2006年11月16日

『鉄西区』、映画を生きるということ

鉄西区鉄西区/Tie Xi Qu/2003年/中国/545分/王兵

これまで何度か見逃しつつ、本作だけは何としても劇場で観なければと決めていた『鉄西区』をやっと観る事が出来、私の観てきた中で最長の映画だという認識と、どうやら傑作らしいという風の噂を聞いたくらいの予備知識しかなかった私は、今、心底驚いているところです。何故ならこの映画は、まるで長くはない。いや、9時間5分という上映時間は一般的に言えば長いに違いありませんが、この映画体験は、ただ客観的に映画を“観た”という言葉では到底言い表せるものではなく、別の言葉を探すなら、この『鉄西区』という映画を“生きた”というほうが余程しっくりくる。この映画にいささかも長さを感じなかったのは、そういう理由からです。

第1部「工場(Rust)」導入部の長いシークエンスショットから、観る者はまるで、カメラの目が自分の目へとごく自然に同化したかのように味わうでしょう。いかにも映画的だと言いたくなる鉄道の緩やかな滑走とそこから見える風景には、しかし、特筆すべきドラマも事件の片鱗すら認められません。そこにあるのは、瀋陽という重工業都市における“ただの日常”であり、それ以上でも以下でもないという監督の透明な視線のみです。

そしてカメラは工場の中へと入っていきます。
談笑する人、仲間に散発してもらう人、風呂からあがって無防備に裸をさらけだす人、些細な諍いから取っ組み合いの喧嘩を始める人など、疲弊しきったような空気が充満した休憩室にいる人々を、あるいは、閉鎖を余儀なくされ、もはや何かを生産するという本来の意義を失いつつある鉄の塊(=工場)や、大きな音を立てつつもその作動がほとんど徒労にしか映らないような機械たちを、王兵のカメラはただ見つめる。対象と親密な関係を結んでこちら側に手繰り寄せるでも、対象をあちら側に突き放しシニカルな視線を送るでもなく、ほとんどそこに居ないかのように透明な視線と化したカメラの存在に真に驚くための4時間。それが、「工場」でした。

第1部ではほとんど廃墟になった工場と、それに寄り添いつつ共に死を待つばかりであるかのような労働者に焦点を当てていましたが、第2部「街(Remnants)」では、鉄西区の工場労働者住宅に住む若者たちが画面を占めます。
大人たちは日に日に逼迫していく家計を前に、ただ“どうやって生きていくか”ということに常に頭を悩ませていますが、その一方で彼らの息子や娘たちは、いかにもティーンエイジャーらしく異性への一方的な想いに悩んでみたり、恋人と口げんかを繰り返してみたりしながら、ほとんど無為に日々を過ごしています。特にやることがない彼らは、近所の雑貨店に屯して仲間達と話したり、誰かの家に上がりこんで時間の空白を何とかして埋めたりしながら生活しているのです。

彼らの表情や身振りには確かに屈託が無く、未だ幼さすら残ってもいる。しかし、大人たちに比べ生きる活力に溢れているはずの彼らには、どこと無く薄暗い影が落ちている気がしてなりません。それは恐らく、彼らの将来がどのようなものになるのかを考えても行き詰まるばかりで、ある種希望めいたものがほとんど見えないからでしょう。当局から一帯の住宅を取り壊すという発表があると、彼らの未来はいよいよ絶望的に暗い色合いを帯びていかざるを得ません。学校を卒業しても働く口が無い上に、住環境もより苛酷なものになっていくからです。
次第に取り壊されていく住居。開発業者に先んじて、自らの家を壊し始める人や、頑なに立ち退きを拒んで抵抗する人を、やはり王兵のカメラはじっと身を潜めながらただ見つめています。雪と埃にまみれた街に響くブルドーザーの轟音。その光景を観るにつけ、私は『ヴァンダの部屋』を思い出さずにはいられませんでした。ここには、当局と貧しい住民とによる、静かな、しかしのっぴきならない闘争が描かれているのです。それでも王兵は、そのいずれに加担することなく、時には彼らの家に入り込んだり、時には雪の中で途方にくれる人々を遠くから眺めたりしながら、彼らが生きるということの意味を自らに問いかけ、その答えを静かに模索しているかのようです。
まず目の前の人々を、風景を撮ること。
それがたとえある都市の崩壊であっても、王兵はその崩壊そのものを時間をかけてカメラに収める。第2部まで観終え、彼の覚悟のようなものがこちらにも伝わってきました。いや、むしろ我々自身が崩壊を見届ける覚悟を強いられた、といった方が正確かもしれません。

ある特定の人物(家族)にクローズアップしていないと言える「工場」「街」とは異なり、第3部「鉄路(Rails)」で王兵は、1つの親子に限りなく寄り添う形で撮影を進めていきます。
「鉄路」ではまず、1934年に日本によって敷設された北線、南線、中央線から成る三本の鉄道で働く労働者たちの働く様や、「工場」の時と同じように、休憩室で雑談したり食事をしたりする様が画面に登場します。やはり王兵は、彼らの傍に居ながらもその存在を消し、彼らの適当な働きぶりを、暇さえあれば休憩室でトランプに興じるある種のだらしなさをただ撮っています。
そんな彼らの中に、ある1人の、初老に近い男がいます。彼の名は“老社”。嘗て鉄道内の警察で働いていたこともあり、その縁で、本来なら居住を禁止されている線路沿いの区域に掘っ立て小屋を立てて生活しています。そして王兵は老社を追って、この小屋に入っていくのです。

