2007年01月28日

『それでもボクはやってない』、まるでテレヴィのような…

それでもボクはやってない/2007年/日本/143分/周防正行

結論から述べれば、実に見事な映画だったと思います。

その過程を含め、裁判自体のリアルさを監督も強調していましたが、なるほど、確かにかなり綿密な取材が行われたのだろうと思いこそすれ、結局普通に生活している人間にとって、裁判というものは非=日常なわけです。しかしそれをリアルに感じさせることができるのが、ほかでもない映画なのだということに思い至り、つまりそのために、的確な演出が必要とされたのでしょう。まったく、周防監督の演出には舌を巻きました。久々に感情移入というものを映画で味わった気がします。

2時間23分という時間をまるで感じさせないその構成力は、ほとんどアメリカ映画だと思います。凝ったカメラワークはあまり見られなかったのですが、ショットのテンポが非常に軽快(自然)で、まるでテレヴィを見ているかのような(これは私なりの褒め言葉です)錯覚すら覚えてしまうかもしれません。もちろん、テレヴィなどとは比較にならないほど面白かったということを言いたいのですが。このあたりの逆説的(?)な感覚には、プロデューサーがあの人だから、ということと無関係ではないような…。

ついに判決が出る瞬間、カメラに背中を向けた加瀬亮から裁判官の小日向文世にフォーカスがすばやく切り替わるという手法、あれなど久しく映画では観ていなかった気がしますが、言ってみれば古典的とも言えそうなあのフォーカスの切り替えにまんまと乗ってしまいました。やられたと言うべきでしょうか。判決を受け、ほとんど茫然自失のように無表情な加瀬亮のクローズアップを正面から、そして律儀にも左右それぞれからも撮っています。この絵に彼のモノローグが被さる様などは実に映画的という感じがしました。

キャスティングの妙は周防監督ならではと言うべきでしょうか。役所広司は文句なしに素晴らしいし、加瀬亮の引きつったような微妙な表情もいい。小日向文世の無表情も良かったし、正名僕蔵にいたってはほとんど知らなかったので発見の喜びさえ感じたほどです(彼は大人計画だったんですね)。

2007年に果たして本作を超える日本映画が何本あるのか、あるいは無いのか、今年の日本映画を測る一つの指標になりそうな映画でした。

2007年01月26日

まだまだダグラス・サークを観たい〜『僕と祭で会わないかい?』『翼に賭ける命』を観て

記事を書くのが随分遅れてしまいましたが、去る21日の日曜日は、すでに一部の映画好きにはおなじみの恒例行事、「オトコとオンナの映画秘湯」さん主催の上映会に参加。前回(ダグラス・サークは偉大だ〜『愛するときと死するとき』と『誰かあの娘に会ったかい?』を観てからおよそ7ヶ月ぶりのダグラス・サーク上映会でしたが、今回は昨年よりも多くの人に主催者の思いが届いたのか、立ち見が出る大入りぶりでした。いやぁ、すばらしいですね。立ち見の方は結構つらかったでしょうが、こういう機会でもなければまず観られない作品ですから、やはり主催のeigahitokwさんらスタッフの方々に感謝すべきでしょう。そんな簡単に言ってくれるなよ、と思われるかもしれませんが、次回も楽しみにしてます。
さて、前回に続いて今回も雑感をば。

1本目は1953年に撮られた『僕と祭で会わないかい?』。前回観た『誰かあの娘に会ったかい?』に続くコメディです。
オープニングのタイトルバックなど数カットにおいてパーフォレーションが崩れていたらしく、何カットか流れてしまっていたようですが、そんなことはまるで問題にならない、何とも愉快な映画でした。ダン・デイリーとスキャットマン・クローザーズが歌いながら馬車に乗っているというファーストシーンを観てしまうと、もうそれだけで気分が高揚します。歌うといえば、中盤で2人にかくまわれていた少年・タッドが川に落ち、助け出された後おもむろに歌いだす場面がありました。スキャットマン・クローザーズはまたしてものってきたのか、途中でギターを手にして少年とはもり、その様子を呆気にとられて見つめるダン・デイリーのバストショットが2回か3回ほど挟み込まれる。今、このように、映画的には何の変哲もないけれど、しかしあまりにも不自然な唐突さも否めず、だけれどもやはり感動的というほかない場面をスクリーンで観ることは難しいのです。ダグラス・サークは偉大だという認識がすでに私にはあるからでしょうか。もちろん、それも否定は出来ませんが、やはりそれは、その場面が素晴らしい=サークが素晴らしいからだという風に納得するしかありません。少し前に観た『怪盗ルパン』だって、とくにトリッキーな演出をしているわけではなく、ごく堅実な演出とギャグをしっかりと画面に納めているという印象でしたが、しかし途轍もなく面白い。それと同じような感覚でした。このようなコメディを2本観てしまうと、ダグラス・サークと“メロドラマ”という言葉をひとまず結びつけて安住することなど到底出来ず、もう一本あるアメリカ時代のコメディをどうしても観なければという気になってきます。

