2006年12月25日

ジャック・ベッケル生誕百年記念国際シンポジウム〜ベッケルの偉大さを知る

去る12/22、アテネフランセ文化センターにて「ジャック・ベッケル生誕百年記念国際シンポジウム」が催されました。一日限りのこの画期的で野心的なシンポジウムのために内外から映画批評家や映画作家4人が召集され、またこのためにわざわざゴーモン社から『怪盗ルパン』の35mmカラーフィルムが取り寄せられたのですから、このシンポジウムの映画史的な価値もお分かりいただけるというものでしょう。

まずは参考上映としてベッケル1957年の作品『怪盗ルパン』が上映され、続いて映画狂人氏の基調講演、その後、日本から青山真治氏、フランスからジャン=ピエール・リモザン氏、アメリカからクリス・フジワラ氏によるシンポジウム、という感じで進行していきました。

下記は映画狂人氏による基調講演を聞きつつとったメモになります。抜け落ちている箇所もあるかとは思いますが、覚書として記しておきたいと思います。

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■1960年に54歳で他界したジャック・ベッケルは、90歳を超えたマノエル・ド・オリヴェイラや、80歳を超えたエリック・ロメール、アラン・レネにおける旺盛な作家活動に比べてみた場合、いかにも早すぎる死を迎えたと言える。つまりベッケルは、エルンスト・ルビッチ、フランソワ・トリュフォー、溝口健二とともに夭折の作家なのである。

■しかしながらベッケルは、生涯で13本の長編しか撮っておらず、その寡作ぶりはどこかロバート・ロッセンを思わせぬでもないが、ベッケルの映画史的な位置は今なお曖昧だと言わざるを得ない。

■『穴』や『肉体の冠』の興行的な失敗。とりわけ『肉体の冠』に関してただ一人、リンゼイ・アンダーソンが「カイエ・ドゥ・シネマ」に対する手紙という形で擁護した以外は、フランスの批評家たちの無理解はひどいものだった。ジャック・ドニオル・ヴァルクローズやアンドレ・バザンは『怪盗ルパン』に対し激しく非難をあびせ、トリュフォーですらこれを評価しなかった程である。

■蓮實氏が初めてベッケルに関する批評を読んだのは「カイエ・ドゥ・シネマ」においてエリック・ロメールが書いた記事だったが、それを読んで以来、批評家としてのロメールをいささかも評価していない。

■ゴダールも『リア王』においてベッケルの写真を入れ忘れたし、ドゥルーズも「シネマ1・2」を通して一切ベッケルには言及していない。つまり、これまで誰一人として無条件でベッケルを擁護した人間はいなかったのだ。

■世界には、とても同じ人間が撮ったとは思えない映画というものがあり、例えばホークスであれば『モンキービジネス』と『ピラミッド』がそれに当たるが、ベッケルの『肉体の冠』と『アラブの盗賊』もまたそのように言えるだろうが、若き批評家時代のフランソワ・トリュフォーだけがこの2作をともに擁護したことは重要である。

■一作ごとに様々な題材を扱うと思われているベッケルだが、その題材の多様さにもかかわらず、常に一つの構造とタッチが作品を貫いているのがわかる。(ここで彼の10本のフィルムからある共通要素のみが編集されたヴィデオが上映される)

■ベッケルの映画における共通した要素、それは平手打ちである。彼の全ての作品には、必ず平手打ちというファクターが存在している。唯一『エストラパード街』にのみ、シーンとしての平手打ちは無いのだが、劇中で「お前、平手打ちをくらいたいのか?」という台詞があったように、そこでは平手打ちをあえて見せずにいるだけだし、『最後の切り札』においても、それは同様である。

■平手打ちとは最も身近な暴力であり、あらゆる登場人物に平等に与えられる身振りでもあるが、ベッケル作品における平手打ちは、その背後に必ず権力関係が存在し、そして、平手打ちされるものは、まるでそれが儀式であるかのように、当然のものとしてそれを受け入れるのだ。

■『現金に手を出すな』では確かに銃の撃ち合いが見られるのだが、真にベッケル的な暴力とは、空間的に至近距離で繰り出される、つまり、相手に手が届く距離で繰り出される平手打ちであるし、その距離感覚は言い換えれば接吻できる距離に等しく、『モンパルナスの灯』に見られるがごとく、平手打ちという行為そのものにエロチシズムが漂うのもそのせいだろう。

■『肉体の冠』において、シモーヌ・シニョレは密告したかどで平手打ちされるのではなく、密告した男自身によって平手打ちされ、一言「最低の男だわ」と呟く。この“degueulasse”というフランス語は、いうまでも無く『勝手にしやがれ』のラストで、まさに密告者であるジーン・セバーグに対してジャン=ポール・ベルモントが呟く一言に重なる。つまりゴダールは、ジャック・ベッケルに多くを負っているのだと言えるだろう。

