アニメ『新巨人の星』と併映されたと聞いただけでも、所謂吉田喜重的イメージとの乖離が認められます。ATGで配給していた『戒厳令』の後に、どうしてこのような仕事を引き受けたのか、理解に苦しむところではありますが、いざ観てみると、そのタイトルから受けて観客が期待する作品とはどこか異なっていて、世界新記録を更新した年に撮られたという事実が齎す、ある種の“祝祭性”を全く感じさせないという点に驚いた次第。ひたすらに自問自答を続けるような吉田喜重の切り口と竹脇無我のナレーションは印象として非常に暗く、ただの巨人ファンがこれを観たらいったいどんな感想を抱いたのか、そこには非常に興味が湧きます。誰もが見たであろうあの瞬間を、誰も見てはならない、幻のホームランだった、と結論づけるあたり、このような題材も吉田の手に掛かればこうなるのかと思わずにはいられず、妙に納得した次第。
本作は、昨年の特集上映時にも公開が予定されていましたが、恐らく権利関係の問題が解消されず直前で上映中止になったようで、つい先日より順次発売になったDVD全集にも収められていないことを鑑みると、今回の上映はほとんど奇跡的ではあります。もう一度上映されますので、興味のある方は是非是非。

鑑賞後、東中野駅に到着すると、何やら電車が遅れている様子。
「地震のため…」などというアナウンスが聞こえてきて納得しましたが、結構揺れたらしい東京都内の地下劇場でも、私は一切の揺れを感じませんでした。相当集中していたのか、あるいはその逆か、一作でも吉田作品をご覧になった方であれば、容易にご理解いただけるでしょう。

2006年02月01日

『レジェンド・オブ・ゾロ』に足りない“何か”が、今はわかりません

レジェンド・オブ・ゾロ世界40カ国で初登場1位を記録したという『レジェンド・オブ・ゾロ』は、なるほど、相対的に良く出来ているような気がしました。少なくとも、『Mr.&Mrs.スミス』と比べた場合、まあここでこの2作品を比べることにさしたる意図はないのですが、男と女によるアクションがクライマックスのを彩るという点において、『レジェンド・オブ・ゾロ』のほうがより好きだと言うことに躊躇はありません。そして、運悪く公開時期が重なってしまったために初登場1位を譲ることになった『THE有頂天ホテル』に比べても、こちらのほうがより「映画」だと言うことにも。俳優の差なのか、演出の差なのか、スケールの差なのか、あるいは撮影監督の差なのか、そこには様々な差がありますが、私個人としてはそのように思いました。

しかし裏を返せば、“中庸なアメリカ映画”という印象の域を出ないということでもあります。ハリウッドアクション大作でも、そんなこちらの思いを逸脱していく凄い作品が存在することを考えると、やはり何かが足りない気がしてしまうのです。
どうしたって存在してしまうアメリカ映画の伝統が画面に滲み出ても、私はその所為で作品を貶める気など毛頭ありません。むしろそれは喜ぶべき部分でもあるのです。だから、ゾロが乗るトルネード号と列車が併走するシーンなどはそれなりに興奮したし、しかも、そのトルネード号の様々なアクションと表情を表現するために11頭もの馬を用意したことは賞賛したいとすら思います。華麗な剣さばきというより、半分は殴り合いに終始してしまう部分もまたどこかアメリカ的であり、それはそれで悪くありません。私は綺麗な顔をして下品な声を出す女優が好きですから、アクションシーンにおけるキャサリン・ゼダ・ジョーンズの下品な叫び声も楽しめました。しかし、何かが足りない……

まぁ別に本作を無理に褒める必要も無いし、逆に無理に欠点を探す必要もまたないわけで、“それなりの”アメリカ映画が観られたということで納得すればいいのかもしれません。“それなり”ですらない映画は沢山あるし、むしろ多少の不満を抱きながらもまぁいいかとやり過ごせる映画が大半なのでここではこれ以上言及しませんが、先述した足りない“何か”について考えてみることは、今後も多くの現代アメリカ映画を観ていくことで、あるいは興味深い論考へと発展する可能性があり、だから今はとにかくアメリカ映画を沢山観ようと思うのです。