続いて観た『翼に賭ける命』、これはまた随分趣の違う映画です。本来であればシネマスコープで撮られた本作、今回はトリミング版だったのですが、やはりシネマスコープならではのカメラワーク(パンを上手く使った演出など)がいくつか観られ、空中レースシーンなどは、シネマスコープで観たらまた随分違った印象だったろうなとも思われました。まぁそれは贅沢というものでしょう。
ロック・ハドソンとドロシー・マローンが眠れぬまま語り合うシーン。二人の空間的位置関係も見事で、そこでもやはり、シネスコだったらと思わずにはいられませんでしたが、遂に二人が接吻するシーンの演出はまったく見事だし、ドロシー・マローンの夫であるロバート・スタックが死ぬ間際、妻に向けて告白し熱く接吻するシーンの悲しくも官能的なショットもまた素晴らしかった。風になびくドロシー・マローンのブロンドヘアがあったからだ、ということはあの風こそが素晴らしかったんだと、今この文章を書きながら思い至った次第です。
ラスト近く、ロバート・スタックが上司に向かって一世一代の演説をぶつのですが、その内容が理解出来なかったのが残念でなりません。あそこはかなり重要な部分だったはずですから。まぁそれも贅沢過ぎるぞと言われれば、あっさりと納得するほかありません。とにかく良い映画でした。

そして、ここではその題名を出すことは出来ないもう一本の特別上映作品。これが予想をはるかに上回る傑作で、上映後、まったく言葉を失いました。
ジョン・キャラダインの好演もさることながら、やはりラストの凄惨極まりない殺戮場面の強烈なインパクト。これが本当にアメリカ映画だろうかという驚きを隠せません。恐らくもう二度と観る事が出来ない映画でしょう。この上映会に来て良かったと心から思わせる映画でした。

2007年01月22日

吉田喜重+蓮實重彦 トークショー〜映画とフィクションの新たな地平をめぐって〜

去る1月20日の土曜日、青山ブックセンター本店内・カルチャーサロンにて、表題のトークショーに参加してきました。今回は相当早く到着してしまいいつも列が出来ている廊下にはまだ列が出来ておらず、ということは私が一番最初だったわけですが、まぁまだ列を作ることもなかろうと、少し離れた場所で喉を潤したり煙草を吸ったりしているうちにポツポツと人が並び始めたので、やっと列に加わった次第。結果、3番目で、初めて前列に陣取ってみました。目の前でお二人の話を聞くという体験は貴重ですが、どうにも妙な緊張感が体を硬直させ、終った時にはぐったりと疲れてしまいました。予めメモなど取るつもりでいた私は、しかし、結局は話を聞くことに集中してしまい、ほとんど筆を走らせることも無いまま終りを迎えました。まぁ今回はいつものように映画中心の対談ではありませんでしたし、とりわけ、吉田監督の吸い込まれるような目をみつつ話を聞き漏らすまいと努めていたので、致し方ありません。

トーク自体は、蓮實氏が吉田監督の話を引き出すという形で進められた関係上、比率として吉田監督の話を多く聞くことが出来ました。昨年のポレポレ東中野におけるレトロスペクティブの時にもご自身の言葉を聞く機会を得ましたが、相手が蓮實氏だからこそ、自由に、そしてやや饒舌にお話されていたはずで、それはご本人も認めていらっしゃいました。流石、“座談の名手(吉田監督 談)”。

