2004年10月04日
『靴に恋して』、日本の女性は何を思うのか
シアター・イメージフォーラムにて、本作が長編デビュー作となるラモン・サラサール監督の『靴に恋して』を鑑賞。2回目で客席は4割程の入りでしたが、上映後外に出てみると70人くらいは待っていたようです。そのほとんどが女性だったという事実は、“グッチやプラダなど最高級の靴が300足登場!”とか“今を生きるリアルな女性たちが真実の愛を求めて疾走する”という宣伝文句が、ある程度機能したということなのでしょう。
そもそもこの映画の原題は『PIEDRAS』というもので、邦題とは全く関係の無い“(複数の)石・岩”といった意味です。文字通り“堅い”タイトルのままではどうにもまずい、という配給側の配慮でしょうか、スペインのファッション性(思えば過去のアルモドバル作品では、登場人物たちが着ている衣装のブランドが強調されていました)や、作品内容に全く関係ないわけではない“靴”を全面に押し出すことで、“お洒落で自立した女性のための映画”という位置付けにせざるを得なかったようです。確かに主人公は5人の“女性”なのですから、それは嘘でも誇張でもありませんが。
さて、そのような映画として『靴に恋して』を観た私としては、女性の群像劇として観ればそれほど悪くはなかった、というのが正直なところ。とはいっても途中までは全く乗れず、それは私が男性だからなのか、それとも、そういった先入観を捨ててもやはり好みではないからなのかと、少なからず考え込んでいたのですが、何の関係も無い5人が少しずつつながり始めるあたりからだんだんと画面にひきつけられ、最終的にはまぁ良かったんじゃないか、と思った次第です。
この映画はシネマスコープで撮られていましたが、例えばラスト近く、リスボンのとある埠頭である人間(ここはあえて隠しておきます)の遺灰を撒くシーンは、その横長の画面を上手く利用していて、印象的でした。あるいは、ほとんど男性かと思われるようなアデラ役のアントニア・サン・フアンと彼女を慕う高級官僚・レオナルド役のルドルフォ・デ・ソーザの別れが決定的になる場面。丈の長い枯れた草原のような場所にやや距離を置いてたたずむ2人を、引き気味のカメラで捉えるショットは、デビュー作にしては堂に入った感じでこちらもいいシーンでした。ついでにもう一つ付け加えれば、本作では、所謂“つなぎ”にそれなりの工夫がされていて、あるシーンの終わりがそのまま次のシーンの始まりでもあるといった編集がなされていました。想像するに、この群像劇を最終的にある一点に収斂させるのはほとんど力技だったと思いますが、その割にはある種の余裕めいたものを感じました。その時想起したのは、北野武の『HANA-BI』にあった1シーンでしたが、それはここでは置いておきます。
邦題では“靴”に焦点を当てているこの映画、チラシによれば“王子様のいない5人のシンデレラたちが、古い靴を脱ぎ、新しい靴に履き替えるように人生を変えることができるのか”ということが主題に当たるそうです。では、原題の“(複数の)石・岩”とはいったい何のことでしょうか。
画面を見る限り、説話上、ある意味を持った石や岩が出てくることはなかったと思います。とすれば、“(複数の)石・岩”とは、人生における困難やアクシデントの暗喩ということになりましょうか。誰もが一度は躓き挫折する対象としての石。そう解せば、なるほど、それぞれに悩みを抱える主人公5人(ひょっろすると彼女たちが“石ころ”なのかもしれないという可能性もありますが、ここでは無視します)が如何にして困難に対峙していくのかを描いていたことが思い出されます。
私はスペイン映画をそれほど沢山観ているわけではありませんし、ブニュエル、アルモドバル、アメナーバルくらいしかまともに観ていないのですが、その上でスペイン映画に対する印象を言わせてもらえば、倒錯が日常と違和感無く調和しうる土壌といますか、そんなものを感じました。セクシャリティに対する寛容度から言っても、そこにポップとしての軽さみたいなものを感じてしまうのです。この感覚が間違っているであろうことは充分自覚していますが、少なからずそのようにおもっている人は多いのではないでしょうか。
実は監督も俳優として出演しています。なかなか熱いものを見せてくれましたが、それがどんなシーンだったかは観てのお楽しみということで。
2004年10月04日 22:02 | 邦題:か行