2007年04月12日

『キムチを売る女』の危うさとそれを補う強度

キムチを売る女キムチを売る女/芒種/2005年/中国・韓国/109分/チャン・リュル

今現在、ほとんどバブルのように過ぎ去ってしまったかに見える“韓流”とは別種のアプローチで、“韓国映画”の可能性を世に問うている貴重な劇場が渋谷にあり、そこでは「韓国アートフィルムショーケース」と題されたプログラムが組まれ、1/27より4作品が連続で上映されています。
韓国には、韓国映画振興委員会(KOFIC)という団体があって、昨年6月に、NPO法人 映像産業振興機構(VIPO)との間で協力覚書締結の調印が行われていたらしいのです。そしてこの特集上映も、KOFICによる全面協力によって可能になったようで。こういった動きは、一映画ファンとして喜ばしい限りです。

さて、「韓国アートフィルムショーケース」第一作目である『キムチを売る女』ですが、これは境界線ギリギリで映画足り得たと言う意味でアクロバティックな映画だと言わざるを得ませんが、しかし、初めてキム・ギドクを観た時に感じた、近くて遠いアジア映画に対する驚きを伴った衝撃と同時に、自分の映画史が塗り替えられるかもしれない喜びをあらためて思い出した次第です。

映画のことなど何も知らずにほとんど勢いで監督になってしまったらしい、作家出身のチャン・リュルですが、その辺りもキム・ギドクの出自に重なる部分があるような気がします。ギドクのように、チャン・リュルも一作一作で物議を呼ぶような作家のタイプかもしれません。いや、すでに国外で一定の評価を勝ち取っているギドクに比べるとまだまだ知名度がない分、恐らくチャン・リュルのほうが、許容できる人間と出来ない人間の溝を深めてしまうような作家ではないか、と。

ちなみにチャン・リュルは、本作を撮る前にロベール・ブレッソンの映画を参考にしたとパンフレットには書いてありましたが、なるほど、説明的描写や台詞をそぎ落とし、人間の行為を固定画面の中心に据え計算のもとにそれを非=劇的なリズムで積み重ねていくというあたりがどことなくブレッソン風だったと、私も思いました。もちろん、そう思わせてしまうくらいマイナスの部分もまた目に付いたわけですが。

『キムチを売る女』でまず印象的なのは、舞台となるロケセットです。
2軒の長屋のちょうど中心部分が空洞になっていて、ちょうどそこは人が行き来出来るトンネルのような役割をしている。砂埃が舞う荒涼とした中国北部の片田舎、むき出しの線路沿いにその建物はあって、向かって左手の部屋には若い娼婦たちが、右手の部屋には、主人公である母親とその息子が住んでいます。どうやらこの家族の父親は現在殺人罪によって服役中らしく、その事件が原因となって、母と子が故郷を追われたようです。家族の生計は、母親が作るキムチを無許可の露天で売ることで何とか立てている。
冒頭、キムチを売る女であるこの母親が、長屋の中心に開け放たれたトンネルから三輪車を漕ぎ出すシーンがありますが、その動作のあまりに緩慢な様、そこに漂う他人事っぽさが全編を貫いているという点において、今思うとなかなか魅せるファーストショットだったと思いました。ここに見られた緩慢な(虚ろな)移動は、ラストの実に惹きつけられる主観ショットにも繋がってくるのです。

『キムチを売る女』においては、映画における決定的なシーン、つまり事件そのものをまったく見せることがありません。画面に事件が生起しようとする前に、カメラはまるでそこから目をそらすかのようにパンしたり、あるいはショットの持続を断ち切ったりします。その代わり、といっては語弊がありますが、、先述した緩慢な自転車の走行だったり、野菜を洗う姿だったり、朝鮮族のダンスを教える様だったり、自宅の土間に殺鼠剤を撒くシーンだったりが、ことさら丁寧に描かれるのです。それらの何気ないシーンが、主人公の倦怠や過酷で乾いた日常を“表現”していたのだと言われれば、それに異を唱えるつもりはありませんが、それよりもむしろ、行動の背後にその理由が見えないということもまた、一つの(映画における)現実なのだと思わせる強さが本作にはあったような気がします。私はこの映画を観ていくうちに、“何故”という言葉を無意識的に禁じていたように思うのです。

ラスト近く、息子の死を契機として彼女がとる大胆極まりない行動は、その前のシークエンスで彼女がキムチを作っているシーンで直感的に察知出来ましたが、やはりそこにもっともらしい理由など必要ありません。ほとんどカタストロフィと言えるその事件そのものは画面には描かれず、ゆっくりと自転車で現場を後にする彼女の脇を通り過ぎていく何台かのパトカーと救急車さえ見られれば、それでいいのだと思いました。私は、あの『ラルジャン』において、無実の罪を着せられた男が、彼とはまったく無関係のある一家を皆殺しにしなければならなかったことに理由を探り当てるよりも、ただ彼の無表情とその行動にただ戦慄することを選びたい。

ラストシーンで、それまで常に地味なパンツ姿だった彼女が初めてスカートをはいて画面に登場します。それは何故か。無論、私にはわかりません。母親であり女でもあったはずの彼女が、全てを失った上で何らかの変貌を遂げたということなのでしょうか。面白いのは、何かを決意したように家を飛び出した彼女と同じように、カメラにもまた変化があったことです。
彼女の目をなったカメラは、自宅のはるか裏手にあるむき出しの線路のほうに、画面の揺れすら厭わずに歩み続けます。どちらかというと強固な固定画面が印象的だった本作で、最もエモーショナルなそのシーンの意味も、私は問わずにおきます。その時唯一聞こえてくる彼女の足音、乾いた砂を虚ろに、しかし力強く踏みしめながら歩く音と、目の前に広がる広大な景色。死を予感させつつ、生への渇望をも感じさせるその場面に、ただ感動出来ればそれでいいと思いました。有無を言わさぬカメラと演出力、それはやはりこの映画の強度なのだ、と。

2007年04月12日 19:13 | 邦題:か行
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