お二人が始めて出会われた時の話はなかなか興味深く、それは1970年にパリのシネマテーク・フランセーズで行われた日本のヌーヴェル・ヴァーグ特集の時だったようです。アンリ・ラングロワから「いい通訳がいるから」と吉田監督に紹介されたのが蓮實氏で、その時お二人は、ラングロワ氏によって「風のように拉致され(蓮實氏 談)」、デザイナーのピエール・カルダン氏がオーナーを務める「エスパス・カルダン」というレストランで大層不味い食事をとらされたのだそう。登場する人物が人物なので、初対面のエピソードとしては何とも羨ましい限りですが、それもこれまで幾度と無く国境超えた活動をされてきたお二人だからこそ。蓮實氏が吉田監督を「国際的というよりもむしろ地球的な人」と評していたことからも伺われます。

吉田監督はトークの中で、自分と蓮實氏がいかに多くの類似点を持っているのか、ということを繰り返し述べられていました。吉田監督はその中で、東大総長を辞された直後に蓮實氏が朝日新聞に書いたコラムに感動したことや、あるいはエーリッヒ・アウエルバッハの「ミメーシス」を巡る蓮實氏のフィクションに関する論考(「表彰の奈落」〜フィクション、理論を超えて〜より)に大きな共感を表明されていました。特に後者の「ミメーシス」に関する件の中で、吉田監督も蓮實氏と同じような感覚を体験した過去があるといい、小津の『東京物語』を引き合いに出していました。つまり、「ミメーシス」も『東京物語』も、冒頭と結末が限りなく類似した(ほとんど同じような)イメージであるという点です。「ミメーシス」であれば、第1章の「オデュッセウスの傷痕」と最終章「茶色の靴下」が共に、男の足とそれに触れようとする女、というイメージであるという点で共通しており、『東京物語』の場合は、冒頭(近く)とラストが、笠智衆と東山千栄子が並んで座っているというイメージが共通している、と。もっともこの場合に限って言えば、ラストでは冒頭と一点だけ異なる点があり、それは東山千栄子の不在ということになるのですが。
アウエルバッハなり小津なりが、意図して冒頭と結末を同じようなイメージで締めくくったのか、それは定かではありません。しかし、そこに、“あるフィクション”を見ることの出来る人間とそうでない人間がいる、作者の意図を超え、偶然をも超えて突如表層に立ち現れてくるフィクションという存在の出鱈目さ、面白さ。お二人は、そのようなことを話されていたように思います。この辺りに関しては、後日「表象の奈落」を読むことで確認したいな、と。

そのほかにもいくつか断片的なお話がありましたが、メモが無く記憶も曖昧ですので、ここでの詳述は出来ません。というよりは、終わり近くに、ほとんど予想はされたものの、やはり驚きを隠せなかった事件とでも言うべきことが起こりまして。
吉田監督が現れる場所には、ほとんど常に、夫人の岡田茉莉子さんがいらっしゃるというのを昨年より何度か体験していましたが、その日も例外ではなく、やはり会場の一番後ろに岡田さんがいらっしゃいました。トークの終わり近く、蓮實氏がほとんどゲリラ的に後ろに座っている岡田さんに質問を浴びせました。曰く、来年本当に自伝を出版されるのか。加えて、今年は舞台に出られるようだが? というようなもので、マイクを渡された岡田さんも恐縮しつつお話されていました。そしていよいよ蓮實氏が閉めの挨拶をという段階になって、突如、まだマイクを持っている岡田さんが後ろから「よろしいでしょうか」と前方のステージの方に歩み出てきたのです。その時、目の前にいる吉田監督が一瞬困り果てたような表情になり、蓮實氏はなんだか嬉しそうで、まさに筋書きになかった展開になってしまったのです。
岡田さんが最後に言いたかったのは、1990年、吉田監督が演出した舞台「マダム・バタフライ」初演をわざわざリヨンまで観に来てくれた蓮實氏に対する賛辞でした。その時蓮實氏が言った「本当に観たい人はリヨンにまで足を運ばなければなりません」という言葉に深く感動したとか。私もどこかで読んだことがあったエピソードでしたが、ご本人の口から聞かされると、やはりなかなかいい話だな、と。そういったハプニングを引き出すあたり、蓮實氏はやはり“座談の名手”なのかもしれません。

そんなこんなで終了後、サイン会がありまして、ちょうど両氏の著作を購入していた私もサインを頂きました。とりわけ吉田監督と硬く握手出来たことは、生涯忘れ得ぬいい思い出になりました。来年は世界3カ国で「マダム・バタフライ」が再演されるらしいですが、是非映画のほうも撮って頂きたいものです。