まともな明かりも無く、あまりにも粗末なベッドと台所しかないようなこの小屋にいるのは、老社の他に彼の息子が1人と犬が一匹。この息子には弟がいるが、彼は学校の寮に暮らしているため、ここにはいない。そして老社の妻はといえば、家を出て失踪してしまっている。
王兵が息子にカメラを向けると、彼はそのレンズに向かって、いかなる表情も見せない。それは無関心からくるものというよりも、予め感情を奪われてしまったかのような表情の零地帯とでも言うべきものです。王兵は、彼を正面から捉え続けますが、やはり彼はただ闇雲にタバコの煙を燻らせながら、その場に王兵などいないかのようにベッドに寝転がっているのです。この動きの無さ、表情の無さは、被写体としていかがなものなのか、王兵は彼にどのような視線を投げかけているのか、などという疑問が涌いてくるほどでした。

さて、父親は石炭を盗んだりくず鉄を売買したりして何とか生きていくだけで精一杯、その息子は何をするでもなくただひたすら生を消費しているだけというこの粗末な家に、ある日、小さな事件が起きます。老社が警察に拘留されてしまうのです。老社が不在にもかかわらず、いつものように彼の家を訪ねる王兵。そしてカメラは再度、無表情で言葉を発することの無い息子へと向けられます。
すると、これまでカメラに対し、いや王兵に対してすら何ら積極的な態度を見せてこなかった息子が、部屋の置くから1枚の古びたビニール袋を持ってきて、その中から、彼が子供の時に父と撮った写真や、彼を置いて姿を消した母親の写真を出し、カメラ=王兵に見せ始めるのです。過酷な現実を正面から受け止めるにはまだ若すぎるこの青年にとって、大事そうにしまってあったこのビニール袋は、恐らく秘密の宝箱のようなものなのだろう。体はすでに大人でも、彼の心はまだ少年のように繊細だったのです。
そして彼は、自らそれらの写真を眺めつつ、不意に涙を流す。彼がその時、まだ母親がいた頃の、家族の暖かさに包まれていた頃を思い出していたのかどうかはわかりません。しかし、一切の言葉もなく、ただ大粒の涙をボロボロと落とす彼と王兵の距離は、最初にこの家を訪れた時とはまるで異なるものだったと思います。王兵の姿勢は終始一貫していますが、まさかこのような鮮烈な叙情性が画面を支配するとは思ってもみなかった私は、その画面にただひたすら感動に震えました。予測出来ない瞬間を捉えることの奇跡。王兵と鉄西区の1年半に及ぶ一見透明な関係性は、しかし、より確実で豊かなものとして画面に現れたのです。

鉄西区で働き、住まう人々の傍で過ごした1年半という月日をかけて撮られた、300時間にも及ぶ素材を通して、では王兵はどのような思いを抱いたのでしょうか。恐らく、ある結論が出ることなどなかったのではないかと思います。
例えば、一つの街が死につつある様を撮り続けることで、強大な権力に対する政治的な告発という姿勢をとることも出来たはずです。しかし王兵は決してそのような映画を作りませんでした。このような映画を撮る場合にはまず(政治的)主張ありきで、それを映像によってさらに強固なものにしていく、という方法論を、彼は最初から否定しているかのようです。事実、とあるインタビューで彼ははっきりと答えています。「政治には興味がない」と。しかし、にもかかわらず『鉄西区』と政治とは、深く関係していると言わざるを得ません。現代の中国で都市を描く場合、あるいは人を描く場合でも同じことでしょうが、それらと政治とは切り離して考えられないからです。監督の意図にかかわらず、政治というものは有形無形で画面に表出してくるでしょう。問題は、王兵の姿勢であり、本作を観る我々の姿勢でもあるのではないでしょうか。政治的な視点からだけで本作を解釈するのではなく、あくまで多義的に画面を捉えること。そして画面に映る人を、風景を、まるで自分がそこに居るかのように感じ取り、そこにあるかもしれない“真実”を求めること。それは恐らく、“開かれた映画”である『鉄西区』を生きるということに等しいのだと思います。

生きるということに定められた答えなどないように、『鉄西区』もまた、ある一つの答えを提示する映画ではありません。1年半の撮影期間中、王兵は「少しでも“真実”に近づこうとし、あるいは“真実”とは何であるのかを確かめようとしていた」と言います。この真摯な姿勢が、本作をより開かれた映画にしているのでしょう。ひたすら傍観者に徹することである街が死んでいく様を見届け、自分を含む人間という存在の無力さ、あるいは逆に、人間が秘めている思いがけない強さを同時に画面に定着させること。本作を、ドキュメンタリー映画の一つの到達点だと私が評価するのも、そこに起因しているのです。
それでも私に“真実”が見えたのかどうか……いや、そのように思考することをごく自然に受け入れさせることが、『鉄西区』という稀有な映画の存在意義なのでしょう。

2006年11月16日 18:00 | 邦題:た行
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Comments

>バーチーさん

あれはほんと、ズルイっすよね。
監督も予想してなかったと思うんですが。
映画の神が降りた瞬間、とでも言いますかね。


Posted by: [M] : 2006年11月18日 09:38

[M]さんの文章を読んで色々な場面が思い出されました。
第三部の親子の顔は浮かんでこないんだけど、ビニールに入った写真! あの場面はもう泣けて泣けて仕方が無かったですね。ズルイなぁなんて思いながら。


Posted by: バーチー : 2006年11月17日 09:58
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