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今回は通訳付きということで、予め用意された原稿を読むという形での講演でしたが、やはりというべきかキーワードは平手打ちでした。途中で上映された10分程のヴィデオは、ベッケル的平手打ちのオンパレードといったもので、それを観ているだけでもかなり興味深いものでした。中でも印象的だったのは、『現金に手を出すな』におけるジャン・ギャバンの豪快極まりない平手打ちです。目の前に居る男も女も容赦なく平手打ちしていく様は、当時も今も、強烈なインパクトがあります。まったく理不尽な、と思わずにはいられないあの平手打ちの有無を言わさぬ圧倒的な力を改めて体感出来たことは、何よりの収穫だったと思います。近年では『その男狂暴につき』、最近では『ある朝スウプは』や『鼻唄泥棒』における狂暴な平手打ちを除いて、印象に残る平手打ちがないかもしれません。

さて、その後に行われたシンポジウムですが、3人ともあまりに熱いベッケル論を繰り広げ、時間が押しまくるほど。ジャン=ピエール・リモザン氏によるベッケル論では、そのリアリズム的側面を強調しつつ、ベッケルは真に60年代以降の作家なのだとの結論に、私は何度も肯いてしまいました。また、青山真治氏によるベッケル論では、ベッケル作品における鏡の使い方に注目するとともに、クローズアップにおける切り替えしがいかに重視されているのかを説きつつ、『ビッグ・バッド・ママ』や『NOVO』をベッケル的だと結論するというややアクロバティックな論考で大変興味深く、批評家であるクリス・フジワラ氏にいたっては、現在映画狂人氏が執筆中だというジャック・ベッケル論におけるがごとく、いかにベッケル作品から秘密(シンボリックなもの、あるいは謎めいたもの)が周到に排除されているかということを、そして“扉とベッケル”という視点に関してフリッツ・ラングを引き合いに出すという、映画史的知性に裏打ちされた鋭い論考を展開し、驚かされました。
彼らの話からは、今自分が全面的にジャック・ベッケルを擁護するのだという強い決意が伺われ、このシンポジウムを企画した映画狂人氏を中心とした確かな連帯が生まれていく現場を目撃したような感じがしました。このシンポジウムをきっかけとして、ジャック・ベッケル特集などが組まれたらそれはそれで素晴らしいことですが、とりあえず私としては、今観られるだけのベッケル作品をヴィデオでもdvdでもいいから早急に観直した上で、『怪盗ルパン』はやっぱり傑作に違いないということを確信したいと思います。実際、『怪盗ルパン』の面白さというか痛快極まるさまは、字幕の不在などを軽く忘れさせてくれたのですから。

ともあれ、会社を休んで駆けつけた価値は充分にあったと言えます。
私も微力ながら、年末から年始にかけて友人たちにジャック・ベッケルという名前を連呼しておこうと思います。

2006年12月25日 17:18 | 映画雑記
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Comments

>yasushiさん

ご返事遅れましてすみません。
「映画千夜一夜」にそのような一節があったのですか。すっかり忘れておりました。
そしてクルーゾーのこと、私はまったく知りませんでした。お恥ずかしい限りです。確かに今のところ、私の耳にも入ってきていません。
今回のシンポジウムも蓮實さんがいなければなかなか実現できなかった類のものでしょうし、そういう方が率先して出てこないと難しいのでしょね。
この時に観た『怪盗ルパン』は、今年のベストに入れようか最後まで迷った作品でした。

>ヴィ殿

そうですね、彼は確かに様々なドラマを撮る事の出来た監督だと言えるでしょう。年始は個人的にジャック・ベッケル週間にあてたいと思っています。


Posted by: [M] : 2006年12月31日 09:27

詳細レポありがとうございました。う〜ん、読んでるとやはり行かなかったの後悔しますね(苦笑)。私はベッケルの出会いはたしかユーロでの特集上映で「肉体の冠」「穴」「幸福の設計」「赤い手のグッピー」などが上映されたときでした。作品ごとにまったく違うテイストと、その完成度に驚いたものです。


Posted by: こヴィ : 2006年12月27日 05:46

お疲れ様です。
案の定、塀の中私は「ジャック・ベッケル生誕百年記念国際シンポジウム」なるものが開催されていた事実さえ知らなかったわけですが、「映画千夜一夜」(たまたま最近暇だったので実家から引っ張り出し読み返していたのですが)で蓮實氏がぽろっと口にした「ジャック・ベッケルという人が世界で一番好きな監督」という言葉には、その話の中では淀川さんに完全に流されてしまいましたので膨らみはありませんでしたが、やはり食い付かないわけにはいかなかった一言でして、読んだ当時から気にはなっていたものの、フランス本国で評判が悪いせいか現在の日本で上映される機会などまるでなく、観るのは諦めてはいたんですが・・・そういう意味でも蓮實さんの存在の大きさというもの、ありがたさというものをやはり改めて感じますね。

アンリ=ジョルジュ・クルーゾーも来年で生誕100年ですが、特集が組まれるような話は全く聞かないですが(調べていないだけですが)、企画を組んでくれるとこれもまた嬉しいがきりですが、映画が100年を過ぎそういった特集が最近多くなってきたことを良い機会に、ジャック・ベッケル然り、多くの作品が上映されるようなことが増えてくれるとありがたいですね。DVDやヴィデオでも、観れるだけありがたいのですが、それでも劇場で体験したいという欲望は尽きないですよね。

最近いろいろバタバタされていたようですが、身体には気をつけて下さい。では。


Posted by: yasushi : 2006年12月26日 11:27
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