2007年01月15日

『気球クラブ、その後』における思いがけない感動

先週はほとんど映画を諦めていたのですが、何だかんだいいつつ2本は観られました。
観ないと決めていても禁断症状は出てきてしまうもので、それは酒をしこたま飲んでも解消されなかったということです。

『プラダを着た悪魔』にはあまり期待していなかったものの、悪くはありませんでした。
私はアメリカのテレヴィドラマなど1本も観た事が無いので、デヴィッド・フランケルという監督も、パトリシア・フィールドというスタイリストの名前も一切知らずに本作を観たのですが、2人ともかなり名の知れた人物のようで。
物語の展開は、それこそ絵に描いたように図式的ではありましたが、アン・ハサウェイが変貌していく描写に、最良のアメリカ映画的伝統を見つけることが出来たので、それで私は7割方満足でした。
要所要所に実在するデザイナーの名前が出てきて、あの辺りは多少なりともファッションを知っている人でなければ面白くもなんともないのでしょうが、本作は恐らく、多くの働く女性に向けられているのだろうし、わが国のようなファッション消費大国における適度に知的な女性達であれば、きっと楽しめるのでしょう。
ラストシーンで、すでに袂を分ったアン・ハサウェイとメリル・ストリープが一瞬だけ再会するシーンにおける、メリル・ストリープの顔。あのわかりやすく良質な“演技”は実に感動的で、テレヴィドラマなどは時間があっても観る気がしないけれど、映画になればこういった作品も悪くは無いなと思わせてくれました。

もう1本は結構期待して観た『気球クラブ、その後』。これはレイトショーでしたが、1人でふらっと観るにはかなり良い映画ではなかったかな、と。その後、自宅に帰るまでの余韻も含め、是非1人で鑑賞して欲しい映画でした。
ほとんど思いがけず、川村ゆきえの演出の素晴らしさに舌を巻いたというのが最大の収穫。彼女のすこぶる現代的なキャラクターは、非常に月並みな言い方ですが、すぐ傍にいてもおかしくないほどに“リアル”で、彼女自身が持つ本来の自分と役柄とのバランスが本当に絶妙でした。ああゆう女性を描ける園子音はやはりすごい。やはり似たような感覚を『紀子の食卓』にも感じたのですが。
荒井由美の「翳りゆく部屋」が劇中で何度かリフレインされ、中盤とラストで歌詞までも出てきます。まさにあの曲から想を得たという本作なので、映画自体もいささか暗めではあるのですが、あの雰囲気、私は嫌いではありません。クラブの仲間達が集って笑いあい、飲むという何の変哲も無いシーンが印象的なのも、根底に流れるあの“暗さ”があったからだろうと、今は思います。
園監督の作品からは、今年も目が離せそうにありません。青春という言葉を信じていようがいまいが、やはり必見と言うべきでしょう。

2007年01月09日

いよいよ2007年本格始動

先週は予告どおり『スキャナー・ダークリー』と『ダニエラという女』の2本を。
どちらも大して人が入っておらず、後者にいたっては、日曜の昼間だというのに、10人にも満たない観客だったような……。しかも、年配の男性客が大半で、ふと一つの法則に気づいた次第。その法則とは、シアター・イメージフォーラムでR-18の映画を観る時は、たいてい年配の男性客が多いということ。いや、実はそんな法則に当てはまったのは2回くらいしかなかったようにも思うのですが。

『スキャナー・ダークリー』は面白いとも面白くないとも言えないのですが、それはなぜかというと、そこにどんな画面があるのかということにばかり意識をとられ物語がまるで頭に入ってこなかったのです。言わば、ロトスコープというアニメーションの手法が私の関心事だったわけで、とりあえず『ウェイキング・ライフ』の時よりも明らかに質が向上していたのに驚いたり。まぁしかし、普段はアニメーションを映画とは思いたくない私にとっても『スキャナー・ダークリー』は紛れも無く映画であって、それは撮り方(作り方)そのものが所謂アニメーションとは異なるので当たり前と言えば当たり前ですが、その触れ幅の大きさで言えばアメリカ映画作家の中でもずば抜けて多才であるリチャード・リンクレイターのもう一方の極、すなわち、『スクール・オブ・ロック』のような娯楽映画への欲求が『スキャナー・ダークリー』を観たことで高まってきて、そういえば『がんばれ!ベアーズ ニュー・シーズン』は見逃しているなということに気づいたので、こちらに関しては早急にレンタルしなければと心に決めたのでした。

一方の『ダニエラという女』、一応この映画を選んだ動機としては、“監督:ベルトラン・ブリエ>モニカ・ベルッチの裸”ということでしたが、結果的にはそのどちらにも中途半端に満足、まぁこれはこれでいいのだと曖昧に思い聞かせる始末。40を過ぎたモニカ・ベルッチの裸体は個人的には好みで、特に序盤において、初めてその体の線をさらけ出すシーンにはかなり興奮を隠せませんでしたが、そのシーンというのが別の意味でも衝撃的といいますか、かなりデタラメな演出が施されていて、ここは是非観ていただくほかないのですが、とにかく変な映画なんです、この映画は。ベルトラン・ブリエってこんな感じだったかな、と頭には疑問符が5つくらい浮かんでは消えていきましたが、最終的にはすでに書いたとおり、まいっか、という結論に落ち着きました。 私の中では、いまだ『バルスーズ』を超える作品には出会っていません。

さて、年が明けてもいろいろとありまして、なかなか映画の文章を書けずにおりますが、今年は観た映画に関しては少しでも書くぞと密かに決めましたので、完全に落ち着くまで、合間合間に短い文章を挟んでいきたいと思います。

2007年01月05日

年末年始アレコレ

あけましておめでとうございます。
私は今日から通常業務が始まり、正月休み中の緩やかなリズムが、少しだけ早まってきた感じがしています。

休み中に劇場で観た映画は5本(『幸福』『007 カジノロワイヤル』『リトル・ミス・サンシャイン』『長い散歩』『イカとクジラ』)。自宅ではエリック・ロメール作品を3本ほど。
劇場鑑賞作品は、いずれも楽しむことが出来ましたが、その中で日本映画が1本だけだったということで、昨年よく耳にした日本映画の時ならぬ隆盛ぶりとのズレは、今年もそう変わらないのかもしれないなぁ、なんて思ってみたりも。そんな風に思うにつけ、今年は昨年よりも多くの日本映画を観るぞと心に決めた次第です。

ちなみに昨年最後に鑑賞した作品がアニエス・ヴァルダの『幸福』、今年最初に鑑賞した作品はジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリスの『リトル・ミス・サンシャイン』でした。『幸福』は言うに及ばず、『リトル・ミス・サンシャイン』も期待通りの出来で、昨年の映画初めだった『ビッグ・スウィンドル!』の悪夢のようなつまらなさを忘れさせてくれる、実に幸先のいいスタートになったと言えるでしょう。

そういえば、行こう行こうと思いつつその混雑振りを聞くとどうしても足が向かなかった「ダリ展」ですが、結局行くことが出来ないまま、昨日で終了してしまいました。実はその前日、こちらも何度か足を運びましたがその都度目の前の行列を見て断念していた「スーパーエッシャー展」を何とか観られたのですが、10分で入れた割りに、入り口付近からまるで人の列が動かず、明らかにキャパを超えた人の群れに淀んだ空気のせいでどっと疲れてしまい、とてもその翌日に、さらなる混雑が予想される「ダリ展」に行こうとは思えなかったのです。おそらく、これが映画であればそれでも何とか行ったのでしょうが、モチベーションの差は、こういう部分に如実に現れてしまうものです。ただ、「スーパーエッシャー展」自体は非常に興味深く、子供の頃から幾度と無く目にしてきたあの次元が歪んだ平面やそのルーツに触れることが出来、今後の私の創作にもかなり役立つようなテクニックが満載でした。あまりに数学的という意味で、理路整然と狂っていたような印象をエッシャーその人には持ちましたが、その作品にはどこか遊び心(子供っぽさとでもいいましょうか)が潜んでいたような気がして、いつかその作品を部屋に飾りたいとまで思わせました。あの硬質なモノクロームが、大層私の好みだったのです。どこかハンス・ベルメールを思わせるような精緻でエロティックなリトグラフを発見し狂喜しましたが、なるほど、やっぱり自分の好みは変わらないようだと確認出来ました。しかし、あのように混雑した美術展には、今後あまり行きたくないなぁと思ったのもまた事実。映画に対するのと同じように、平日会社を休んで美術展に行くくらいの気概が必要ということでしょうかね。

さて、また明日から3連休なので、『スキャナー・ダークリー』と『ダニエラという女』あたりを観るとしましょう。
というわけで、皆様、本年もよろしくお願いいたします。